村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』解説|閉ざされた自己の行方、心の再生は可能か。

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無意識の核が映し出された「世界の終り」

『世界の終り』の物語は、心の奥底にある静寂な幻想世界、スピリチュアルなファンタジーです。

それは現実世界の『ハードボイルド・ワンダーランド』から無意識下の『世界の終わり』 の<街>にやってきたところから始まります。

主人公は同じですが、呼称が<私>から<僕>に変わります。

「とにかくあんたはこれから毎日、図書館に行って古い夢を読むんだ。それがつまりあんたの仕事だよ」(4章)

と門番に言われる。

僕の名前は無くなる。つまりアイデンティティは無くなる。そして門番から眼球に特別な印をつけられ、日の光を失い、この街に一人しかいない<夢読み>の資格を与えられた。

『世界の終り』 は心を失くした人たちが住む<街>。

「僕」は<街>の図書館の番をする女の子に手伝ってもらい<古い夢>を読むという。

「これは街にいる一角獣の頭骨だね?」(6章)

と僕は彼女に訊いてみた。

「古い夢はその中にしみこんで閉じこめられているの」(6章)

と彼女は静かに言った。

「僕はここから古い夢を読みとるわけなんだね?」(6章)

「それが夢読みの仕事なの」(6章)

街に入るには「僕」は門番に自分の「影」を預けなければならない。預けられた「影」は門番に見守られながら、「僕」と離れて生活することになる。

ここで前提として、「僕」と「影」のふたつを整理しておきます。

「影」は、僕のこれまでの記憶です。そこには「ハードボイルド・ワンダーランド」での心や身体からだという日常があります。

これに対して「僕」は、無意識下の潜在意識です。無意識下の潜在意識とは、老博士が話していた思念と捉えてよさそうです。

僕は門番によって影を切り離されます。引き離されてすぐの間は、まだ心は残っていますが、やがて時間がたてば心を失います。「影が死ぬ」ことと「心を失う」ことはイコールの関係です。

「僕」と離された「僕の影」は言います。

「君はこの先後悔することになるんじゃないのかな?」「人と影が離れるなんて、なんだかおかしいじゃないか。これは間違ったことだし、ここは間違った場所であるように俺には思えるね。人は影なしでは生きていけないし、影は人なしでは存在しないものだよ。それなのに俺たちはふたつにわかれたまま存在し生きている。こんなのってどこか間違っているんだよ。君はそう思わないのか?」(6章)

「影」はこの街は二人に良い影響を与えない、チャンスを見つけてここを抜けだし、もとの世界に戻ろうと言います。

「この街ではだれも影を持つことはできないし、一度この街に入ったものは二度と外にでることはできない」(6章)

と門番は言う。

僕の住まいの隣人は老大佐だった。僕は大佐とチェスをしながら「街」のことを教わる。そして門の外と内を行き来する獣(けもの)たちや、壁や森や川や時計塔や季節の移り変わりを感じながら過ごす。

引き離された影は、ひと冬越せず死んでしまうという。

僕には、この街のことが分からない。なぜあんなに高い壁があるのか、なぜ毎日けものが出入りするのか、古い夢とは何なのか。

大佐は、

ここは完全な街なのだ(8章)

と言う。

ここは不安も苦悩も無いかわりに、喜びも至福もない。固く閉ざされた世界。

影は僕に「この街の地図をつくるように」と言う。とくに壁のかたち、東の森、川の入り口と出口。それを秋までに欲しいという。

僕は門番と散歩をする。壁は7mあり、街を囲んでいて、出入口は西の門しかないことを教わる。壁は誰も登ることはできないという。 門番は、

悪いことはいわんから影のことは忘れちまいな。ここは世界の終りなんだ。ここで世界は終り、もうどこへもいかん。だからあんたももうどこにもいけんのだよ(10章)

