村上春樹『風の歌を聴け』解説|言葉に絶望した人の、自己療養の試み。

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政治の季節だった1969年、ちょうど団塊世代が青年の頃。故郷に帰省した19日間。「僕」と「鼠」の二人、恋人を失った傷心のひと夏の出来事。個が柔らかく繋がり時間を漂流する時代は、この作品から始まったのかもしれない。鼠三部作の第一弾、村上春樹のデビュー作。

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登場人物


1948年12月24日生まれの21歳。東京の大学で生物学を専攻し、夏に帰省する。


1947年9月生まれの22歳。大金持ちの息子で、大学を中退して故郷で暮らす。

小指のない女の子
17歳。ジェイズ・バーの化粧室で寝ている所を出会う、レコード店に勤めている。

ジェイ
ジェイズ・バーのマスター。「僕」より20歳上、「僕」と「鼠」の良き話相手。

DJ自称 “犬の漫才師”
N・E・Bのポップス・テレフォン・リクエスト番組のディスク・ジョッキー。

あらすじ

29歳になった既婚者の「僕」が、21歳の頃の大学生の「僕」を回想する。それは三番目のガールフレンド「仏文科の女の子」の自殺をめぐる「僕」の記憶。19日間のひと夏の出来事に、「僕」自身への癒しを手記で試み、前に歩んで行こうとする。

21歳の僕は、恋人を失くす。その恋人は、僕が寝た三人目の女の子で、大学の図書館で知り合った仏文科の女子学生だった。彼女は妊娠をして、そして翌年の春休みに自殺する。理由は分からない。僕はその夏、故郷に帰省する。故郷では友人の鼠と語らい、ジェイズ・バーで取り憑りつかれたようにビールを飲んで過ごした。ふとしたことで小指のない女の子と知り合う。その女の子が恋人と別れ中絶手術をした日に、僕は彼女の心身をいたわり寄り添って眠る。冬に、故郷に帰った時には、彼女はもういなかった。そんな「僕」と「鼠」の男同士の夏のひとときと、「仏文科の女の子」への傷心と「小指のない女の子」への思い。この話は1970年の8月8日に始まり、19日後の8月26日までを回想した手記である。

※文中のページ表記は、村上春樹 講談社文庫<風の歌を聴け>から

解説

村上春樹文学の原点、時代の喪失感と自己回復を求める旅。

孤独と喪失感をひと夏の出来事に描き、<回復のための自己療養として小説を書き始めたことが小説家としての原点である>とする。日本のみならず世界中に多くの読者を持つ村上春樹のセンチメンタルジャーニーの始まりとなる作品だ。

主要な登場人物は、「僕」「仏文科の女の子」「鼠」「小指のない女の子」の4人。

19日間のひと夏を過ごした舞台は、故郷の街。

街について話す。僕が生まれ、育ち、そして初めて女の子と寝た街である。前は海、後ろは山、隣には巨大な港街がある。ほんの小さな街だ。(中略)人口は7万と少し、この数字は5年後も殆ど変わることもあるまい。その大抵は庭のついた二階建ての家に住み、自動車を所有し、少なからざる家は自動車を2台所有している。(106P) 

作者の故郷の風景。海と山の描写、隣が港街というその場所は、神戸に近い芦屋。7万と少しの人口は、50年後の2020年でも9万人と少しである。確かにあまり変わらない。関西の特徴で、JR神戸線を真ん中に、上は阪急神戸線、下は阪神本線となり、生活の裕福度が異なってくる。

二人は対照的であると同時に、「鼠」は「僕」の分身。

「鼠」と「僕」は、同郷である。知り会ったのは3年前の春で二人が大学に入った年。「僕」は18年間を故郷で過ごし、心に根を下ろしている。二人の性格は対照的だが、この年頃の男同士は、気が合えば長く付き合える。所謂、女を介さない “男だけの友情”が存在する。

「ねえ、俺たち二人でチームを組まないか?きっと何もかも上手くいくぜ。」「手始めに何をする?」「ビールを飲もう。」(20P)

二人はチームを組むことになる。相棒同士。裏切らず、許しあえて、分かり合える男同士の絆をもったホモソーシャルな関係である。

「鼠」と「僕」は、異なる。大学を退学/在学、裕福な上流階級/普通の中産階級、小説を書いている/まだ書いていないと対照的。さらに恋人とは、「鼠」の場合は別れた後、相手は中絶手術をする/「僕」の場合は別れた後、妊娠したまま相手は自殺する。この対比から、「鼠」は「僕」の正反対の状況で「僕」の逆さの鏡像の分身、あるいは影のような存在である。傷心や喪失が交換されていく。お互いの男女の出来事と、お互いが相手に影響を与えながらパラレルに時間が進行する。

