井伏鱒二『山椒魚』解説|悪党になった山椒魚と、悟りをひらく蛙。

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頭でっかちの悲劇

「山椒魚は悲しんだ」彼は彼の棲家である岩屋から外に出てみようとしたのであるが、頭が出口につかえて外に出ることができなかったのである。

引用:井伏鱒二 山椒魚

「 頭が出口につかえて外に出れない・・・ 」とは、これはもう絶望的。その後の展開を暗示するように、一気に引き込まれる冒頭の書き出しですね。棲家の穴のなかに二年間とは長い。思考の穴の中にじっと潜むと、世間に疎くなり、まさに頭でっかちになる。そして永遠に外に出れないと判った結果、次第に性格が悪くなっていき、たまたま岩屋に紛れ込んだ美しい蛙に意地悪な挙に出る。蛙を穴に閉じ込め、同じ運命に引き込んでしまいます。

ところが、蛙は毅然と戦う、そしてついには悟りを開き、最後は山椒魚を思いやりながら死んでいく。残された山椒魚は、ひとり孤独な死を待つのみとなってしまいます。

あらすじ


山椒魚は、岩屋のなかで二年間、棲んでいました。そして外に出てみようとしたら、頭が大きくなっていて、出れないことに気づきます。「何たる失策か」と思い、ただただ狼狽します。

こうなれば俺にも考えがある!などと強がるのですが、考えなど、あろうはずがありません。

寓意に満ちた作品なので、人間の社会に寄せて解説してみます。

この山椒魚。どうも覗き見志向で、世間を批判するのが好きなようです。それでいて、世間知らずの天邪鬼あまのじゃくのようです。

山椒魚は、これまでは岩屋の出入口に顔をつけて、外の光景を見るのが好きでした。

ほの暗い場所から明るい場所を覗き見するのは興味深いことですが、決して、多くのものを見ることはできません。谷川というものは、大きな急流となったり、よどみを作っていたりしています。激しく流れる時もあり、静かな時もあるのです。

ここで作者は、見識が偏ったものになることをたしなめています。

つまり山椒魚には、谷川の一部しか見えていないのです。社会や世間の一部と言っても良いですね。淀みとは、川の流れが止まているところ。急流の反対なので、「平凡な日常の風景」なのかもしれません。

そこでは水底みなそこに生えたひとむらの藻が、ほがらかにに発育をして水面まで一直線に伸び、水面に達すると藻の花をのぞかせています。

また、多くのメダカたちは藻の茎の間を泳ぐのを好み、群れをつくり互いに押し流されないように努力しています。ひと群れは、右に左によろめいて泳いで、先頭が行く方向に従い、群れもその後を続いています。

山椒魚はこの光景を、メダカの集団のよろめいている姿を先頭に判断力が無く、残りが追随していると見なしています。自由が無い状態と考え、「何という不自由な奴らだろう」嘲笑します

その視点は、先導者のいない中で右往左往する民衆を喩えているようです。

そして水面に散った藻の白い花弁が、淀みの渦に巻き込まれ吸い込まれるのを見て、「目がくらみそうだ」とつぶやきます。その視点は、暗闇の向こうの眩しい光景への嫉妬や負け惜しみでしょうか。

ある夜、岩屋の中に小エビが紛れ込み、山椒魚の横っ腹にしがみつき、岩と間違えて横腹に卵を産もうしているらしい。山椒魚は小エビの見当違いのことを気にしたり、物思いにふけっている様子を「莫迦だ」と自慢げに語ります。

頭の悪い無知な者は、物事を深く考えても無駄と言わんばかりですね。

山椒魚は、何時までも考えている場合ではないと、何度も岩屋の出口に突進しますが、どうにも頭が穴につかえます。やがて目から涙が流れます。「ああ、神様」。たった二年間うっかりしていただけで、その罰として一生涯この穴の中に閉じ込められてしまうとは・・・

岩屋からどうしても出られないことが分かると、どうして自分だけがこんな身の上なのかと気が狂いそうになり、神は横暴だと思います

山椒魚は、自己責任ではなく責任転嫁をします。被害者意識が強いようです。

岩屋の外で二匹のミズスマシを蛙が追いかけています。これまでは、水すましと蛙の活発な動作と光景を感動の眼差しで眺めていましたが、辛くなり目を閉じてしまいます。すると闇だけが広がり、独りぼっちの孤独をあじわいます。

巨大な際限のない暗闇が広がり、絶望的になり、山椒魚はすすり泣きます。その声は岩屋の外にも聞こえています。

寓意として、知識ばかりの頭でっかちな人間が過剰に過信して、高いところから、あるいは安全なところから世間を見て評論しているような姿です。

ところが自身の身の上に起こった出来事に関しては、己の不注意は棚に上げて不条理を主張し神を恨む。そして目の前の美しいものを否定するために、見ないようにして自身の暗黒の世界で痩せ我慢をします。山椒魚も気の毒ではありますが、それが山椒魚の実態ですね。

