村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』解説|閉ざされた自己の行方、心の再生は可能か。

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物語の主人公は、強い自我を持つ都会人。博士の実験で脳にある思考回路が埋め込まれ「私」の日常がなくなっていく「ハードボイルド・ワンダーランド」の物語と、その深層心理が街として映しだされた「世界の終わり」の物語。表層(現実世界)の意識を奪われ、深層(想像世界)の意識に閉じ込められた自己を描く。影を剥ぎ取られ心を失っていく「僕」が最後に決めた選択とは何か?

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登場人物

ハードボイルド・ワンダーランド(奇数章)


主人公で35歳、離婚歴あり。組織から仕事を受ける腕利きの計算士だが協調性に欠ける。

老博士
生物学者でいろいろな研究をする。計算士の「私」にシャフリングを依頼する。

太った娘
博士の孫娘で17歳、肥満だが魅力的。ピンクの色を好み、メロンの香りがする。

図書館のリファレンスの女の子
29歳、夫と死別。髪が長く細身で美人、胃拡張で食欲が旺盛。一角獣について調べてくれる。

ちびと大男
第三極を名乗るが実は記号士、ちびは緻密で大男はすごい破壊力で「私」の部屋を壊す。

やみくろ
東京の地下に地下道を掘りめぐらし、集団で生きる邪悪な生き物。知性があり人間を憎む。

世界の終り(偶数章)


主人公。外の世界から街に入る時、心である影を剥ぎ取られ図書館で<夢読み>をする。


主人公の心。街に入る時、門番が僕から引き剥がす。街のあり方を疑い脱出を計画する。

一角獣
街に生息する金色の獣。心を吸い取り脳に貯める、清らかで美しい生き物で冬に多く死ぬ。

図書館の女の子
一人で番をして僕の<夢読み>を手伝ってくれる、僕はどこかで会ったような感じがする。


<街>と<外の世界>を自由に行き来できる唯一の存在。壁の向こうの世界を象徴する。

解説

人間は表層(顕在意識)と深層(潜在意識)のふたつの世界を生きている

村上春樹さんは、もちろん作家ですからアクティブイマジネーションのような手法で、無意識下の想像世界をふたつ同時に作り上げたのでしょうか。

日本のユング心理学の第一人者の河合隼雄と対談したり、『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』ってインタビュー集もあります。まさに一人一人が独自の物語を生きることを大切に思う作家なんですね。

この作品は、

「私」という人間の顕在意識、日常を生きる心や身体からだの意識、つまり自我が奪われ現実世界が失われていく姿をユーモラスに描く波乱万丈な冒険活劇の<ハードボイルド・ワンダーランド>と、「僕」という人間の潜在意識、記憶のずっと奥底にある古層を訪れて、思念が映し出されている<世界の終り>の静寂のなか、古い夢を読みながら心を再生していくお話です。

交互に章を読んだ方が楽しめるのですが、『ハードボイルド・ワンダーランド』の自我がなくなった後に意識の核である『世界の終り』が現れるかたちになりますので、ここではその順でお話をさせていただきます。

科学技術の進化、そして二極分断される世界と人々。

近代化とは文明化とも言えます。その先端がデジタル情報技術。その意味では 『ハードボイルド・ワンダーランド』 の主人公の「私」は情報化社会の犠牲者です。そして現実世界には常に対立構造がある。組織(システム)に属する計算士は、暗号化して秘密を守る側=これは秩序、工場(ファクトリー)に属する記号士は、暗号を解読し盗む側=こちらは混沌。

この混沌には、東京の地下の闇を支配し、目をもたず、死肉をかじり、知性があり、人間を憎み集団でうごめく邪悪な生き物「やみくろ」も加担して襲いかかってきます。こちらは非科学的な闇の化け物です。

博士は組織(システム)に属していましたが、研究の中立性のため組織を辞めます。ピンクカラー好きの太った孫娘は、博士の言葉をこう伝えます。

「計算士の『組織』(システム)と記号士の『工場』(ファクトリー)は同じ人間の右手と左手だと祖父は言っていたわ」「つまり『組織』(システム)も『工場』(ファクトリー)もやっていることは技術的には殆ど同じなのよ」「『組織』(システム)と『工場』(ファクトリー)が同じ一人の手によって操られているとしたらどう?つまり左手がものを盗み、右手がそれを守るの」(29章)

