村上春樹『アフターダーク』解説|なぜ浅井エリは眠り続けているのか?

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それは11:56pm~6:52amの夜の闇に起こった出来事。深夜のデニーズでマリは高橋に声をかけられる。ラブホでは中国人娼婦が客にひどく殴られる。中国語が話せるマリはカオルの頼みで状況を確認する。面子を潰され犯人を追う組織。夜に蠢く人々と眠り続ける浅井エリの部屋。エリの部屋とマリの夜が繋がろうとするなか、アフターダークの<魔界>が襲いかかる。

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登場人物

私たちの視点
カメラの視点として、壁を抜け、空間を移動し、物語を捉えることができる中立的な存在。

浅井マリ
外国語大で中国語を勉強。美しい姉のエリに劣等感を抱き、自分を「山羊飼いの娘」に喩える。

浅井エリ
マリの姉で大学で社会学を専攻。「白雪姫」のように美しいが、2ヵ月前から眠り続ける。

高橋
大学生で法学科でエリとは元同級生。趣味の音楽をやめて司法試験に専念するという。

顔のない男
テレビ画面の中で深く眠っているエリを見つめる男、顔には薄いマスクをしている。

白川
深夜のオフィスで仕事するシステム・エンジニアで、アルファヴィルで娼婦に暴行する。

カオル
ラブホのアルファヴィルのマネジャー。昔、女子プロレスラーで半分は用心棒でもある。

コオロギ
アルファヴィルの従業員。関西弁を話し元はOLだが、借金に追われ匿名で身を隠し働く。

コムギ
アルファヴィルの従業員。コムギは本名で、髪が赤くコオロギと組んで仕事をしている。

郭冬莉/グオ・ドンリ
売春組織から派遣される19歳の中国娼婦、白川にホテルで殴られ身ぐるみ剥がされる。

バイクの男
中国の売春組織のメンバー。郭冬莉を傷つけられ、面子をつぶされ犯人を執拗に追う。

解説

『アフターダーク』 深夜から夜が明けるまでのひとときを、カメラが見ている。

これは浅井エリと浅井マリの姉妹が絆を取り戻す物語です。

読者は、不気味な闇の世界へ引きずりこまれていきます。何を主題にするかですが、『なぜエリは眠り続けているのか?』としました。村上作品では、潜在意識下の<あちら側>に行く方法があり、そこでは自分の知らないもう一人の自分が現れます。

エリは損なわれています。<こちら側>に戻るためには、愛するべき誰かが受け止めてくれることが必要です。これもまた村上作品の約束事です。その誰かとは妹のマリです。

しかしマリはエリに劣等感を抱き、敬遠し、危険な夜の闇を彷徨い続けます、このお話は、そんなマリの成長物語でもあります。 エリは、

『これからしばらくのあいだ眠る』(15章)

と2か月前に宣言してずっと眠り続けています。

それは昏睡状態ではないと明言されます。食事やトイレや時々シャワーや着替えも行っている、とあります。医者は特に病気ではないので、心が眠りを求めているなら眠らせておいた方がよいという。

しかし異変が起こります。0:00を過ぎて、TVの走査線が突然、動きだします。

気がつくと、エリは部屋からTVの中に移動しています。エリは、潜在意識下の<あちら側>、つまり無意識の底に沈んだ状態です。そこで覚醒します。自分がどこにいるのか、なぜいるのかもわかりません。

<あちら側>にいるエリが、<こちら側>のマリを見ている状態です。エリとマリ、二人の鏡像のアフターダークの世界が複雑な構造のなかで現れます。

それを、(肉体を離れ、実体をあとに残し、質量をもたないという)観念的で中立的なカメラの視点が、時空を通り抜けて観察しています。

ここではカメラが語り手となっています。

「アフターダーク」の魔界。

そこは闇に蠢く獣のような人間が棲んでいます。この大都市の光に包まれた一角そのものが、無意識下に映しだされた別世界なのです。

魔界への裂け目がラブホ「アルファヴィル」です。ゴダールの映画「アルファヴィル」の内容が紹介されます。それは「近未来の架空の都市の名前」

「アルファヴィルでは、人は深い感情というものをもってはいけないから。だからそこには情愛みたいなものはありません。」(5章)

