村上春樹『品川猿の告白』解説|片想いの記憶を、熱源にして生きる。

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猿が人間に恋をする。それは叶わぬこと。そこで好きな女性の名前を盗んで、大切に温めて、生きるエネルギーに換える。果たせぬ想いを抱きながら、生きていく糧にする。年老いた品川猿が恋の記憶と共に余生を送る。デタッチメントとアフォリズム。それは自律して生きる村上ワールドが読者に届けてくれた想いだったのかもしれない。

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解説

決して実現することのない、究極の恋情と究極の孤独。

主人公の僕は、5年前に群馬の温泉旅館で年老いた猿に出会った。

猿は人間の言葉をしゃべり、ビールを飲みながら、片想いを語る。「品川猿」と呼ばれているという。

聞くと東京の品川区の御殿山あたりで暮らし、ご主人は大学の先生で音楽好き、その影響でブルックナーが好きだという。

猿は品川を力尽くで放逐ほうちくされ高崎山に放たれたが、他の猿たちとうまくいかずに群れを離れて、一人で生活する「はぐれ猿」になった。

最も心をさいなんだのは女性関係だという。猿を愛せず、人間に恋をする。満たされぬ恋情を解消するために 女性の名前を盗むようになった。

決して叶うことのない究極の恋情。猿社会に属せず、人社会にも属せず、ひなびた温泉宿で究極の孤独に暮らす。

恋した人を強く思い、念力を使い、集中力と精神的エネルギーで、名前を盗んでしまう。肉体の関係はもちろんなく、思い出のなかで名前と共に生きていく。

記憶のなかで片想いの名前が生き続けることで、想われた女性の方は一瞬、名前を喪失してしまう。ふとしたときに自分の名前が出てこなくなるのだ。

名前は個を識別する重要な役割があり、一瞬でも欠落することは、アイデンティティを一瞬、奪うことでもある。

品川猿の気持ちも分からぬではないが、猿に勝手に恋をされてアイデンティティを奪われる身もたまったものではないようにも思う。

年老いた品川猿って何の寓意なのだろう? 猿社会と人間社会のマージナルな状況下で、人間を一方的にプラトニックで愛する。それは村上自身の表現者の眼に映る世界なのかもしれない。

もしあなたが女性で、ふと自分の名前を忘れるようなことがあれば、品川猿が恋をして名前を奪っていったのかもしれない・・・。そのときは何か自分のIDが明記された免許証や保険証やパスポートなどが無くなっていないか確認しましょう。

品川猿が名前を盗み、あなたの名前の厚みが薄く、重量が軽くなった証拠なのです。そしてその分、あなたは記憶を失くし、そこに村上ワールドが生まれているのかもしれません。

あなたが忘れた名前を思いだそう(=あなたがアイデンティティを探す行為)とするとき、それは品川猿のせいで、良心の呵責かしゃくさいなまれるのだが、どうしてもドーパミンがそうするように命ずると言う。止められず、抑えきれないのだ。これは作家の業ということか。

それは相手がすっかり忘れたこと、記憶にも留めていないような事でも、いつまでも強く心に残っている<誰か>がいることでもある。

遠目で観れば気づかないが、至近で観ればピース(≒時空間のひとかけらのようなもの)が欠けていることが分かるような。その欠けたピースは誰かの幸せ(≒品川猿のような)に貢献しているのだ。

彼女の一部分は私の一部分となり、行き場を持たぬ恋情はつつがなく満たされる。

そうして品川猿は、愛に関しての持論を述べる。

愛が消えても、愛がかなわなくても、自分が誰かを愛した、誰かに恋したという記憶をそのまま抱き続けることはできます。それもまた、我々にとって貴重な熱源となります。

品川猿の告白』より引用

こうして品川猿はかつて恋した美しい名前を大事に蓄え、ささやかな燃料として身を温めつつ余生を送るのだった。

動物が登場する不思議な世界

『品川猿の告白』は、2005年の『東京奇譚集』に収録された『品川猿』の続編の位置づけになる。

前作は[心の闇]をテーマにしており、猿が名札を盗むことで主人公みずきの潜在意識にある「家族に愛されなかった」記憶を失わせるが、名前を返すことで「心の傷」ときちんと向き合い生きようとするお話。今作は品川猿自身の「告白」。

どこにも属せない品川猿が、恋情と孤独のなかで、片想いの記憶のみに生きる老境を描く。

村上作品には動物が多い。長編では実際の動物から空想上の生物や観念上の魔物までさまざまなに登場して全体のコンテクスト上で重要な役割を果たしている。

日本の古典やギリシャ悲劇、あるいはユング心理学の精神世界で、人間の鏡象や表層/深層や現実/非現実が描かれる。特に短編のなかで登場する場合は、動物と人間は共振する、ナラティブな展開のなかにアフォリズムを散りばめていく。

『象の消滅』では、町の再開発で動物園が廃されることになり動物たちは他へ移籍するが、老いた象だけは引き受け先がなく取り残される。ある日、きちんと鍵をかけた足枷に繋がれたこの老象が、象舎で老飼育係とともに光のなかで消滅していくのを主人公は目撃する。それを理解してくれそうな女性に話すと、当然ながら信じてもらえない。画一化されていく社会からの淘汰や感情が失われる世界の現実を描く。

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動物と語らうことで、寓話の世界に誘いながら人生の箴言を届けている。

作品の背景

『一人称単数』とは、世界のひとかけらを切り取る「単眼」。しかし切り口が増えると「単眼」は絡み合った「複眼」になるという。スーツを着て街に出かける「私」は村上自身なのだろう。29歳でデビューした作者も70歳を超えた。この短編集は作者が人生を回顧しながら書かれている。

大ベストセラー作家ゆえに、また文壇や文芸評論家との付き合いを好まず、一方的な評価に晒されてきた。一人の作家の眼が時代を観つづけてきた。『風の歌を聴け』から40余年、1960年代以降の政治の季節を経て1980年代を走り抜け、ミレニアムを過ぎて、今2020年代に入る。人々は過呼吸気味な情報のなか、急速に変化する社会の中で個のアイデンティティを探し続けている。

短編集のタイトルでもある『一人称単数』の最後の一文は、「恥を知りなさい」とその女は言った。で物語が閉じられる。作者の人生の軌跡が誤解や人を傷つけることもあるだろう。過去、現在、未来を往還する不思議な時空を、感性と自虐とユーモアで包みこむ村上ワールドを味わうことができる。

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発表時期

2020(令和2)年7月、文藝春秋より刊行。村上春樹は当時71歳。『石のまくらに』『クリーム』『チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ』『ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles』『ヤクルト・スワローズ詩集』『謝肉祭(Carnival)』『品川猿の告白』以上は、「文學界」にて初出。『一人称単数』のみ書き下ろし。収録は全8作品。