浅田次郎『鉄道員』解説|人々の暮らしを支える、乙松のぽっぽやの人生。

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娘を亡くした日も、妻を亡くした日も、幌舞ほろまい駅長の佐藤乙松おとまつはただ一人、ホームに立ち続けた。鉄道一筋の人生、定年を間近に迎えた正月に、ふと目の前にあらわれた人形を抱いた女の子。映画では国民的大スターの高倉健が演じて大ヒットする。雪のなか凛と背を伸ばし気動車を送迎する寡黙で不器用な男。人生を噛みしめた渋味ある演技だった。

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あらすじと解説

鉄道生活一筋の男は、人々の暮らしを支えるために生涯を捧げる。

原作は少し異なる。乙さんは鉄道生活一筋の男だが、健さんほど周囲を圧倒するような特別な存在感はないだろう。生真面目で生粋のポッポヤ、目立つことを嫌う職業気質な男だ。カタカナ言葉は重厚感に欠けるが現代的に表現すればエッセンシャルワーカーに近い。

“エッセンシャル”は、本質的、絶対必要、不可欠というような意味。

ここでは鉄道という人々の生活基盤を支えるのに絶対不可欠な輸送業であり、物語の主役はキハ12型気動車とそれを安全に動かす人間、ポッポヤである。

ここに時間という歴史が加わる。戦後復興の拠点として隆盛を極めた産炭地だったが、現在は廃れてボタ山が寂しい。往時に賑わった人々や家族、そこにあった一人ひとりの人生。今は一両だけのキハが一日に三本、走っている。乗降客もほとんど無い。それでも人間の営みは続く。それを支えるためにポッポヤとして伴走した乙松の人生だった。

ポッポヤの仲間たちにとっては、乙松は年老いた英雄である。それは廃車されようとするキハ12型も同じである。乙松はキハのこれからを心配する、気の置けない同僚の仙次が、「鉄道博物館行きかもしれない」と話すと、乙松は「自分も一緒に博物館に飾って欲しい」と言って、笑い合う。

幌舞線の終着駅の幌舞ほろまいは、明治以来北海道でも有数の炭坑町として栄えた。幌舞駅は大正時代に造られた立派な造作。待合室の天井は高く、三角の天窓にステンドグラスがはまり、歴史を感じさせる。

二人がまだデゴイチの罐焚かまたきをしていたころ、昭和二十七年の製作のキハ12型は幌舞に入線する。トンネルの闇から姿を現したとき、群衆はまるで戦に勝ったかのように歓声を上げた。

北大を出て、今では立派にJR北海道の札幌本社のキャリア組の課長になっている仙次の息子の秀男も、乙松への感謝と幌舞線の廃線を止めることのできなかった自身の非力を詫びる。

乙松はそんなことに頓着しない。仙次や仲間たちと過ごした日々、そして秀男の新しい時代の鉄道員としての仕事を応援しながら、自身と自分と共に働いたキハ12型と幌舞線をしみじみと思う。

いつも駅に立ち続けた駅長の最後の一日を描いた『鉄道員』。乙松は、今年3月に定年を迎える。おととしに妻を亡くし男やもめの暮らしである。

愛娘の死に際にも、妻の死に際にも会えない、そんな男の責任とは何か。

仙次の妻は、乙松が女房の死に目に会おうとしなかったことを、いまだに根に持っている。「乙さんは薄情者だ」という。仕事一筋の不器用で真面目な男というだけでは、女性の感覚として、妻の感覚として、理解も納得もできないのだ。

乙松は心のなかで呟く “俺ァ、ポッポヤだから、身内のことで泣くわけいかんしょ”

何故だろう?最愛の妻が無くなった。死に目に会うのが普通だろう。泣けばいいじゃないか?ここに奇跡が起こる背景がある。耐え忍ぶ、心の奥底の魂の所在である。

石炭の産業を失った幌舞は過疎地と化している。合理化の美名のもとに幌舞線は輸送効率と採算の問題で廃止が決定している。合理化とは人員削減である。幌舞の駅には乙松しかいないのだ。呑気な一人駅長では済まない。一人でキハを送迎し、転轍機を回し、保線、事務的な仕事を行わなければならない。

鉄道員は常に安全に運行することが使命だ。鉄道は、元は国の運営であり「国鉄」と呼ばれ、重要な公共としてのライフラインだ。民営化しても乙松にはこの精神が受け継がれている。この ”おおやけ” の精神を理解しておく必要があります。

乙松は、この ”おおやけ” を優先して、子どもの死に目にも、妻の死に目にも会えないのです。公の輸送業務、そこには幌舞の人々の生活を支えるために日々、ひとつの事故無く、時間に正確に、安全に人々を送客するという使命があり、交代要員のない幌舞駅ではやむを得なかったのです。この前提を共有しなければ、ポッポヤの胸に秘めた人生は分かりません。

同僚の仙次だけは乙松の気持ちは理解しているでしょうが、細かく言えば、仙次は格上のつまりは収益性の高い美寄びよろ中央駅の駅長です。人員もいれば、分担も、ローテーションもできます。

それでも世間並みに言えば、仙次の妻の言う通りです。だから乙松は心でつぶやくしかない。

子供が死んだときは、まだ生後2ヵ月でした。すきま風の吹く事務室続きの部屋に寝かせたから、仕事が子供を殺したと思う乙松はやりきれない気持ちだ。病院に向かう気動車を差指喚呼で見送り、亡骸なきがらを抱いて戻ってきた女房を乗せた気動車に、乙松は旗を振り迎える。妻からは「あんた、死んだ子供まで旗振って迎えるんかい」と悲しみをぶつけられる。

如何でしょう? 進歩主義の何でも改革を唱える政治家には、人々の暮らしの営みや、その生活を支えようと働く人々の価値観、そのことで起こる問題や苦悩をいかほど想像できるのでしょうか。それとも効率優先でローカル線は廃止されるべきで、公共の奉仕は利益の観点からは不要なのでしょうか。