世界は左も右も大きなひとつの力で操られているというのです。うーん、さすが天才科学者、言うことが真理をついていますね。

被害者は、自己本位な巻き込まれ系の都市生活者。

物語の主人公の「私」は35歳。仕事はフリー契約の計算士で組織(システム)側の人間。優秀な暗号処理のエンジニアで報酬も良い。離婚歴あり、子供なし。友達も恋人もいない。ただし離婚自体に大きな傷心の後はなく軽やかな生き方です。

料理が上手く、音楽の趣味も良く、文学への造詣も深い。お洒落なライフスタイルで異性にモテて、独身を謳歌している。そんな都市生活者のプロファイルができあがる。

性格の特徴は、固い殻に包まれた強い自我を持ち内省的で自律している。まさにHard-boiled。社会や人間関係との深い関わりを避けていますが、逆の意味では受け身ともいえる。そんな彼が思わぬ災難に巻き込まれます。

彼は日常生活上の自我が失くなり、脳の意識の核(コア)に埋め込まれた思考回路が起動し、潜在意識に映しだされた想像の世界に生きていくことになるのです。

これってどういうこと?

あっ、言い忘れましたが、彼の口癖は「やれやれ」です。

真相解明に奔走する「ハードボイルド・ワンダーランド」

計算士の「私」は仕事の要請で、あるビルの一室に向かう。昇っているのか降りているのか分からない不思議なエレベーターが止まると、ピンクのスーツとピンクのハイヒール姿のピンクづくめの太った美しい娘が立っていた。彼女は言葉にならない変な音で話す。

ここで彼女のプロファイルを記すと、彼女は天才科学者である老博士の孫娘で一七歳。肥満で美しく、ピンク色が好き。サンドウィッチが上手で、外国語も堪能で、射撃もうまい。暗闇をものともしない勇敢なスーパーガール。男性との交際歴はなく、計算士の「私」に好意を抱いており、このハードボイルドな冒険を叱咤激励し伴に走ってくれる。物語の中で、ずば抜けて陽性キャラです。

彼女の部屋に着き、クローゼットの奥の壁を出て地下に降り、水脈に従い滝をくぐり抜け博士の研究室を訪問する。途中、博士はやみくろを警戒して「私」を迎えに来てくれた。老博士は哺乳類の頭蓋骨から音抜きの研究をしているという。太った孫娘は音を抜かれていたのだ。私は博士の研究のために、高度な暗号処理方法のシャフリングを依頼される。

この音入れ・音抜きの研究の成果は、技術の常で善悪いずれにも使用できる。工場(ファクトリー)が盗んで悪用しようとしているのだ。

そして博士は

この先必ずや世界は無音になる(5章)

と言う。何かさびしいような気がしますねと私が言うと、

進化というものはそういうものです。進化は常につらく、そしてさびしい。楽しい進化というものはありえんです(5章)

と言った。うーん、この文明批評はとても人間的ですね。

私は3日後、シャフリング済のデータを持参することを約束した。孫娘の部屋に戻ると、彼女はきちんとした声で祖父からのプレゼントを渡した。きっと直してもらったんですね

家に帰り土産みやげの箱を開くと、哺乳類の頭骨とうこつが入っていた。私は何かを調べに図書館に行くが、さっそく案内係の女の子と親しくなる。

私は頭骨を叩いて、くうん、という音を確かめる。それは額にあいたくぼみから出ているようだった。額にあいた窪み・・・

私は一角獣の頭骨を手に入れたのだ

私は図書館の彼女に頼んで一角獣の資料を部屋に持ってきてもらい、御礼に手料理を御馳走した。彼女はおいしそうにすべてを平らげて、胃拡張だから太らないのと言った。

彼女のプロファイルは、29歳、仕事は図書館のリファレンス係、髪の長い細身の美人、大食漢、夫とは死別ということになる。

私はベッドでレコードを聞きながら彼女と過ごした。翌日、彼女が帰った後、私はシャフリングの準備にとりかかる。

パスワードは<世界の終り>。

それは組織(システム)の科学者連中が私の意識の核(コア)を抽出して、シャフリングのパス・ドラマとして、逆に脳のなかにインプットしたものである。

私の意識は完全な二重構造になっていて、全体としてはカオスとしての表層の意識、その中に梅干しのタネのように意識の核が存在しているのだ。

私はシャフリングを始め、そして完成させた。眠ろうとしたときに、突然、太った孫娘から「祖父がやみくろに襲われたのでは」との連絡が入り、助けて。とお願いされる。青山の待ち合わせ場所に行くが、彼女は来なかった。

