村上春樹『ノルウェイの森』解説|やはり、100パーセントの恋愛小説。

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精神と肉体の間にある、回復の儀式としてのセックス。

この作品には<ココロ>と<カラダ>を繋ぐものとして性描写が多く出てくる。思春期の通過儀礼として性愛は、恋愛と不可分であり大きな影響を与えている。それは自身と他者を繋ぐコミュニケーションであると同時に、承認欲求であったり、 確認行為であったり、彷徨さまよう魂の行方ゆくえでもある。

ワタナベ、直子、キズキ、レイコ、永沢、緑。全員が普通の人間と比べて、どこかちぐはぐな異常をかかえている。しかし、“普通”の人間が生きる現実社会は、 実は“矛盾”に満ちている。彼らは矛盾だらけの人間世界に生きている不完全な人間なのだ。

セックスは精神と肉体の回復のための儀式でもある。それは時に言葉を失う孤独でもあり、それは時に言葉を越えた幸せでもある。ゲームとしての性交、精神と肉体を繋ぐ性交、そして肉体が拒絶する性交の三つが表現される。

・<ココロ>を介さない<カラダ>だけのゲームとしての性交

満たせない<ココロ>を<カラダ>で満たす。だが回復はせずに魂が傷ついていく。セックスは現代において、食欲や睡眠欲と同じように手軽な日常の行為となっている。

直子が目の前から消え辛い気分でいるとき、永沢と一緒に女漁りをしていたワタナベは、虚しく感じはじめる。

正直な話、僕はもうセックスなんてどうだっていいやという気分になっていた。(4章)

逆に、そこに信念があるのが永沢である。

永沢はワタナベと同じ寮で東大の法学部の学生で意識が高く、この寮でまともなのは自分とワタナベだけだという。

「俺とワタナベの似ているところはね、自分のことを他人に理解してほしいと思っていないところなんだ」(八章)

と言う。そして数えきれないくらいの女との関係がある。話がうまく、ハンサムで、親切で、よく気が利き、女の子たちは一緒にいると気持ちがいい。そして一応の理屈がある。

可能性がまわりに充ちているときに、それをやりすごして通りすぎることは大変にむずかしいことなんだ。(中略)自分に能力があって、その能力を発揮できる場所があって、お前は黙って通りすぎるかい?(三章)

これが永沢の考え方である、女性との性交はゲームである。そしてワタナベは永沢の中に、高貴な精神とどうしようもない俗物との背反性を感じ、この男はこの男なりの地獄を抱えて生きているのだと思う。永沢とワタナベはお互いを評しあう。

「あなたは僕がこれまで会った人の中でいちばん変わった人ですね」と僕は言った。「お前は俺がこれまであった人間の中でいちばんまともな人間だよ」と彼は言った。(四章)

永沢にはハツミという恋人がいる。理知的で、ユーモアがあり、思いやりがあり、上品である。しかし永沢は大学を卒業し外務省入りが決まり就職の祝いの席で、ハツミにあてこするように自分の女性観を説き、それを聞いたハツミは別れる決心をする。

永沢の言い分は、人が誰かを理解するのは誰かに理解してほしいからではなく、本人にしかるべき時期が来たからだという。ハツミは理解してほしいと望む自分が、間違っているのかと訊ねると、

「まともな人間はそれを恋と呼ぶ。もし君が俺を理解したいと思うならね。俺のシステムは他の人間の生き方のシステムとはずいぶん違うんだ」(八章)

と答える。これが永沢の考え方である。ハツミは永沢との結婚を信じこれまでの女漁りに耐えてきたが、彼を諦めてやがて別の男と結婚する。しかし二年後に自殺してしまう。

ワタナベはなぜハツミのような素敵な女性が、永沢なんかと付き合うのかと思う。やがて永沢はドイツに旅立つことが決まり、別れ際に

自分に同情するなと彼は言った。(十章)