と言った。

心とは何か?夢読みと心を失った人々

「僕」はどうしてこの街に来たのだろう。どうして古い世界を捨て、この「世界の終り」に来なくてはならなかったのか思い出せなかった。

何かが、何かの力が、僕をこの世界に送り込んでしまったのだ。

そのために、僕は影と記憶を失い、そして今心を失おうとしているのだ。(10章)

僕は地図をつくりながら<夢読み>を続ける。書庫には千を超える頭骨とうこつがあり、僕と彼女は夢読みと司書として一緒にいる。

僕は彼女に南のたまりのことを聞く。彼女は、あそこは危険だと言いながらも同行してくれた。たまりは、表面は穏やかだが下の方はすごい渦を巻いているという。

一度、引きずりこまれたら、二度と浮かび上がれない。あなたはこの街を出たいのと彼女が聞く。

「僕はただこの街のことを知りたいだけなんだ。この街がどのような形をしていて、どのように成り立っていて、どこに、どんな生活があるのか、僕はそれが知りたいんだ」(12章)

「ここは正真正銘の世界の終りなのよ」と、彼女は言う。

老大佐は、森にも何人かの人が住んでいるが、彼らは危険だという。そして冬の壁は一層厳しく街をしめつけるという。そして冬は君にとっていちばん危険な季節だと言った。

僕は壁に沿って森を調べる。森の奥はひっそりとして平和な世界が広がっていた。深い自然のもたらす大地の鮮やかな息づかいがあたりに充ち、僕の心は静かに解きほぐされた。壁の近くのような緊張感や暗さはなかった。野原に座り目を閉じて影のことを考える。

そろそろ地図を渡さなければならなかった。

「僕」は、目を閉じて図書館の彼女のことを考える。考えれば考えるほど喪失感は深まっていった。眠りから覚めて壁の姿を見つめる。

お前はなぜここにいるのだと彼らは語りかけているようだった。お前は何を求めているのだ、と。(14章)

川岸を辿たどり、図書館に着いたころには意識が朦朧もうろうとしてひどい熱だった。彼女は僕を毛布にくるみストーヴの前に寝かせてくれた。

彼女を失いたくないと僕は思ったが、それが僕の意識からか、古い記憶の断片から浮かび上がったものか分からなかった。

「お眠りなさい」と彼女の声が遠い闇の奥からやってきた言葉のように思えた。

僕は丸2日、眠っていた。老大佐は薬草の入ったスープをくれて、僕に言った。

君は彼女が好きらしいが、彼女が君の気持に報いることはできない。老人の言っていることが心のことだと思った。

僕に心があり彼女に心がないから、それで僕がどれだけ彼女を愛しても何も得るところがないということですか?(16章)

そうだと老人は言った。僕は大佐の親切や看病は心の表現ではと訊ねると、親切と心とは別のもので、親切は表層的な機能で、ただの習慣で心とは違うという。

心とはもっと深く、強く、矛盾したものだと、老人は言う。

この説明は、心とは何かを表しているようです。心には思惑があるのです。それは信じたり、求めたり、望んだり、企んだりすることでもあるし、その結果として喜怒哀楽を伴うこともあり、真善美に導かれることもあるのです。

彼女の影は死んでいて、心は取り戻すことはできないという。

壁はどんな心も見逃さない、例えわずかに残っていても、壁はすべてを吸い取ってしまう。吸い取れなければ森に追放してしまう。この街は強く、君は弱い。

だが、彼女のことを手に入れることはできる。彼女と寝ることも一緒に暮らすこともできる。ただし・・・

「心はない」と老人は言った。(16章)

「しかしやがて君の心も消えてしまう。心が消えてしまえば喪失感もないし、失望もない。行き場所のない愛もなくなる。」(16章)

熱も下がって、僕は図書館に行き、彼女を待った。しばらくして彼女が現れる。

「君の影のことを話してほしい」と僕は言った。「ひょっとして僕が古い世界で出会ったのは君の影かもしれない」(16章)