「僕」について。

僕は21歳で、少なくとも今のところは死ぬつもりはない。僕はこれまで三人の女の子と寝た。(74P)充分に若くはあるが、以前ほど若くはない。(74P)

と言い、最初の女の子は高校のクラスメートで17歳の時、二人目は新宿駅で会ったヒッピーの女の子で彼女は16歳。三人目は大学の図書館で知り合った仏文科の女子学生と記される。

三人目の彼女は、出会った翌年の春に雑木林で首を吊って自殺している。

“少なくとも今のところ死ぬつもりはない”“充分に若いが、以前ほど若くない”は、三番目の彼女の死からまだ日が浅く大きな衝撃を受けており、その喪失感を生きることで、以前よりも随分と年をとったような虚無感に憑りつかれていることがうかがえる。

「僕」は、理由も目的も分からない彼女の自殺に苦悩し傷心している。

どういった理由で、そしてどういった目的でそんなことが起こり得るのか、僕にはわからない。誰にもわからない。(101P)

理由も目的も分からない死は、「僕」の心に空白をもたらす。漠然とした不安な虚空を浮遊しているよう、彼女の死は動機も目的も答えもない「死」である。

彼女の死んだ半月後に読んでいたミシュレの「魔女」の一節を記す。

私の正義があまりにあまねきため(85P)

を引用し気に入っている。この部分は、魔女狩りのことではなく、“私の正義”“あまねき” にかかる。彼女の死は、「僕」とどのくらい関係があるのかを、考え続けた結果、もう考えないことにする。

この後に続く、まずみずからくびれてしまったほどである(85P)

と対を成している。それは村上文学の特徴となる<殻に閉じこもる自己>である。

「風の歌を聴け」の中心は「僕」が、ガールフレンドだった「仏文科の女子」の自殺を巡って悩み苦しむ手記ではあるが、理由は分からないとして距離感をとっている。

彼女との回想が続く。

僕が3番目に寝た女の子は、僕のペニスのことを「あなたのレーゾン・デートゥル」と呼んだ。(中略)そして僕は自分のレーゾン・デートゥルを見失い、ひとりぼっちになった。(96P)

そして「僕」が、去年の秋に、このガールフレンドと話している場面で、

それは10月にしては少し寒すぎる夜で、ベッドに戻った時には彼女の体は缶詰の鮭みたいにすっかり冷え切っていた。(132P)

とある。10月という時期を特定し“缶詰の鮭”という言葉で彼女の体を比喩している。彼女は、妊娠をしているのだ。さらに会話は続き、

「ねえ、私を愛している?」「もちろん。」「結婚したい?」「今、すぐに?」「いつか・・・もっと先によ。」「もちろん結婚したい。」「でも私が訊ねるまでそんなこと一言だって言わなかったわ。」「言い忘れていたんだ。」「‥‥‥子供は何人欲しい?」「3人。」「男?女?」「女が2人に男が1人。」彼女はコーヒーで口の中のパンを嚥み下してからじっと僕の顔を見た。「嘘つき!」と彼女は言った。しかし彼女は間違っている。僕はひとつしか嘘をつかなかった。(133-134P)

この会話の最後の、僕は “ひとつしか” 嘘をつかなかった、何が嘘だったのか?

この会話の 「嘘つき!」は、「私を愛している?」と「もちろん」に対してである。

彼女の視点からは、僕が彼女を愛していないと思っている。だがこれは彼女の誤解だ。多分、彼は心の底から誰かを愛することができない自己本位な固い殻に閉じこもった人間である。彼女は、自分だけしか愛せない「僕」のことを知っている。結果、それは私を愛していないということなのだろう。

僕の視点からは、子供は欲しくないが答えで、ここがひとつしかつかなかった“嘘”である

「僕」は、女性目線での<愛す/愛される>という(相手女性の)感覚を理解できない。だが「僕」目線では、(女性の気持ちとは異なっていても)愛している。だから彼にとっては「私を愛している?」に対する「もちろん」は(彼の意識の中では )嘘ではない。

そこで “僕はひとつしか嘘をつかなかった。” の “ひとつしか” は、子供に関してである。子供は欲しくないのである。“缶詰の鮭=子供を孕んだ状態”の比喩であり、同時に、“嘘つき=私を愛していない”。は彼女の理解で、彼は「もちろん」愛していると思っている。