この言葉はワタナベに人生の言い訳を許さない言葉だった。

・<ココロ>と<カラダ>を繋ぐ、絆を求める性交

緑は明るさを振りまく女性で、性の話題もあけっぴろげで頻繁に飛び出る。しかしそれは素直に懸命に生きることで、暗闇に引き込まれまいとする抗いでもある。

母が死に、父は脳梗塞を患い介護をしている。長い病院暮らしでお金も使い果たし疲れきっている。そんな中、自分の我儘を許してくれる異性だけが彼女の大切な人間として合格する。

ショートケーキの話を喩えに、私を中心に考えてくれる破天荒な愛がほしいという。無防備を装いながらも、緑もやはり外部との壁を立てている。

「ある種の人々にとっては愛というのはすごくささやかな、あるいは下らないところから始まるのよ。そこからじゃないと始まらないのよ」(四章)

緑もまた、

緑もまた、自分の正直な思いと、母親や親戚が大病で苦しみ死んでいく姿を見て、 生と死、そして恋や愛を語るのだった。緑の魂もうめいている。

やがて緑はワタナベとの相性の良さを感じとり関係を育んでいく。ただし彼と別れない限りワタナベと<カラダ>の関係を持つことはしない。やがて緑は彼と別れてワタナベを恋人にする<ココロ>の準備をする。

緑はワタナベに対して、直子と自分のどちらを選ぶのかを真面目に問う。

「彼と別れたわよ、さっぱりと」(中略)「どうして?」「どうして・・・・?」と緑は怒鳴った。「あなた頭がおかしいんじゃないの?(中略)彼よりあなたの方が好きだからにきまっているでしょ。私だってもっとハンサムな男の子好きになりたかったわよ。でも仕方ないでしょ、あなたのこと好きになっちゃたんだから」(十章)

ワタナベは今は身動きが取れないという。すると緑は答える。

「いいわよ、待ってあげる。あなたのことを信頼しているから。」(中略)「でも私をとるときは私だけをとってね。そして私を抱くときは私のことだけを考えてね」(十章)

さらに緑は続ける。

「それから私に何してもかまわないけれど、傷つけることだけはやめてね。私これまで人生で充分に傷ついてきたし、これ以上は傷つきたくないの。幸せになりたいのよ」(十章)

緑もまた、この不完全な世界の中で生きてきたのだ。

・<ココロ>は受け入れても<カラダ>が拒絶する性交

直子とキズキの関係は、なぜ二人の間で性交が成立しなかったのかは不明だ。直子はキズキを愛していたので、既にこの時には直子は精神的な障害があったのだろう。

「全然濡れなかったのよ」と直子は小さな声で言った。(六章)

ただその後の直子は二十歳で「ワタナベ」と関係を持つ。

「だってあなたと寝たとき私すごく濡れてたでしょう?そうでしょ?」(六章)

直子は自分の体がふたつに分かれていて、一方はキズキのいる死の世界、そして一方は生の世界を彷徨っている。そして瞬間、ワタナベと一緒に生きようと思ったのかもしれない。

しかし阿美寮で過ごすなかで、それは公正ではないと考えたのだ。

つまり自分は愛せないのに、ワタナベの愛を求めるのは片務的で正しくない。だから、せめて、直子はワタナベに、自分が存在したことを記憶していてほしいのである。

キズキを想いながらワタナベと関係を持ったことは、直子の哀しみをさらに深くさせている。その後は一切、不能であることを考えれば、二十歳という直子の<カラダ>の成熟が命の喜びの象徴として、キズキを思い受け入れた。ワタナベはキズキの身代わりである。その代償行為は懺悔となり、直子の魂はキズキのもとに向かう。

それぞれの性描写は細かいが、そこには届けたいメッセージがある。性の描写を生々しく誇張することで、より本質をはっきり見せようとしている。

思春期の恋愛の記憶とは、傷心を反芻すること。

「ノルウェイの森」は、京都の山奥の雑木林を拓いて造られた療養所「阿美寮」の光景。自分の歪みに順応できずに、歪みが引き起こす現実的な痛みや苦しみを受け入れられずに、そこから遠ざかるために入所している。