彼女もそう思っていた。

彼女が四つのときに影は離されて壁の外の世界へ放たれ、彼女は中の世界で過ごし十七になったときに、影はこの街に戻ってきて、そして死んだという。残っていた心と一緒に彼女の影は、リンゴの林に埋められて、彼女は完全な街の住人となった。

つまり17歳の時、現実世界での彼女の心と身体(からだ)は死んでしまって、その後、<世界の終り>で心を失った状態で生き続けているのです。

「それでもまだあなたは私を求めているの?」

「求めている」(16章)

と僕は答えた。僕は夢読みに没頭するが、うまく夢を読めない。

「あなたの心が開かないのは私のせいなのかしら?」と彼女は僕に訊いた。「私があなたの心に応えることができないから、それであなたの心は固く閉ざされてしまうのかしら?」(18章)

彼女の問いかけに僕は答える。

「僕の心がうまく開かないのはたぶん僕自身の問題なんだ。君のせいじゃない。僕が僕自身の心を見定めることができなくて、それで僕は混乱しているんだ」(18章)

彼女は、心はとても不完全なものに思えるという。僕は、心は不完全だから跡を残す、だからその跡をもう一度、辿ることができるという。

「それはどこかに行きつくの?」(18章)

「僕自身にね」と僕は答えた。「心というものはそういうものなんだ。心がなければどこにも辿りつけない」(18章)

彼女は、母親が唄を歌っていたことを記憶していた。僕は唄を歌おうとするができなかった。何か楽器を探すことにしたが、図書館ではみつからない。

楽器のことを門番に訊ねると、発電所の管理人に聞いてみな、と言われる。

この街の完全さは、心を失くすことで成立している。

門番は、冬になり影の力も弱くなっているので、会わせても問題ないだろうと言う。影は街と外の世界の中間にある<影の広場>にいる。

影は、脱出の計画を練っている。僕は「脱出は無理だよ」と言うと、影は「必ず出口がある」という。その証拠に鳥は外の世界に羽ばたいているじゃないか。

俺は必ずそれを見つけ、君と一緒にここを抜け出す。こんな惨めなところで死にたくはない(24章)

「この街は不自然で間違っている」(24章)

と影は言う。

僕は間違っているなりに、この街は完成されていると言うと、影は

「正しいのは俺たちで間違っているのは彼らなんだ。俺たちが自然で、奴らが不自然なんだ。そう信じるんだね。あらん限りの力で信じるんだ」(24章)

そうしないとこの街に吞み込まれる。完全な世界なんて存在しない。しかしここは完全だ。必ずどこかにからくりがある。

君は自己を失ってはいない。ただ記憶が巧妙に隠されているだけなんだ。だから君は混乱することになるんだ。しかし君は決して間違っちゃいない。たとえ記憶が失われたとしても、心はあるがままの方向に進んでいくものなんだ。心というものはそれ自体が行動原理を持っている。それがすなわち自己さ。自分の力を信じるんだ。そうしないと君は外部の力にひっぱられてわけのわからない場所につれていかれることになる(24章)

影は、迷った時はいつも鳥を見ると言った。

僕は彼女と一緒に風力の発電所にでかけた。彼女は管理人のことをあの人はうまく影を抜くことができなかった人なの。ほんの少しだけど、まだ影が残っているのと言う。

管理人はいろいろな楽器を見せてくれた。僕はその中から手風琴アコーディオンを手にとった。部屋に戻って手風琴を弾いてみる。ボタンを押しながら蛇腹を伸縮させるのは厄介な作業だった。簡単なコードは弾けるようになったが、メロディはどうしても頭に浮かんでこない。

老大佐が昼食を用意してくれた。自分も長い間、軍人の生活を送り、後悔もないし楽しい人生だったが、今はもう思い出すことはないという。名誉や愛国心や闘争心や憎しみや、そういうものを。