感情や思考は排除される。つまり理性を失くし、剥き出しの本能が現れます。潜在意識下の人間の衝動(リビドー)としての性欲や暴力を起動させる場となっています。

「アルファヴィル」と関われば、もうひとりの自分の存在が露わになるのです。つまり自己欺瞞や自己正当化の嘘が噴き出します。

すべての登場人物が「アルファヴィル」に接点を持っているようです。

マリはエリの妹で、中国語が話せる。ラブホ「アルファヴィル」のマネジャーのカオルに頼まれて中国娼婦の言葉を翻訳します。女は何者かに酷い暴力を受け、身ぐるみを剥がされる。

通訳して経緯が分かる。娼婦は郭冬莉(グオ・ドンリ)という名でマリと同じ19歳、やがて組織の男がバイクで迎えにやって来る。

そのきっかけとなるエリの元同級生とされる高橋は、マリと深夜の「デニーズ」で出会い、以前「アルファヴィル」でバイトをしていたという。

カオルに相談されて、中国語のできるマリを紹介しています。この高橋は、謎の多い人物です。

白川は、この中国娼婦に暴行をした男です。表層では、常に冷静で、知的かつ論理的な人間を自認している。エンジニアでコンピューターの不具合を、昼の仕事に差し支えないように夜の間に修復するのが任務。

その合間に「アルファヴィル」を利用する。女がベッドで突然、生理となり、白川のもうひとりの暴力的な自己が表出する。異常な出来事であり、自己欺瞞が暴かれた状態です。

マネジャーのカオルや、スタッフのコオロギやコムギは、「アルファヴィル」を運営しています。

それぞれに辛い人生を経験し、苦労を携えて生きているタフさがあり、その意味では危険な磁場の影響を受けていないようです。

この物語の主人公は誰か? 私はマリだと思います。

エリとマリは2つ違いの姉妹で、エリはとても美しい21歳の姉で、ミッション系の私大に行き、モデルの仕事も忙しく、まわりからちやほやされている女性。

一方、マリは自分に自信が持てなくて、おどおどしていて、学校でもいじめられたという。臆病で引っ込み思案な19歳だと自分では思っているようです。

マリはそんな二人を「白雪姫」と「山羊(やぎ)飼いの娘」ほどの違いと説明しています。

常に姉と比べられる辛さ、さらにエリが眠り続けていることの窮屈さから、家には居場所がなく、都会の夜で時間を費やしている。

カオリから送られた「すかいらーく」の化粧室の洗面台で、マリは鏡に近づき、自分の顔を点検し、出ていく。鏡の中にマリの残像が残る。

鏡の中のマリは、向こう側からこちら側を見ている。真剣な目で、何かが持ち上がるのを待ち受けているみたいに。でもこちら側には誰もいない。(5章)

磁場は「アルファヴィル」だけではありません。アフターダークでは、ファミレスでも、コンビニでも、どこでもが裂け目となりえます。

娼婦の一件で、マリの心は混乱します。マリにとってはラブホも娼婦も、暴力もはじめての経験です。隠されたもうひとりの自分の何かが現れそうです。

マリの前に何度も現れる高橋という男。

エリの元同級生で、今は大学に通い趣味はトロンボーン、右の頬の上に深い傷がある。

エリ/マリの姉妹と過去にダブルデートした時の思い出やハワイの島での3人の兄弟の話、前科者の父を持つ孤独だった家庭環境、弁護士を目指し善悪の境の不確かさや人間心理の危うさを考える、そんな自身の知的好奇心をアピールする。

高橋はマリに対して親密になりたそうだが、マリは高橋を警戒している。しかしエリの秘密を知っている高橋に、次第にマリは関心を寄せていく。

そして終盤に、高橋はマリに、以前にエリと二人だけであったと告白し、そのときにエリから相談を受けたと話す。マリは、高橋とエリの間に何かがあったのではと直感する。

高橋が映画「ラブストーリー」の結末を、事実と変えて説明する場面がある。この挿入で、この男は平然と嘘をつく異常性があることを読者に予め知らせている。因みにその箇所を引用すると、

「ハッピーエンド。二人で末永く幸福に健康に暮らすんだ。愛の勝利。昔は大変だったけど、今はサイコー、みたいな感じで。」(9章)

