村上春樹『眠り』解説|抑制された自己を逃れ、死の暗闇を彷徨う。

アンチ村上春樹は、知識人や文化人方面に多いのではとの印象を持つ。彼らは作品が出るたびにけなしてきた。事実に関して言えば、現代小説において日本の作家(いや世界の作家の括りでも)で、村上は世界中で読まれているのである。その親しみの大きな要素は、自我と自己の往還であり、潜在と顕在の意識世界を楽しめる。

現代に生きる精神の危うさに、治癒を試みる村上作品。

資本主義であれ、社会主義であれ、その統治の形態は不完全である。左右の論壇も一部を除けば不毛な議論ばかり。政治の参加だけでなく哲学や文学を思索する人々がいることは健全で、高度情報化の社会システムの歯車を強いられる人々の精神の危うさに、治癒の試みとして村上文学が貢献すれば、素晴らしいことではないか。

『眠り』は、社会に組み込まれた専業主婦と、1980年代前後から女性の自立を煽り立てた時代環境下で、板挟みになる当時の女性たちの煩悶する心の叫びである。

村上作品は<こちら側><あちら側>というユング心理学のようなシュールが、謂わば、お決まりの手法だ。アンチ村上の方々は、ペルソナやドッペルゲンガーや鏡像や影を持ち出し、潜在と顕在のふたつの自分世界を壁の向こうや井戸の底から自由に往還し、何でもありの物語にうんざりし、文学ではないと厳しく断じられる。

しかしミレニアムを超えて、欲望の資本主義の中、物語は人間の魂の救いではないか。効率優先の社会は、人間の精神を病み鬱の症状を増大させる。日本人の生真面目さは、満員の電車にも会社人の顔つきにもうかがわれ、今にも沸点に達しそうな兆候を感じてしまう。

あらすじと解説

<死は暗闇での覚醒状態> これは昏睡状況下での夢みる状態である。

物語は<眠れなくなってもう十七日めになる>と冒頭の一行に前置きがある。手品の種明かしは最初からされていて、寧ろ、その提示された世界を楽しむことになる。

十七日目、「自分は死ぬのだろうか」と「私」は思い、死の印象が綴られる。

「私」はそれまで、眠りというものを死の一種の原型と捉えていた。つまり私は眠りの延長線上にあるものとして、死を想定していた。死とは普通の眠りよりずっと深く意識のない眠りー永遠の休息と思っていた。あるいはそうじゃないかもしれない、とふと思った。死とは私が今見ているような果てしなく深い覚醒した暗闇であるかもしれないのだ。死とはそういう暗黒の中で永遠に覚醒しつづけていることであるかもしれないのだ。そう思うと「私」はとつぜん激しい恐怖に襲われた。

眠り』より引用

こうして「私」は、地下駐車場に降り、シティーに乗り込み港まで車を走らせる。

死を「果てしなく深い覚醒した暗闇」や「暗黒の中で永遠に覚醒しつづけていること」と定義し<死は暗闇での覚醒状態>とパラドキシカルなレトリックで表現する。後の村上作品の『アフターダーク』(2004年)のTVの向こう側で眠り続ける「浅井エリ」であり、その予兆は『ノルウエイの森』(1987年)の深い井戸を恐れる「直子」なのだろう。

十七日間、一睡もしないことは人間には不可能だろう。普通の思考では<昏睡状態での夢想>となる。しかし <昏睡状態> とは書かれていないし、如何なる原因で<昏睡状態>かの説明も、もちろん無い。

昏睡状態で夢を見ているのであれば、<あちら側>の世界を生きていることになる。だったら「どんな物語だって成立する」と投げ出さないでいただきたい。

状況がどうかは大きな問題にしないことである。覚醒していても、ぼんやりと自分の半生を反芻する昼さがりもあるし、バーの止まり木で思い出にふける深夜の自分もいるだろう。これも現実逃避という意味では、ほとんど同じことなのではないか。

日常の連続の中で、眠りであれ、覚醒であれ、ふと訪れる自我や実存への不安なのである。

昏睡状態の医学的な原因は物語からは不明だが、文学的な原因から主人公は闇の中で覚醒状態のようだ。病み始めた精神の兆候は、日常のそこ、ここの認識の変化にみられる。

それは三十になる 「私」 が感じ始めた<単調な日々>。夫と子供を送りだして買い物に行く。その後、掃除と洗濯をする。夫の職業は歯医者。「僕がハンサムなのは僕の罪じゃない」と夫は言って微笑む。いつも同じ言葉の繰り返し、私たちの間でしか通用しないつまらない冗談。

朝、八時十五分に車で駐車場を出る。「気をつけてね」と私が言う。「大丈夫」と夫が言う。いつも同じ台詞せりふの繰り返し。長く一緒に暮らす日常に、ふっと裂け目が入ってくる