「心を捨てれば安らぎがやってくる。これまでに君が味わったことのないほどの深い安らぎだ。そのことだけは忘れんようにしなさい」(30章)

と老人は言った。

そして僕の影の具合が悪いようなので、会いに行ってはどうかと勧めてくれた。それは、影がもうすぐ死んで、僕が心を完全に失うことを意味する。

固い殻にこもる自己から、心が解き放たれ覚醒する。

僕は影に会いに行く。影は三日のうちにここを脱出すると言い、その計画を僕に説明する。

僕は、迷っている。帰る価値のある世界なのか、戻る価値のある僕自身なのか?

僕はこの街に愛着を感じ始めている。図書館で知り合った女の子にひかれているし、大佐もいい人だ。けものを眺めるのも好きだ。冬は厳しいけれど、その他の季節はとても美しい。ここでは誰も傷つけあわないし、争わない。生活は質素だが、満ち足りているし、みんな平等だ。悪口を言うものもいないし、何かを奪いあうこともない。労働はするが、みんな自分の労働を楽しんでいる。それは労働のための純粋な労働であって、誰かに強制されたり、嫌々やったりするものじゃない。他人をうらやむこともない。嘆くものもいないし、悩むものもいない。(32章)

僕は、この街を出ていく理由がどこにあるのだろうと考える。

影が反論する。

「この街の完全さは心を失くすことで成立しているんだ。心を失くすことで、それぞれの存在を永遠にひきのばされた時間の中にはめこんでいるのだ。だから誰も老いないし、死なない。まず影という母体をひきはがし、それが死んでしまうのを待つんだ。影が死んでしまえばあとはもうたいした問題はない。日々生じるささやかな心の泡のようなものをかいだしてしまうだけでよいのさ」(32章)

影は心の問題を話す。

戦いや憎しみや欲望がないということはつまりその逆のものもないということでもある。それは喜びであり、至福であり、愛情だ。絶望があり幻滅があり哀しみがあればこそ、そこに喜びが生まれるんだ。(32章)

君が愛している彼女は心を持っていないので愛情を感じることはできない。

そんな幻のような永遠の生を求めてはいけない。

僕は影に向かって言う。

彼女が何であるにせよ、僕は彼女を愛しているし求めている。自分の心を偽ることはできない。今逃げだせばきっと後で後悔するし、一度ここを出てしまえば二度とは戻れない(32章)

影は言う。

君は僕を失えば、心を抱いたまま永遠に森の中で生きることになるんだ。しかし彼女は森に連れていくことはできない、心がない人間は街に住むんだ、森には住めない。

僕と影、三つの選択を整理します

ここで三つの選択を整理してみます。前提として、

第一回路は表層意識に繋がった状態なので、心と脳と身体(からだ)は機能します。第二回路は深層意識つまり潜在意識に繋がった状態、そして第三回路はそれが映像化された世界、これが『世界の終り』です。

この『世界の終り』の「街」に入るときに、人々は皆、自分の「影」と引き離される。「影」はひと冬を越せずに死んでしまう。それまでは人々は「夢読み」に従事しなければならない。

「影」が死ぬと街なかに住めるが「心」は失ってしまう。「心」が僅かでも残ったものは、厳しい森に追放されて生き、そこを出ることはできない。

①僕は影と一緒に「世界の終り」の外へ脱出する

当初からの影の計画ですが、僕は第一回路が焼き切れているので現実世界の意識に戻ることは不可能です。影は現実世界の心と身体からだですのでたまりを抜け出して戻れば、身体は生きている状態ですが、脳は死んでしまうことになります。もちろん彼女は街の住人ですから、僕は彼女を失うことになります。

②僕は影と一緒に「世界の終り」に留まる

影は冬を越せずに、やがて死んでしまいます。僕は現実世界に戻るのは不可能ですが、第三回路で生きるので、影が死ねば僕は心を失ったまま街の中に住むことになります。博士が言うように現実世界では死ですが、思念のなかで時間を分解して永遠に生きることになります。しかし彼女と僕はお互い心がない状態で過ごすことになります。