このアメリカ映画は悲恋物語(ライアン・オニール扮する裕福なハーバード出身のオリバーは、家柄の差のある恋人のアリ・マッグロウ扮するジェニーを白血病で失ってしまう)でありハッピーエンドではありません。そして恋人ジェニーが亡くなった後に、オリバーが和解した父親との会話で、ジェニーが言った「愛とは決して後悔しないこと」は印象的な情愛のこもった言葉でした。

この一点で、高橋の言動を疑いの目で追いかけると、読者はマリに危険が及ぶのではと、固唾を吞んで見守ることになる。

高橋がマリに出会った場面から不思議である。中国語が話せるという数少ないマリの得意な部分、このことが「アルファヴィル」の接点となり、中国人娼婦の言葉を通訳し、不安定なマリの心理が不遇な人生の郭冬莉(グオ・ドンリ)へ感情移入されていく。

そしてエリを損なったのは高橋ではないかという推理が読者に働く。明確な根拠はないが、高橋とマリとの会話で疑いが深まる。

それでは無意識下で覚醒しているエリはどういう状況なのかと考えてみる。

エリは高橋に精神的に損なわれて本当の自分を失い、眠ることで生身の世界から逃避している。しかし0:00を過ぎて<あちら側>に連れ去られたかのようだ。

エリは<こちら側>のアフターダークの世界でマリに危険が近づくの見ている。エリは高橋の異常性を知っている。しかしエリはマリを見守ることしかできない。

この作品は、複雑なメタ構造になっていると思う。

マリ自身もすでに「アルファヴィル」に接点を持ったことで、無意識下に墜ちてしまう危険があるのだ。

高橋はマリと出会った最初からマリを誘おうとしている、そして「アルファヴィル」の接点をつくり、エリと同じようにマリを精神的に破壊しようとしている。マリは、少しずつ高橋の術中に嵌っていく。

マリは、高橋との会話でエリの話題に最初は、いら立ち迷惑そうに聞いていたが、

ついに、

「あなたが『アルファヴィル』に一緒に行った相手の女の子って、ひょっとしてうちのお姉さんじゃないの?」(11章)

と訊ねる。これに対して、空気のように嘘を吐ける高橋は、

「いや、浅井エリじゃない、違う子だよ」(11章)

と答える。

高橋が「アルファヴィル」に一緒に行った相手は浅井エリなのだろう、高橋はそこでエリを精神的に破壊したのだ。

これは『ねじまき鳥クロニクル』における綿谷ノボルが高橋であり、損なわれ方はクミコと同じだと思う。優等生のペルソナを演じる白雪姫のエリが自身の影の部分を、高橋によって露わにさせられたのだろう。

エリは「アルファヴィル」と接点をもったことで自己正当化に疲れ、もう一つの本性を表し、高橋は知的好奇心からそんなエリを損ない壊したのだ。

高橋は最後の方で、冗談めかして「アルファヴィル」の前でマリを誘い、断られると、いつまでも長く待つことができると言っている。まるでヘビに睨まれたカエルの状態である。

しかしマリは高橋を退けて、エリの眠る自分の家に帰っていくのである。

繰り返しになりますが『これからしばらくのあいだ眠る』というエリの言葉が印象的です。

エリは現実世界を逃避し眠りますが、さらに深く無意識下の<あちら側>で覚醒し、<こちら側>の世界、つまりマリが彷徨う「アフターダーク」を見ています。

「ねじまき鳥クロニクル」で、井戸の底で深く思索して、次に壁抜けするのと同じ流れです。この作品ではTVが異界への入口です。

時計が0:00を示すとじりじりと雑音が聞こえる。テレビのコンセントは抜かれているが走査線が画面に現れ、どこかの広い部屋が映し出される。部屋の中央に椅子がひとつ置かれている、椅子の上には誰かが座っている。(2章)

ここに「顔のない男」が登場します。彼は何者なのでしょうか?