夫は、世間のおおかたの人に好感を持たれ、安心感を抱かれ、「私」の女友達からも気に入られている。私は夫のことが好きで、愛している。が特に「気に入って」はいない。自分を冷静に見始める。

歳月とともに<生活の質は少しずつ変化>していく。「私」にとって、日常は制約となり、入り組んだものになっていく。私は体型維持のためにプールで泳ぐ。このひとときだけは、自分であるために大切な日課となる。

日記をつけても昨日と一昨日の区別もつかない。毎日がほとんど同じことの繰り返し。そういう人生に驚いてしまう。次第に、心からの幸せが感じられなくなる状況。自分が組み込まれているという実感。

十七日間の昏睡のなか<自我>を取り戻そうと、闇のなかを彷徨する。

「私」は洗面所の鏡の前に立ち、自分の顔をじっと眺める。すると私の顔は、私自身から分離していく。つまり、自分の顔には ふたつの顔があることを発見する。ふたつの像の重なりが<自分>である。<自我>と<自己>である。自分の中心部分である <自我(ego)>と、中心である自我を含む他者からの見え方としての<自己(self)>つまり妻であり母である役割。

この重なり(純粋に同時存在)が、次第にズレをたし始めるのだ。

それは結婚後の長い年月と共に次第に訪れる。結婚してからの「私」には、妻であり母である役割ができた。それが<存在価値>として。しかしもうひとつある、それは妻であり母である前の「ありのままの私」。重なるふたつの像の最初の「私」である。結婚をする前の自分一人の時間を持つ「自由な私」を確認し始める。

ある夜に金縛りに遭う。自分の足に水をかけ続ける不気味な老人を見る。この悪夢をきっかけに一睡もできなくなる。(実際は、ここで昏睡状態に陥り、夢を見るようになる)

結婚前の「自由な私」は、「お酒」も「読書」も「チョコレート」も楽しむことを許されていた。再び自我を開放して「自分の時間」を取り戻す欲求が膨張してくる。

「お酒」は、昔はそれなりに飲んでいたが、結婚してから飲まなくなっていた。夫は全く飲まない。こんなに腰を据えてじっくりと本を読むのは何年ぶりのことだろう。「読書」を始めても、普段は「子供のこと」や「買い物のこと」が頭に浮かび中断させられる。結婚するまでは本を読むことは私の生活の中心だった。

極めつけは「チョコレート」だ。夫が歯医者で甘い菓子が禁じられているという束縛感。その反抗心として、逆に欲求が大きくなり、チョコレートを欠かせなくなっていく。

この物語は主人公の昏睡状態下の夢であり<あちら側>に往くことで、「私」が結婚をして<抑制>されていると感じていた自己(⊃自我)を取り戻そうと17日の時間の彷徨の旅に出ているのだ。しかしその状態は、長くなれば長くなるほど覚醒しなくなる、つまりは<死>を意味する

さらに話は、惰性の日常での夫や家族の関係に及ぶ。「自由な私」を手に入れ始めた私は、夫のセックスを拒むようになる。夫への愛情が失われつつあることを知る。夫に対して興味・関心が無くなる。

プールに行って、何かを追い出したいと感じた。この意味は、組み込まれたものの破壊であり回帰願望である。私はもう一度、自由を手に入れ謳歌したい。

「私」は妻として母としての役割を「義務」と捉え、何も考えずに果たしている。私は義務として買い物をし、料理を作り、掃除をし、子供の相手をし、セックスをする。難しいことではない、寧ろ簡単だ。頭と肉体のコネクションを切ればいいだけなのだ。機械的に役割をこなすだけである。

私の変化に夫も息子も姑も気づかない。彼らは「自由な私」ではなく、「役割をこなしている私」を何の疑いもなく見ている。彼らは「私」の自我とは接していないのだ。

<自我>と<自己> ふたつの像を重ね生きるか、引き離され死を選ぶか。

私は眠れないのに、体は衰退することもなく、ますます元気になっていく。シャワーを浴びた後、裸のまま全身鏡の前に立つと、はちきれんばかりの生命力をたたえているのを発見して驚く。ますます艶がでてハリがあった。そして自分が奇麗になっていることに気づき、若返って見えた。

「私」は“眠りとは休憩である” ということを、ある本から学ぶ。人間は傾向的に思考し行動するもので、眠りはその傾向のかたよりを調整し治癒する行為だということを知る。そこから外れると「存在基盤」を失うことになると、著者は書いていた。

そして「私」は、無感動に機械的に役割をこなしている傾向的な家事作業を思いつく。すると私は傾向的に消費され、治癒するために眠ることになる。眠りなんかいらないと思う。「私」は、私が傾向的に消費されたくないと考える。