③僕は「世界の終り」に留まり、影は外へ逃がす

影の心と身体は現実世界に戻り、僕は深層意識のなかで生きます。現実世界では第一回路は焼き切れていますので表層意識は無く冷凍睡眠の状態です。心が僅かに残っている僕は森に追放されます。彼女の心を少しずつでも蘇らせることができるとすれば、彼女と一緒に森のなかで心を感じて住む可能性は残されています。

ここで『ハードボイルド・ワンダーランド』での太った孫娘の話を思い出してみます。

それでね、あなたの意識がなくなったら、私あなたを冷凍しちゃおうと思うんだけれど、どうかしら?(39章)

冷凍すれば祖父が新しい発明をして第一回路の修復の可能性もあると言ったのです。かなり難しそうだけれど・・・。天才科学者だからできるかもです。

僕は影に問います。「人々の心はどこにいくんだい?」

君は<夢読み>なんだろう、どうしてそれを知らないんだい。と言いながら影は説明します。

一角獣は街に生息する清らかで美しい生き物で、秋になると金色の体毛に覆われます。門番に飼育され、夕方に門を出て朝方に戻ってきます。それは、一角獣が人々の心つまり<自我>を吸収し、街の外に運び出すという大きな役割をもっています。

だから街にはエゴがない。そして冬になると一角獣は溜(た)まった人々の自我の重みに耐えきれずに死にます。

春になると子供がまた産まれます。それは世界の終りが完全な街であるための循環作用となっています。死んだ一角獣の頭骨は、頭骨とうこつは門番によって切り離され、力を静められて図書館の書庫に運ばれます。残った<自我>は、<夢読み>によって読まれ、古い夢として、大気のなかに放出されどこかに消えていく。

そして心が完全に死ねば、<夢読み>は終わり、君は街に同化する。つまり完全に心を失う。

街はそんなふうに不完全な部分を弱い存在に押しつけ、その上澄うわずみを吸って生きる世界なんだ。

それが正しいことかい、本当の世界かい、あるべき姿なのかい?

「きみのいうとおりだ、明日の15時にここにくるよ」と僕は言った。雪が降っていた、出かける時間が来た。僕は図書館に行って、彼女と話す。

僕の影が死にかけている。影が死ねば、僕は永遠に心を失うことになる。僕はたぶん明日の午後、この街を出ていくことになると思う。

僕と影は一緒にこの街を出て、古い世界に戻り、そこで暮らすんだ。僕は昔と同じように影をひきずり、悩んだり苦しんだりしながら年老いて死んでいく。

「あなたはこの街が好きじゃないの?」(34章)

たしかに僕はこの街の静けさと安らぎが気に入っている。心を失えば静けさと安らぎが完全なものになることはわかっている。でも僕の心が、影や獣たちを犠牲にしてまで、ここにとどまることを許さないんだ。いくら平穏を得るとしても、僕は僕の心を偽ることはできない。

「君を失うのはとてもつらい。しかし僕は君を愛しているし、大事なのはその気持ちのありようなんだ。それを不自然なものに変形させてまでして、君を手に入れたいとは思わない。それくらいならこの心を抱いたまま君を失う方がまだ耐えることができる」(34章)

僕は影だけを外に逃がして一人、残ることを考えたが、そうすると僕は森に追放されるし、二度と君に会うことはできない。森に住むことができるのは、体の中に心を残した人々だけなんだ。

彼女は、母は心を残したせいで森に追放されたという。もし心があれば私も一緒に森で暮らせたのにと言う。

心がそこにあれば、どこに行っても失うものは何もない(34章)

と母がいっていた。「それは本当」と僕に問いかける。僕にもわからないが、大切なのは君がそれを信じるかどうかだと言うと、

「私は信じることができると思うわ」(34章)

