村上春樹『象の消滅』解説|消えゆく言葉と、失われる感情。

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解説

失われていくものへの哀しみと慈しみ、強い自己のこだわり。

全ての記憶は溝を伝って下水道や川へと流れこみ、暗く深い海へと運ばれていく(54P)

僕が彼女に出会ったのは九月で、老いた象と十年以上、象を飼育した六十三歳の老飼育係が消えたのは五月だった。象の顛末を騒ぎ立てた夏の記憶は、秋の柔らかい雨に洗い流され深く暗い海の中へと迷宮入りしてしまう。

僕は、裏山のある場所から象舎を習慣的に見ていて、最後の象と飼育係の姿を目撃する。

それは不思議な光景だった。(66P)

「象舎の中で二人きりになったときの象と飼育係は、ずっと親密そうに見えた」とあります。この二人きりという言葉は、人間と象が話しをして感情が交わし合えることを意味します。五月十七日の午後七時で象舎は煌々こうこうと灯りがともり、いつものように象と飼育係は、掃除をしたり、食事をしたり、二人きりになれる夜は、昼のあいだ以上に親密に仲良くしていました。僕はそこで見たちょっと気になったことを思いきって彼女に話します。

つまり大きさのバランスのこと、僕の目に象が縮んでいるように見えた。

まるで象舎の中にだけ冷やり・・・とした肌合いの別の時間性が流れているように感じられたのだ。そして像と飼育係は自分たちを巻き込まんとしているーあるいはもう既に一部を巻きこんでいるーその新しい体系に喜んで身をゆだねているように僕には思えた。(66P)

冷やり...とした肌合いの別の時間性とは、老象と老飼育係に起こる神がかりな出来事の予兆です。小さくなった象はいつもと同じように飼育係に身体を洗われ嬉しそうに右足で地面を叩き、細くなった鼻で飼育係の背中を撫でています。そして午後七時半になって像舎の灯りはいつものように消え、闇に包まれます。そうして全ては終わったのです。

なぜ象は消えたのかと、僕は考えていることを話すが・・・。

電気器具メーカーの広告部に勤める僕は、パブリシティでタイアップ記事を載せてもらうため主婦向け雑誌編集長の女性と親しくなります。それが話し相手となる彼女です。

僕は会社が販売する予定の一連の台所電化製品について女性編集長の彼女に説明します。

「いちばん大事なポイントは統一性なんです」と僕は言った。(54P)

どんな素晴らしいデザインも、バランスが悪ければ死んでしまう。「色の統一、デザインの統一、機能の統一。それが今のキッチンに最も必要なことなんです。全体の統一性で、その価値が決まってしまうんです」と説明する。すると彼女が「台所に本当に統一性が必要なのかしら」と質問すると、

台所・・・じゃなくてキッチン・・・です」(55P)

会社が決めている言い方に僕は訂正します。そして会社を離れた僕個人の意見としては統一性以前に、必要なものは存在すると思うが、そういう要素は商品(=金)にならないし、

「この便宜的な世界にあっては商品にならないファクターは殆ど何の意味も持たないんです」(56P)

と答えます。すると彼女は、

「世界はほんとうに便宜的に成立しているの?」(56P)

と訊ねます。この便宜的とは、ご都合主義的なという意味です。

僕は「彼女ならきっと分かってくれるかもしれない」と考えます。そして僕と彼女は気が合いホテルのカクテル・ラウンジに行って飲みなおします。象の話をして、僕は自分が見た、あるいは自分にはそう見えた、という象舎の光景を話し彼女の反応を確かめてみます。

僕はごく無意識に誰かに―上手く話すことができそうな誰かにー象の消滅についての僕なりの見解を語りたいと思っていたのかもしれない。(58P)

この僕なりの見解が、この物語の主題です。彼女に感想を求めたいと考えます。

リアリティはともかく、例えば「神隠し」という言葉があります。ややネガティブに使われることが多いですが、仮にポジティブに、ファンタジーな神隠しにあって<象が消滅>したとしましょう。

大きな老象は町の統一性を欠いています、だから消えてしまったのです。

それは煌々こうこうと灯りがともるなか、一瞬、冷やり・・・とした肌合いの時間をきっかけに<向こう側>に消えてしまったのです。画一された<こちら側>に居場所はないのです。きっと大きな老象も、老飼育係も、幸せに姿を消したのです。