周囲を莫迦にして自由が無いと嘲笑するが、自らが孤独と絶望に陥ってしまいます。

悲嘆にくれる山椒魚は、次第に性格が悪くなり、ついに悪党になります。

ある日、あの活発な動作と光景を感動の目で見ていた蛙が、岩屋に紛れ込んで入ってきます。そこで、山椒魚は、蛙を閉じ込めてしまいます。

自分と同じ状況にして痛快に思います。一生涯、ここに閉じこめてやると呪いの言葉をかけるが、蛙は安全な凹みを探して応戦し、「俺は平気だ」と山椒魚に応えます。

「出てこい」と山椒魚はどなり、そして口論が始まる。「出ていこうが、いくまいがこちらの勝手だ」と蛙は答え、お互い「お前は莫迦だ」「お前は莫迦だ」と何度も繰り返します。

互いに反目し合ったまま一年が過ぎて、冬眠から目覚めても口論は続きます。蛙は山椒魚の頭がつかえて出ていけないことを知ります。しかし蛙も用心深く岩の凹みから降りてこれない。「出て行ってみろ」「降りて見ろ」とお互いののしり合いを続けます。

一年が過ぎ、また一年が過ぎ、夏が来ます。

二年目の夏は、心身ともに衰弱して持久戦となり、お互い黙り込んでいます。それでも蛙は杉苔が花粉を散らす光景を見て感動のあまり溜息をもらしてしまいます。

蛙は、美しいものを見て感動する心を失っていないのです。

蛙が美しさに溜息ためいきをつきます。すると、山椒魚はこれを聞き逃さず、「もう降りてきても良い」と友情を瞳に込めて「許す」「そこから降りてこい」と言いますが、蛙は空腹で動けず「もう駄目なようだ」だと言います。

しばらくして山椒魚が「お前は、今どういうことを考えているのか?」と尋ねると、蛙は「今でも別にお前のことを怒ってはいない」と答えます。

解説

周囲を莫迦にして自由が無いと嘲笑するが、自らが孤独と絶望に陥る

頭でっかちの山椒魚は、あれこれと知的ぶった言説を繰り返しますが、自分に訪れた不幸に対して、今まで感動の目で見ていたもの、素晴らしいと思っていたものに対して復讐を企たくらむ。そしてあろうことか生殺与奪を握ろうとする

蛙はどうでしょう。泳ぎ回る自由を山椒魚に奪われて、穴の中に幽閉されてしまいますが、それでも、決して屈することなく、美しい世界に感動する心を失いません。そして相手を憎まない境地に辿り着きます

山椒魚は、相手が泣きごとを言い、許しを懇願するのを待ちますが、結局、蛙は、強い意志を持ち続け、死を選びます。

最後は、山椒魚は偽善ぶって友愛をみせるのですが、蛙は「今でもべつにお前を怒っていない」と悟りを開いた物言いです。

相手が泣きごとを言い、許しを懇願するのを待っていたが、結局、相手は自分がいかになろうとも強い意志を持ち続けで屈服をせず死を選んだのです。

迷い込んだ蛙を幽閉して罵り合うも、蛙は悟りに達し自らは取り残される

作品の理解の仕方は、それぞれなので、知識人が幽閉されて、そして悟りをひらくまでの物語と理解することもできなくはありませんが、やはり蛙の方が、被害者でありながら、最後には「今でもべつにお前を怒っていない」と話しています。

そして花粉の美しさに溜息をもらし、蛙を憎むことなく死んでいきます。

コップの栓が抜けないように、頭がつかえて外に出れない山椒魚の絶望に対して、道連れにされた蛙が最後には美を感じ心静かに死を待ちます。山椒魚の方は、やはり改心してはいないように思います。

頭でっかちの評論家への救いのない絶望と、美しいものを愛でる感受性を失わず、生を精一杯全うすることの清さを対照的に描いた作品ですね。

山椒魚を頭の大きさを強調し、頭でっかちの天邪鬼あまのじゃくな理屈っぽい人間に見立てます。

自分の不注意を棚にあげて、他人を憎み、不幸に陥れることを考え、ついには、悪党になってしまった山椒魚と水のなかを気持ちよく泳いでいたのに、意地悪にも閉じ込められるけれど、瑞々しい感受性を失なわず、美しさをで、しまいには悟りをひらく蛙の対比が描かれます。

自身の境遇で悪党になった山椒魚と、閉じ込められても屈しない蛙。もうすぐ死んでしまう蛙の後には、山椒魚は、何者とも心を通じあうことなく、一人孤独のなかで死ぬことになるでしょう。

頭でっかちの評論家はやめて、感受性を大切に、各々の生を精一杯全うすることのすすめですね。