と彼女が言った。そして彼女は「僕」のことを信じるという。

「信じる?」と僕は驚いて訊きかえした。「君にはそれを信じることができるの?」(34章)

「信じる」という言葉は心が発する気持ちだ。彼女には心の断片が残っている。きっとお母さんの記憶を通して心の残像が揺さぶられているんだ。

僕は夢読みとして古い夢から彼女の夢を読み取ろうとした。

でも、いろいろな人の古い夢がたくさん詰まった頭骨は、混沌であり、彼女の夢だけを取り出すのは不可能だった。

影との脱出決行まで残り21時間しかない。僕は可能性を信じた。しばらくして彼女は言った。

「私の心をみつけて」(34章)

僕は手風琴アコーディオンのことを思い出す。彼女はきっと手風琴が鍵なのだという。手風琴は唄に結びつき、唄は私の母に結びつき、母は私の心のきれはしに結びついている。いくつかのコードを弾く。思い出せる限りのコードを順番に弾いた。

僕には心を捨てることはできない。

僕はこの街のすべての風景と人々を愛することができるような気がした。そのとき手風琴のコードは、ダニー・ボーイのメロディになった。

音楽の中に街が息づき、街が自分自身なのだと感じる。壁も森も門も川もたまりも・・・

彼女の瞳からは涙が流れていた。涙は優しい光を輝かせていた。棚の上の無数の頭骨が光り、ダニー・ボーイの唄をきっかけに覚醒する。僕は頭骨をなぞった、そこに彼女の心が浮きだして光の粒となっていた。

僕は彼女のこころを読むことができる。

その光は彼女の抱いていた古い夢でもあり、僕自身の古い夢でもあった。僕は彼女に心を与えることができるのだ。そしておそらく彼女は自分の力でその心をより完全なかたちに作り上げていくことが、いつかできるに違いないと僕は思った。

「影」を逃がし、自分が街に留まる選択をする。

脱出の計画を実行する日が来た。僕は弱った影を背負い雪のなかを行く。影は森の南のたまりが出口だという。僕が、川底はすごい渦が巻いていて死んでしまうと言うと、影は否定した。

たまりまで来た。「これが出口だよ、間違いない」「そろそろ飛び込むとしようじゃないか」と影は言った。

僕は影に向かって言う。

僕はここに残ろうと思うんだ(40章)

僕がある一つのことを発見したからなんだ、だからこそ僕はここに残ることを決めたんだ。(40章)

影は以前からそのことを知っていた。

「この街を作ったのは君自身だよ。君が何もかもを作りあげたんだ。壁から川から森から図書館から門から冬から、何から何までだ。このたまりも、この雪もだ。」(40章)

だからこそ影は僕をここから連れ出そうとしたという。

「僕は自分の勝手に作りだした人々や世界をあとに放りだして行ってしまうわけにはいかないんだ。君には悪いと思うよ。(40章)

僕は僕自身の責任があるんだ。自分がやったことの責任を果たさなくっちゃならないんだ。

ここは僕自身の世界なんだ。壁は僕自身を囲む壁で、川は僕自身の中を流れる川で、煙は僕自身を焼く煙なんだ」(40章)

やがて『ハートボイルド・ワンダーランド』で記憶を失うのと繋がるように『世界の終わり』でも別れが訪れる。

「幸せになることを祈っているよ」と影は言った。(40章)

たまりが影を呑み込んだ後、僕は長いあいだ水面みなもを見つめていた。一羽の白い鳥が南の空に呑み込まれていった。こうして物語が閉じられます。

もしかしたら冒頭にお話ししたように、まるで白昼夢を見ていて、ふっと現実の日常に返って、私は公園で目が覚めたのかもしれませんね。

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ふたつの物語が伝えたかったこと

風と歌に呼び起される、遠い過去の記憶

「世界の終り」は心を失った人々が住む世界です。

影は、この街に住む一角獣が人々のエゴを吸い、その重みに耐えきれず何匹もが冬になると死んでいく様子を語り、一角獣が犠牲になり循環する構造を非難し、この街は不自然で間違っていると非難します。