「顔のない男」は<邪悪>の象徴だと思います。『海辺のカフカ』のジョニー・ウォーカーと同じ存在です。

きっと高橋の影です。その影によってTVの向こうの部屋に移され幽閉され監視されています。

君のお姉さんは、どこだかわからないけれど、べつの「アルファヴィル」みたいなところにいて、誰かから意味のない暴力を受けている。そして無言の悲鳴を上げ、見えない血を流している。(11章)

これは高橋の言葉です。

それでもエリは<あちら側>から<こちら側>のマリを高橋の危険から見守っているのです。

いくつか混乱させる要素があります。

まず、高橋と白川は同一人物ではないかという点。時空間が一致しないので別人でしょう。

TVのなかの部屋にいるのは白川ではと思います、顔のない男はビジネス・スーツを着ているからです。しかしエリと白川の接点は物語では皆無です、筋立てに無理が生じます。

部屋は、白川のオフィスに似ています。白川の使う鉛筆も登場します。多分、オフィスもベッドと同じように潜在意識の世界にトランスしたのでしょう。

これらは結果的には、ミステリーの攪乱要素になっています。

エリの精神を損なった「高橋」がいて、郭冬莉(グオ・ドンリ)を暴力で損なった「白川」がいて、そして今、マリを狙っている「高橋」が時系列で存在しています。

『アフターダーク』では<邪悪>が再生産されるのです。

それは、セブンイレブンのチーズ棚に捨てた白川の携帯を、食料品を買いにきた高橋が発見する。そして執拗に追いかけてくる中国売春組織の「逃げられない」という言葉が反復される

「逃げきれない。どこまで逃げてもね、わたしたちはあんたをつかまえる」(16章)

このメッセージもまた、「白川」や「高橋」のような邪悪が再生産され、同じように生贄としてさらに大きな邪悪に呑み込まれるという循環です。

同時にこのことで、高橋が邪悪な性質を持つ人間であるという推測をより確実視させる要素にもなっています。

このころの村上の作品には、どこか憎めない世俗なキャラが登場します。そして教訓めいた言葉を発するのです。『ねじまき鳥クロニクル』の笠原メイ的な役割が、「アルファヴィル」のカオル、コオロギ、コムギとなります。

カオリは、元プロレスラーで、栄光の時は束の間で、血縁から金をむしりとられ、頑強な体もやがてガタがくる。不良上がりだが性格が一本気なところを買われ腕力自慢でマネジャー兼用心棒として働いている。不器用だがまっすぐな性格です。

コオロギは、もとはOLだったけれど、些細なことに躓き、気がついたら大ごとになっていたという。借金か何かでしょうか、体にヤキを入れられ、恐い奴らに追われている。今は身元の隠せるラブホを渡り歩いているという、そしてマリに思いを語る。

マリちゃん。私らの立っている地面というのはね、しっかりしてるように見えて、ちょっと何かがあったら、すとーんと下まで抜けてしまうもんやねん。それでいったん抜けてしもたら、もうおしまい、二度と元には戻れん。あとは、その下の薄暗い世界で一人で生きていくしかないねん」(15章)

マリはコオロギに、眠り続けているエリの話をする。姉とうまくいっていないことをマリから聞いたコオロギは、自分の半生で感じたことをアドバイスする。

そして、

あんたがお姉さんに対してほんとうに親しい、ぴたっとした感じを持てた瞬間のことを思い出しなさい。(15章)

さらに

人間ゆうのは、記憶を燃料にして生きていくものなんやないのかな。その記憶が現実的に大事なものかどうかなんて、生命の維持にとってはべつにどうでもええことみたい。ただの燃料やねん。新聞の広告ちらしやろうが、哲学書やろうが、エッチなグラビアやろうが、一万円札の束やろうが、火にくべるときはみんなただの紙きれでしょ。火の方は『おお、これはカントや』とか『これは読売新聞の夕刊か』とか『ええおっぱいしとるな』とか考えながら燃えてるわけやないよね。火にしてみたら、どれもただの紙切れに過ぎへん。それとおんなじなんや。大事な記憶も、それほど大事やない記憶も、ぜんぜん役に立たんような記憶も、みんな分け隔てなくただの燃料」(15章)

それでね、もしそういう燃料が私になかったとしたら、もし記憶の引き出しみたいなものが自分の中になかったとしたら、私はとうの昔にぽきんと二つに折れてたと思う。(15章)

「そやからマリちゃんもがんばって頭をひねって、いろんなことを思い出しなさい。お姉さんのことを。それがきっと大事な燃料になるから。あんた自身にとっても、それからたぶんお姉さんにとっても」(15章)

こんな心を突き動かす素晴らしい言葉を送るのです。

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※ブログ文中の引用文は、講談社<アフターダーク>から