私は頭骨とシャフリング済のデータを新宿駅の荷物一時預かり所に預けた。

部屋に戻ると、謎の二人組のちびと大男がドアを破って入ってきた。彼らは、「博士は組織(システム)と工場(ファクトリー)が拮抗する中、世界の仕組みがひっくり返る研究をしている」と話す。

そして・・・

博士は、その研究に計算士としての私ではなく、私と言う人間が必要だったという。

私はちびの話の意味が分からない。話が済むと、大男に部屋を次々に淡々と壊滅的に破壊される。そして「私」は、ちびに腹をナイフで刻まれる。なにやら物騒なことになってきた。

二人組が帰った後、今度は組織(システム)がやってきて質問された。「私」は指示通り、「頭骨(とうこつ)のことを訊ねられた」と答えた。こうして「私」は組織(システム)と工場(ファクトリー)の情報戦争に巻き込まれていく。

眠っていると孫娘がやってきた。「このままじゃ世界は終わってしまうのよ」と彼女は、こぶしで脇腹を叩いて私を起こした。待ち合わせ場所に居なかったのは、道を間違えたらしい。

そして「あなたが鍵なんだって祖父は言っていたわ。何年も前からあなた一人にポイントを絞って研究をすすめている」と私に言った。

「つまり、シャフリング・システムが新しい世界への扉で、僕がそのキイになるってわけかな?」(17章)

たぶん博士は組織(システム)を辞めるときに、私の個人的なデータを持ち出して、人的研究に利用して、シャフリング理論を推しすすめたのだ。

それで私に適当な実験データを与え、私がシャフリングにかけることで特定のコードにの意識が反応するように仕向けたのだ。

つまり私にシャフリングさせることが目的だったのだ!

すべてを知るためには、博士をやみくろから助け出さなければならない。士とシャフリングを約束した2日の正午まで、あと36時間。

事務所に行くと同じように中は破壊されていた。手口から二人組の仕業とにらんだ。孫娘は部屋の秘密金庫から祖父の手帳とピストルを取り出した。

手帳には①シャフリング済、次が②122日午後、そして③プログラム解除とあった。

暗闇のなかをやみくろの気配を感じながら博士の研究室に行くと、そこも同じように破壊されていたが、博士は秘密の抜け道から脱出していた。私は孫娘と博士を追った。

やみくろに狙われ、蛭にたっぷり血を吸われ、腹の痛みにたえながら、どこまでも続く暗闇のなか何とか博士が隠れている洞窟の横穴に辿り着き再会することができた。

自我が無くなり潜在意識のなかだけで生きていく。

ひと息ついたところで、私は博士にたずねる。

何をしようとしていたのですか?何をしたのですか?その結果どうなるのですか?僕はこれから何をすればよいのですか?

博士は、私にまず謝って、そして全てを順番に話した。以下の通りだ。

01.博士は「組織(システム)」の中央研究室に勤めていて、個別のチームを持っており、立派な施設も金も使い放題だった。科学者にとって豊富な実験材料は魅力だ。

02. 当時、情報保護のための様々なデータ・スクランブル方式がことごとく記号士に解読され、組織(システム)は危機的な状況だった。

03.そこで組織(システム)は、単純かつ解読不能なデータ・スクランブル方式の開発を目指し、博士がその開発スタッフの長となる。博士は大脳生理学の分野で、最も有能かつ意欲的な科学者として適任だった。

04.博士は完璧な暗号を考える。それは誰も理解できない方法でスクランブルすること。つまり完璧なブラッックボックスを利用する、そして解読するにはそのブラックボックスを逆スクランブルする。

05. そのブラックボックスの中身や原理は本人さえ分からない。本人が分からないのだから他人がその情報を盗むことはできない。

私が言う。

「つまりそのブラックボックスとは人間の深層心理であるわけですね」(25章)

博士は言う。

アンデンティティーとは、人間の過去の体験の記憶の集積でもたらされる思考システムの独自性のことです。もっと簡単に心と呼んでもよろしい。

話を整理すると、解読不能な暗号化の開発のために人間の深層心理を利用できないかと考えた。人間の心は一人一人、違っており、明らかにはできない。だからこそ解読不能の鍵となるはずである。