「存在基盤」を失っても、自由を求めようとする。私は眠れないことを恐れなくなる。眠れない時間の分、人生が拡大しているのだと考え始める。

夫の寝顔を見ると、目の下のホクロがいやに大きく、下品に見えた。まぶたの閉じ方も品性が無く、まるで阿保みたいに眠っている。傾向的に消費されるだけの夫に嫌悪感を抱き始める。思えば、子供の名前のことで私と姑との諍いがあり「私」を庇ってくれなかった夫の遠い記憶が蘇る。そこがひっかかりの最初だったことに気づく。

すると「私」の息子に対する気持ちにも変化が生じる。夫に続いて息子の寝顔を見て、その寝顔の何かが神経を苛立たせる。それは寝顔が父親とそっくりだからだ。さらに姑の顔とそっくりなのだ。そして「私」はいつか将来、息子も軽蔑するようになると確信する。

そして夫への愛情や子供への母性愛を失っている理由も、夫とその家族の血統的なかたくなさ、自己充足性からくる傲慢さが嫌いだからと思う。優しさ、気配り、真面目、仕事熱心、誰にでも親切。そんな「文句のつけようのなさ」が、「私」のかんにさわり耐えられなくなる。

こうして「私」は、妻そして母としての「存在価値」の上での自分ではなく、現在の自分こそが<本当の自分>であり、これまでの「私」は支配されていたことに気づく。

この<眠り>は、生から死へ向かっていく過程であり、<生>と<死>の間を彷徨っている。そこには志賀直哉の「城の崎にて」のような鉄道事故の後、生から死を見つめる静かな思索などではなく、あくまで剥き出しの<自我>が現われている。ある意味では幸せな状況かもしれない。

何かが間違っている、それでも私はどこに連れていかれることもない。

昏睡状態から<死>へ向けて、楽しい旅路を歩んでいる。そこに、最後は二人の男に車をゆすられる。<生>へ呼び戻そうとする主人公の「夫」であり「息子」です。

何かが間違ってる と「私」は気づいているが、何が間違っているのか、私にはわからない。濃密な闇が詰まっている。それはもう私をどこにも連れていかない。

逆に言えば、「眠り」から「覚醒」することが<生>に戻ることだが、「私」は揺すられることに恐怖を感じる。最後の文章には、さほど幸せは感じていないようだ。

果たして、覚醒するかどうかは不分明ながら、「私」にとって<生>への帰還は、自己抑制の連続の世界に戻ることを意味する。そこには、退屈、閉塞、不満、空虚、隷属・・・・きりなく続く<私でない私>が時間を埋めていくのです。それが幸せなのか。

しかし「私」には、<死>の選択は違うような気がする。そして多分、不倫も離婚も選択肢には無い。何かが間違っていることを気づいてはいるのだ。

もちろんアンナカレーリナの話(不倫の果ての鉄道自殺)を現実に持ち込むことは無い。不倫の代償は、家族の崩壊であり、人生の転落の危機に瀕することになる。物質文明の消費社会、無意識の打算において合理的な選択ではない。「私」は、医者の妻であり裕福な家庭を築き、勝ち組なのだ。

初読では、不気味な怖さを秘めているが、以上のような前提で再読すれば、結婚という別人格の夫婦二人、さらには子供を得て家族という単位から、結婚前の「私」だけだった自由な時間への回帰願望への煩悶とわかる。

一人称単数の語りで、彼女だけの独身時代の甘い記憶を堪能しながら、自意識が強く自己価値を頂点とする自我肥大の自分が、主人公にとっての忘れがたい<生>の記憶であることを証明する。

きっと日本だけではなく世界の人々が同じ精神的な生き辛さを実感しているのである。この『眠り』で遭遇する世界は、時間総量の意味で実現不可能な世界だし、現実なら解離性同一障害のリスクもある。

この世のどこかで、裕福で成功した家庭でも、不倫や夫婦の爭い事で崩壊は起こっている。日本の年間離婚件数は20万件程度、文字通り仮面夫婦も存在することだろう。

あるいは失踪という選択。あなたのお住いの最も近い交番の掲示板をご覧になるといい。何と失踪者の多いことか。掲示板には常時、複数人の失踪者が顔や服装の特徴と共に掲示されている。彼ら、彼女らは一体、何処で何をしているのか。

明治の時代から夏目漱石、政宗白鳥、芥川龍之介など多くの文豪や小林秀雄など文芸評論家が、個人主義や利己本位の将来を西欧型の自我や民主主義の帰趨とともに憂いたが、現代社会において個を絶対視し、病んだ精神を治癒しながら生き抜くための平衡感覚の大切さをこの作品『眠り』で味わえる。

人間は個としての自我を優先し、利己本位の生き方を忘れ去ることなどできない。近代人は永遠に実存に悩まされているのである。