脱走したのではなくて、消えてしまったとすることに物語の意味があります。

日本には、神仏の化身や申し子、動物の擬人化など民話や説話、御伽草子などが多くあります。

村上文学では、モノにまで魂は宿ります。それは『1973年のピンボール』でスペースシップのピンボール台に直子が憑依したり、また双子と共に配電盤を貯水池の底に葬った儀式なども、地霊的なものを認めるからです。

バーに誘われた彼女は、「うちで飼っていた猫が突然蒸発したことがあるけれど・・・」と話しますが、「猫と象ではずいぶん話が違うわね」と訂正します。最初は、僕の見解を理解してくれるかと期待したけれど、肩透かしです。当然ながら、彼女に象の消滅の話は通じませんでした。僕はあきらめます。

僕は、後悔した。やっぱり何も言うべきではなかった。

主人公の僕は、象の消滅を経験して以来、何かをしてみようという気になっても、その行為がもたらすはずの結果と、その行為を回避することによってもたらされるはずの結果とに差異が見いだせなくなります。つまり話しても無駄ということです。

そして僕には、まわりの事物のほうこそが本来の正当なバランスを失っているように、感じられます。

人間は、統一性や便宜性だけでは生きていけないはずなのに、まわりの出来事を見ると、逆に、「僕の方が錯覚しているのではないか」と思えてしまいます。世界は統一性や便宜性だけで成り立っており、「僕の方がバランスを失っている」のかとシニカルに思います。

そうして僕はあいかわらず便宜的な世界の中で、便宜的に冷蔵庫やオーブン・トースターやコーヒー・メーカーを売ってまわる。僕が便宜的になると、製品は飛ぶように売れ、僕は数多くの人々に受け入れられていく。

人々は世界に統一性を求めている。しかしこれこそが一方向だけの偏りであり、本来のあるべきはずのバランスを欠いてしまった現実の状況です。

やがて象と飼育係の消滅の話は、忘れられ風化してしまいます。

自然や生物の全てに霊魂が宿っているという考え方。それは日本人の人間を超えた自然崇拝の考え方でもあります。そんな古来の記憶は忘れ去られ、統一性や便宜性という近代の偏った方向だけに加速されていくマネー主義社会のなかで、人々の感受性は失われていきます。

きっと象と象使いの光のなかでの幸せの姿は、主人公が感じた至高の瞬間だったのかもしれません。

失われていくものへの哀しみと慈しみ、不思議な出来事を信じる気持ち。心の震えを失わない生き方を問うているファンタジーな作品です。

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作品の背景

村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』の冒頭部分で「それでもやはり何かを書くという段になると、いつも絶望的な気分に襲われることになった。僕に書くことのできる領域はあまりにも限られたものだったからだ。例えば象について何かが書けたとしても、象使いについては何も書けないかもしれない。」と書き記しています。

これを「象の消滅」の作品に登場する年老いた象と、十年以上、飼育している年老いた飼育係にあてはめてみる。

この動物と人間の語らいには、語り伝えられた神話や、民話などの永い時間の記憶があります。それは刹那に消費され消耗される現代の言葉とは異なっています。そこに感じた人間の想いが、生きることの意味を持つ場合がある。感情が消えると言霊が滅びる。日本の文化や習俗のなかの感受性の大切さを不思議な物語で問いかける。

村上作品には、人間と動物が共振するものが多い。以下の2つも心和む作品です。

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発表時期

1986年(昭和61年)4月、文藝春秋より刊行された。1989年、文春文庫として文庫化。初期の傑作「パン屋再襲撃」「象の消滅」「ファミリー・アフェア」「双子と沈んだ大陸」「ローマ帝国・一八八一年のインディアン蜂起・ヒットラーのポーランド侵攻・そして強風世界」「ねじまき鳥と火曜日の女たち」の全6篇を収録。

初出は文學界1985年8月号。村上春樹は当時37歳。ジェイ・ルービンの英訳で『ザ・ニューヨーカー』1991年11月18日号に初出。収録書籍はクノップ社、1993年3月『The Elephant Vanishes』となる。さらに2005年3月に日本語版である『象の消滅 短編選集1980-1991』が新潮社から刊行される。