ただし心は常に動くし、経験によって変わりもする。そこで心の深層部分、つまり意識の核になる部分を固定することを考え、鍵として使えるようにする。

このもうひとつの思考回路を頭の中に埋め込む。埋められた鍵は、普段は眠っているが信号(パスワード)を送ると呼び起され開かれる。これがシャフリング方式の原型なのだ。

つまり一人の人間の中に本来のものとは別に、シャフリングのためのもうひとつの思考システムを埋め込むということ。

人体実験は、500人の候補から自己の行動と感情を規制できる健康で精神的病歴がない26人を選びだした。そして二つ目の回路であるブラックボックスと繋がり、意識の核で暗号化するのに成功したです。

さらに26人分のそれぞれの潜在意識の断片を編集して映像化しました。

そして、三つ目の思考回路をとりつけ、そこに映像化した意識の核を埋め込むのに成功したです。

あなたのブラックボックスのタイトルは『世界の終わり』です。

ところがシャフリングの実験の処置後、1年2か月から1年8ヵ月の間に26人中、25人が脳の機能障害で死んだです。いやはや、この老科学者はかなりのマッドサイエンティストですよね。

しかし、あんただけが生き残り、3年と3か月過ぎた今も何の障害もなくシャフリングを続けておる。

考えられることは、

①もともとふたつの思考システムを切りかえて使用することは不可能だった。

②しかしあんたは、無意識に、自分のアイデンティティーをふたとおり 使いわけておって精神的な免疫が既にできとったということになる。

③それで意識の核の照射に堪えることができる自然の抗体がそなわっておった。

そんな人は約百万から百五十万人に一人という割合で、あんたはサンプルとして貴重で、ドアのキイになりうるです。

④私があんたにわたした計算データの中には第三の思考システムに切りかわるためのコールサインが隠されておったです。

その抗体って・・・

極端に自己の殻を守ろうとする性向(25章)

博士は、コールサインを送り込んで、私にシャフリングさせて第三回路が起動する状態にしたのである。そしてたいへんなことに、シャフリングは終わったが、第三回路は自動閉鎖機能がなく開きっぱなしになっているという。

第三回路を元に戻すはずだったが、研究室が破壊され大事な資料が持ちさられてしまったです。

つまり、このままいくと第三回路に繋がったまま、もとには戻れなくなるという。つまり私の日常の自我はなくなり、意識の核の「世界が終り」のままということだ。

<もと>って、日常の世界ってこと・・・つまり、料理をしたり、音楽を聴いたり、本を読んだり、デートをしたり、仕事したり。そんな世界に戻れないってこと。

つまり「私」は潜在意識に繋がったままの世界から戻れなくなる。そして現実世界では意識を失った状態となる。それは心と身体をつかさどる表層意識の死を意味するのと同じだ。

そして、組織(システム)と工場(ファクトリー)は、それぞれの利益のために、その開発技術を奪おうと私たちを狙っている。

普通に考えればたまったものではありません。

その世界では失ったものをとりもどすことができる。

「気の毒です」と博士は私に詫びた。「気の毒で済む問題じゃないでしょう!一体僕はどうなるんですか、こんなひどい話は聞いたことがない」と私は言った。

「ふうむ」と老人はうなった。

「私は良かれと思ってやったんだが、いかんせん状況が悪い方へ悪い方へと流れてしまったです」と老人はすまなさうに言った。

「やれやれ」

博士の実験で、私は意識の核の『世界の終わり』で永遠に生きることを知る。

「世界の終り」は安らかな思念の世界だと博士は言う。それはもともとあんた自身が求めていた世界で、決して死ではないという。あんたはその世界で失ったものをとりもどすことができるでしょう。あんたの失ったものや失いつつあるものを。

人間は時間を拡大して不死に至るのではなく、時間を分解して不死に至るのです。

それはあんた自身が作り出したあんた自身の世界です。あんたはそこであんた自身になることができます。そこには何もかもがあり、同時に何もかもがない。(27章)