そして感情のない「世界の終り」で生きることを拒絶し、脱出しようと試みます。

老大佐は、昔は名誉や愛国心や闘争心や憎しみに生きたが、心を捨てれば安らぎがやってくると言います。心が消えてしまえば喪失感もないし、失望もない。行き場所のない愛もなくなるとさとします。

しかし主人公の<夢読み>は、まだ完全には心を失くしていないので、自身の喪失感を知っています。

遠い過去の記憶のなかで、自己のエゴから誰かを傷つけたかもしれない。・・・
理由もわからず、あるいは自分の思いやりの足りなさで大切な人を失ったのかもしれない。

「潜在意識のなかの自分」が作った象徴的な場所が“図書館”です。

この“図書館”つながりで言えば、初期の作品『1973年のピンボール』で理由が分からず自殺をした直子を思い浮かべます。

夢読みの「僕」の深層の意識のコアが「直子」でなければ、影と別れてまで<街>に留まる理由が見いだせません。彼女と出会った場所も“図書館”でした。

やや飛躍しますが、図書館は直子の鎮魂の場なのでしょう。だから図書館の彼女、つまり直子にも心を取り戻してほしいのです。

「ハードボイルド・ワンダーランド」の天才老博士は計算士の私に、それはあんた自身が作り出したあんた自身の世界です。

あんたは、その世界で失ったものを取り戻すことができるでしょう。 と言いました。

そして「世界の終り」は主人公の潜在意識下の世界であり、そこでもう一度、自分を探そうとしているのです。それほどに、遠い記憶の中に置き忘れたものを探し、失った心を取り戻そうとしている自分に気がついたのです。

そういえば、天才老科学者は、それに比べれば、この今の世界はみせかけのまぼろしのようなものに過ぎんです。進化は常につらく、そしてさびしいものですという言葉を発していました。

強い壁に囲まれて生きていく、ほんとうの心

村上作品には「こちら側の世界」と「あちら側の世界」が多くあります。

『ハードボイルド・ワンダーランド』では軽快な都会人のどこか冷めたお洒落な生き方が描かれ、脳の回路を変えられてしまうという不幸に見舞われ、アドヴェンチャーな展開となります。そして最後にしみじみと半生を振り返ります。

自我や利己心が他人に及ぼしたことを考え後悔はしながらも、正当化して生きるしかない現実社会があります。そして生きることで公正とは何かを見届けたいとしています。そこには自分をかばう自己愛を感じます。自己本位な人生への態度です。

しかし潜在意識下で、映像化された『世界の終り』では、自分が失ったものや失いつつあるものがはっきりと認識できました。心の奥底にずっと喪失を抱えていたのです。

かなりのページを割いて、思念の世界に生きることを逡巡しています。結果的に、主人公の<夢読み>は、「こちら側の世界」に戻ることなく、「世界の終わり」という「あちら側の世界」に留まります。

つまり喪失した自己を取り戻そうと決意します。街を囲む高い壁とは、いうまでもなく固い殻に閉じこもった自己であり、そこから解き放たれようとすると、ぐいぐいと外側から締め付けてくるのです。

過去を変えることは不可能です。それでも意識の核(コア)で、もう一度、本当のこころを求めようとする姿。それは、こころに真面目に向き合いたいとする自らの意思です。

明るくて楽しいけれど、祝祭感のない日常と、不死の世界に生きる、浄土のような終末感。

文学が時代に寄り添うためには、その対象は自己の殻にこもる現代人に問いかけることかもしれません。村上文学は人々の閉ざされた内的意識に語りかけます、だからこそ世界の人々に共振し続けるのでしょう。

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