村上春樹『眠り』解説|自我と自己のズレ、私という精神の危うさ。

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メッセージと感想

物語は、サイコホラーのような緊迫感を漂わせ、ここで終わります。冒頭、お話したように、この作品を楽しみは、その先がどうなったのかを推測することでもあります。

車をゆすっているのは、きっと、主人公の「夫」と「息子」だと考えます。

妻であり母である<私>を日常へ呼び戻そうとしているのです。しかし「私」は揺すられることに恐怖を感じているようです。ある種の錯乱状態のようです。

この錯乱は、自我と自己のズレを修復できない状況ではないでしょうか。「私」にとって日常への帰還は、自己抑制の連続の世界に戻ることを意味します。そこには、退屈、閉塞、不満、空虚、隷属・・・・きりなく続く<私でない私>という傾向的消費が時間を埋めていくだけだと考えています。それが果たして幸せなのか。

しかし「私」は、何かが間違っていることを気づいてはいるのです。このズレは違う、眠れないこと、眠らないことは、間違いだと思っているのです。しかし仮想世界から抜け出せないのです。

何度も読み返した『アンナ・カレーニナ』の話、恋の熱情に走る行為、不倫の代償は、家族の崩壊であり、人生の転落の危機となる。離婚も自殺も違うと思っています。

物質文明の消費社会、無意識の打算において、それは合理的な選択ではありません。

この物語は結婚という別人格の夫婦二人、さらに子供を得て家族という単位から、結婚前の「私」だけだった自由な時間への回帰願望への煩悶なのです。

女性のひとり語りで、独身時代の甘い記憶を懐古しているうちに、自我肥大した自分が、自己とのズレに耐えきれず、もうひとつの自分世界を彷徨う姿を描いています。

『眠り』の主人公の「私」は30歳で、大学卒業後、すぐ結婚して9年目くらいでしょうか。医者の妻であり小学二年生の息子を持つ専業主婦、傍目には裕福で幸せな家庭のようです。

作品が発表された1989年ごろは85年のプラザ合意を経て内需拡大、女性の活躍、社会進出が声高に叫ばれた時期です。バブル期も重なり狂騒を呈しています。

欲望の資本主義では、「寿退社」と愛でるよりも、女性が社会に組み込まれ需要が膨らむ方が好都合なのです。ブランド物を買い、海外旅行に出かけ、グルメに浸る。

専業主婦かキャリアな道か、選択はあなた次第、個々人が自ら決めることなのです。

この時代背景下で『眠り』を捉えれば、主人公の「私」の心象は輪郭がはっきりします。

ただしそれが、村上作品において、幸せか否かの判断は保留されています。個人の幸せ=家族の幸せには、完全な個人の自由はありません。寧ろ自己犠牲の精神が多く必要でしょう。恋愛が情熱であれば、結婚は忍耐かもしれません。

主人公と同じように、不自由な辛さを感じている人々は現代でも存在するでしょう。ただし、この作品が現実になれば、解離性同一障害のリスクもある。

自由や個人主義は近代人が手にした大きな宝です。個としての自我を優先し、自分本位の生き方を完全に捨て去ることなどできません。近代人は永遠に実存に悩まされているのです、そんな危うさをこの作品で味わってください。

*自我(ego)と自我を包む自己(self)、そして社会との関係をファンジーに描いた作品

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作品の背景

文学は時代の映し鏡でもあるから、時代をプレイバックしてみる。1970年代末に「寿退社」を嫌い、社会進出するキャリアウーマンが出てきて、「んでる女性」なる言葉が生まれる。対して専業主婦のイメージが「寿」から反転する。

『眠り』の主人公は30歳の専業主婦で、大学を卒業して結婚すれば、まさに「寿退社」の最後の頃であり、10年後の1980年代末は、女性の活躍が話題となる。さらにバブル期もこの頃に重なる。

マガジンハウスの雑誌『HANAKO』の刊行が1988年6月。プラザ合意が85年の9月、円高で内需頼みの日本は86年に男女雇用機会均等法が施行される。女性の社会進出である。当時の首都圏の結婚平均年齢は女性で27歳。年2回は海外旅行に行き、ブランドものを好むが、お得な品を選ぶ買い物上手でもあり貯蓄もする。この雑誌のターゲットプロファイルだ。何という商業主義的な囲い込みだろう。

そして「Hanako族」なる言葉が軽薄な広告やマスコミ界隈で流通する。そしてバブル崩壊後は、一転、デフレ下の日本でその部数は凋落していく。そして2000年代にバックフラッシュが起こる。祭りのあとの寂しさである。今度はロスゼネ世代を作りだしている、何かが違っている。


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発表時期

1989(平成1)年11月号、「文學界」にて初出。村上春樹は当時41歳。翌年、「文藝春秋」刊行の短編集『TVピープル』に収録される。収録作品は『TVピープル』『飛行機』『我らの時代のフォークロア』『加納クレタ』『ゾンビ』そして『眠り』で収録は全6作品。尚、21年ぶりに2010年に加筆修正され『ねむり』として、東ドイツのイラストレーターのカット・メンシックの味わいのあるイラストで新潮社から刊行されている。