そして博士は、「死ぬわけではないですよ、意識が永久になくなるだけです」と言う。

「同じようなものです」と私は言った。

博士は私に詫びながら、

「怖れることはありません。いいですかこれは死ではないのです。永遠の生です。そしてそこであんたはあんた自身になれるのだ。それに比べれば、この今の世界はみせかけのまぼろしのようなものに過ぎんです。それを忘れんでください。」(27章)

と言った。

この世界に別れを告げる、強くて優しいやれやれな「私」

私と孫娘は、やみくろの恐怖に怯えながら暗闇を進み、何とか地下鉄の構内に出た。そして地上に出て、タクシーをつかまえ部屋に帰ってきた。部屋の中は、片付けられていた。太った孫娘は風呂に入った。

残された時間は24時間。私は図書館のレファレンスの彼女とデートをすることにした。

部屋を片付けてくれたのは彼女だった。夕方の6時に彼女と待ち合わせをした。私は孫娘の洗濯したピンクの服をコインランドリーで乾かして部屋に戻る。

今から博士の言う「世界の終り」の不死の世界に行くことになる。

しかしもう一度私が人生をやりなおせるとしても、私はやはり同じような人生を辿るだろうという気がした。何故ならそれがーその失い続ける人生がー私自身だからだ。(33章)

ビアホールで時間をつぶし新宿駅の荷物預り所で、預けっぱなしにしていた頭骨とシャフリング・データを受け取る。

図書館が終ると彼女が出てきて二人でイタリア料理を食べに行った。

彼女が一角獣の話の続きを聞きたがったので、「僕の意識の中に住んでるんだ」と説明して、一角獣の役割と街の様子を話した。

すると彼女はウクライナの一角獣の話に似ているわねと言った。

それから彼女の部屋に行った。私は一角獣の頭骨を彼女に見せて、レコードを聞きながら体を重ね、ダニ―ボーイをビング・クロスビーの唄に合わせて唄い、そして眠った。

「起きて、お願い」「テーブルの上を見て」と彼女は言った。 頭骨とうこつが光っていた。

それは遠い昔から遠い記憶を連れてきて、満天の星がほのかに灯りを放っているようだった。来るべき新しい世界でもあり、古い世界でもあるようだった。

手のひらでおおうと、さまざまな古い思い出が心に浮かんでくるのを感じた。光は私に何かを問いかけているようだった。彼女も同じように手で覆った。

私は彼女に一角獣の頭骨をプレゼントして、公園に行きビールを飲んでそこで別れた。

情報戦争に翻弄された私が、私の意志で選んだことは、博士を許したことと、その孫娘と寝なかったことだった。

35年の人生を振り返る。私はこのねじまがった人生を置いて消滅してしまいたくはなかった。それは公正ではないと思った。私はあまりにも多くのものを失ってきた。しかし失われたものの残照が、私をここまで生きながらえさせてきたのだ。

私はこの世界から消え去る最後に、自分の部屋に気まぐれで電話をかけてみた。すると博士の孫娘が出た。祖父はフィンランドに行ったという。そして彼女は「僕の部屋に住む」と言う。

「それでね、あなたの意識がなくなったら、私あなたを冷凍しちゃおうと思うんだけれど、どうかしら?」(39章)

好きにしていいよ。これから晴海ふ頭に行くから、そこで拾ってくれたらいいよ。

「冷凍しておけば、祖父が新しい方法をみつけてまたあなたをもとに戻してくれるかもしれないでしょう?あまり期待されても困るけれど、そういう可能性だってなくはないのよ」(39章)

この世界に戻れる可能性もあると、ピンク好きの太った孫娘は言った。

怖がらないでね。あなたがもし永久に失われてしまったとしても、私は死ぬまでずっとあなたのことを覚えているから。私の心の中からはあなたは失われないの。そのことだけは忘れないでね。(39章)

「忘れないよ」と私は電話を切った。限定された人生には、限定された祝福が与えられるのだ。私は目を閉じて深い眠りに身を任せた。

これって「さよならをいうのはわずかのあいだ死ぬことだ」みたいなタッチですよねぇ。

この『ハードボイルド・ワンダーランド』の主人公、計算士の私は、理不尽な目に遭わされ絶望のなかで最期を迎えます。それでも、どこか、このろくでもない、素晴らしい世界を生きた時間を受け入れます。

計算士の性格の特徴である「固い殻に包まれた強い自我を持ち内省的で自律している」姿、これってハードボイルドそのものですね。