ここに集う人々は皆、自分たちをが不完全と知っていてお互いが鏡となり助け合う。精神を病み、生が死に覆いつくされようとする自分たちを ami(友だち)として静かな環境で矯正のプログラムを実行し、一般社会に再度、適応するための閉ざされた世界である。生きることを守られるのではなく、死なないことを守られている。

そして直子が心してレイコにリクエストするのが「ノルウェイの森」だった。

「この曲を聞くと私ときどきすごく哀しくなることがあるの。どうしてだかはわからないけど、自分が深い森の中で迷っているような気になるの」と直子はいった。「一人ぼっちで寒くて、そして暗くって、誰も助けに来てくれなくて。」(六章)

阿美寮には一度ここを出たら戻っては来れないというルールがある。原曲の「ノルウェー・・・・・の森」の歌詞の一節 “This bird had flown” は、その飛び立った鳥は生死のいずれかしか行きつく先はないということか。

レイコはもう一度、生きようとする。そして直子は、死を選ぶ。

直子はキズキに導かれるように雑木林で首を吊り “死” に向けて旅立つ。レイコはもう一度、人生をやり直そうと旭川へ“生”に向けて旅立つ。

ワタナベは自分に託され、守れなかった直子のの “生” に絶望しながらも、レイコによってさとされて、成長して大人になるために、緑とともに生きようともがく。

“一九六九年”の思春期の物語だが、人間関係や恋愛という意味では普遍的である。二〇二〇年代においても、人々はより個人主義の固い殻に閉じ込もっている。

硬直した構造や社会のシステムの中で、個々人は生きづらい。何が普通なのか、何が健常なのかが判らない。社会は、等身大の精神と肉体にとってますます堪えがたく辛いものとなっている。

キズキ、直子、ワタナベ、緑、レイコ、永沢、ハツミ、ここまで強い個性の人間は、なかなか現実には揃わないだろう。その意味ではバーチャルな登場人物の設定だが、ある種のデフォルメによって届けたいメッセージが明確にされている。

生とは何か、死とは何か、感情や思いを言葉で伝えることの難しさ。

極端すぎるほど率直で快活な「緑」に、ワタナベは<死>の匂いをふりきり<生>へ向かおうとする。自己を喪失するほどの深い哀しみのなかで<死>の連鎖から逃れようとする。

当時「100パーセントの恋愛小説」と村上は記したという。ほんとうは『これは100パーセントのリアリズム小説です』と書きたかったけど、そうもいかないので『恋愛小説』というちょっとレトロっぽい『死語』を引っぱり出してきたわけです」と述べている。

恋も愛も脳の作用だろうが<ココロ>のかたちを目の前に具体的に見せることはできない。言葉ですべてを伝えることは難しい、いや不可能だろう。

作品の評価は世代で異なるだろう。明治の文豪、漱石や鴎外あるいは大正に活躍した芥川や志賀、そして戦中戦後派の川端や三島などの近代文学を愛読した人々の反応、あるいは村上ファンの間でも性の描写などで意見が分かれるだろう。

デフォルメされたことで伝わる、人間の恋愛、生と死、言語と体のコミュニケーション、さらには俯瞰された共同体や国家と距離を置いたデタッチメントな生き方を、この作品は明確に示しており、それは現代も続いている。

冒頭、「ノルウェイの森」の音楽に、条件反射のように突然、深い<喪失感>が呼び起される。そして主人公はこの物語を書き進んだのだ。それは三十七歳の今だからこそ遠い記憶を輪郭づけることができ、生と死の意味を 確認することができたのだろう。

死が生の一部である限り、思春期の傷心は時々に沈思され、人は生きていくのだろう。

その記憶に激しく混乱し動揺しながら、ワタナベトオルは生を漂いながら旅を続けている。

逆説的に言えば<再生>は<喪失感>の一部のなかに存在する。

人間は孤独を抱きしめ、再び目覚め、成長していかなければならない。

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