そこで、自殺の理由を “堕胎が難しくなった春(10月→翌年4月の7ヵ月の経過)に苦悩して” と考えがちだが、

何故彼女が死んだのかは誰にもわからない。彼女自身にわかっていたのかどうかさえ怪しいものだ、と僕は思う。(102P)

と続く。ここで彼女の自殺の理由が妊娠であることを否定している。さらに前文で、彼女は天の啓示を受けるために大学に入ったと言い、どんなものかはわからないけれど、

「でもそれは天使の羽根みたいに空から降りてくるの。」(102P)

と言った。ここでミシュレの「魔女」の話に循環する。啓示によって彼女の精神と肉体は異界と往還している。彼女自身の “無意識な自己”の表現 が自殺という形である。妊娠が自殺の決定的な理由ではないが、きっかけのひとつかもしれない。物語のなかでは自殺の理由は記されていない、思春期から大人への成長にうまく適合できなかったのかもしれない。「僕」の喪失感は深い。

「鼠」について。

「鼠」は、芦屋の山の手の三階建ての家に住んでいて、屋上には温室までついている。裕福な家に育つが、恵まれた境遇に悩み、寧ろその境遇を恨んでおり、都会に冒険の旅に出る。しかし失意のなか大学を辞めて故郷に戻ってきている。

この物語の冒頭が、「金持ちなんて・みんな・糞くらえさ。」(14P)

「うん、奴らは大事なことは何も考えない。考えているフリをしているだけさ。」(17P)

である。鼠は、激しい口調で金持ちをののしり憎んでいる。

一週間ばかり鼠の調子はひどく悪かった。秋が近づいてきたせいもあるし、女の子のせいもあるかもしれない。(109P)

季節は夏が終わり、秋に向かう。女の子との傷心のなかで、鼠は荒れてくる。

そうして「僕」は「鼠」の大学を止めた理由を確認する。すると鼠は答える。

「さあね、うんざりしたからだろう?でもね俺は俺なりに頑張ったよ。自分でも信じられないくらいにさ。自分と同じくくらいに他人のことも考えたし、おかげでお巡りにも殴られた。だけどさ、時が来ればみんな自分の持ち場に結局は戻っていく。俺だけは戻る場所がなかったんだ。椅子取りゲームみたいなもんだよ。」(116P)

学生運動の時代であり、政治の季節である。世の中が矛盾の中で流れる。戦争の焼け跡から復興した日本。しかし近隣のベトナムでは悲惨な戦争が起こっている。日本の米軍基地から爆撃機が飛び立つ。日本の復興は、アジアの国の戦禍の特需の結果でもある。

高度成長の豊かさの矛盾や限界に気づく。しかし体制に立ち向かい、反戦の声を上げた学生や一般市民の熱狂も、結局は豊かさの中に消えてしまった。言葉への不信と、70年闘争への絶望感

鼠はこの政治の季節を過ごし、皆が疑いもせずに社会に組み込まれていく姿に納得できず、結果として椅子を取り損ねてしまった。

「僕」と「鼠」のここまでの整理では、これは19日間の故郷での夏の出来事で、傷心の僕は故郷に帰省し仲の良い鼠と再会するが、このとき鼠は大学をやめて虚無の中にあった。

「頼みがあるんだ。」と鼠が言った。「どんな?」「人に会ってほしいんだ。」「・・・女?」少し迷ってから鼠は肯いた。(98P)

そして僕は、鼠の彼女に会いに行く。

2時ぴったりに「ジェイズ・バー」の前に車を着ける。「彼女は何処にいるんだ?」僕はそう訊ねてみた。鼠は黙って本を閉じ、車に乗り込んでからサングラスをかけた。「止めたよ。」(105P)

鼠は苦しんでいる。

「女の子はどうしたんだ?」僕は思い切ってそう訊ねてみた。「はっきり言ってね、そのことについてあんたに何も言わないつもりだったんだ。馬鹿馬鹿しいことだからね。」「そうだね。しかし一晩考えて止めた。世の中にはどうしようもないことがあるんだってね」(120P)

僕が鼠を諭す場面がある。

「人並外れた強さを持ったやつなんて誰もいないんだ。みんな同じさ。」「だから早くそれに気づいた人間がほんの少しでも強くなろうって努力するべきなんだ。振りをするだけでもいい。そうだろ?強い人間なんてどこにも居やしない。強い振りのできる人間がいるだけさ。」(119P)

“振りをするだけでもいい。そうだろ?”「僕」の発するその言葉に「鼠」は納得できなかったようだが、「僕」は「鼠」の相談に乗ってあげて話をすることだけはできた。