村上春樹『蜂蜜パイ』あらすじ|愛する人々が、新たな故郷になる。

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解説

淳平の臆病さと小夜子の無意識の偽善を、温かな物語に変える。

小夜子こそが探し求めていた人だと確信する淳平ですが、三人のグループの調和を尊重しているところを、高槻に抜け駆けされ挙句には高槻からこう言われます。

でもな、淳平、こいつはいつか起こっていたことなんだよ。それは理解してくれ。今起こらなくても、いつかはどこかで起こったはずだ。(201P)

そして「これまでどおり、三人で友達としてつきあっていきたい」と言われます。

それから何日かを淳平は雲の上を歩いているような気持で過ごします。

小夜子を思うことの幸せや胸の高まりが、淳平は一瞬にして砕かれた状態です。

さらに小夜子からも「淳平のことも必要なので、これからもずっと仲のいい友だちでいたい」と言われます。そして、

「何かをわかっていることと、それを目に見えるかたちに変えていけるということは、また別の話なのよね。そのふたつがどちらも同じようにうまくできたら、生きていくのはもっと簡単なんだろうけど」(204P)

と小夜子に言われ、淳平には理解できません。

淳平は高槻より先に自分が小夜子に愛を告白していたらと考えますが、そんなことはできない自分を知っています。それがずっと淳平を引きずってきた後悔でした。

以上の部分は『蜂蜜パイ』の作品の前半部分の重要なメッセージです。

小夜子と唇をかさねたときに流行はやりの歌がかかっていて、「きっとこの歌を死ぬまで忘れないだろう」と淳平は思います。読者が思い起こされるのが『ノルウェイの森』です、直子とワタナベとキズキの関係ですね。

ワタナベと淳平の内省的で孤独な姿は似ています。男二人と女一人の関係性も同じ空気感を醸しますが、その後に「後日どれだけ努力しても、その曲の題名もメロディも思い出せなかった」とあります。楽曲を否定しており、異質の物語としての惹きつけ方をしています。

前半部分の位置づけは、内省的で自己主張のできない臆病な淳平の姿です。

そして小夜子の言葉(204P)が重要です。この心象を連想させるのは漱石の『こころ』でしょうか。淳平と高槻の関係は、先生とKの状況と少し似ていますが、ここでも異なります。寧ろ、「静」というお嬢さん(後の先生の奥さん)の心象に注目すべきです。そして『三四郎』の美禰子には最も強くこの特徴は表れます。『蜂蜜パイ』の小夜子にも同じような女性特有の部分を感じます。

漱石がテーマとした、女性の<無意識の偽善者>としての一面です。

涙を流しているのは小夜子のほうで、抱きしめようとする淳平に「駄目よ」と小夜子は静かに言って首を振り、「それは間違っている」と言い、淳平は謝ります。

そんな小夜子の内面的なエゴや偽善を描きながらも、『蜂蜜パイ』の物語は淳平が沙羅に話しかける即席の童話の「熊のまさきち」の語りが癒しをもたらしてくれます。

ドロドロした人間描写から、即席の童話を組み込むことで心温まるファンタジーにシフトしています。と同時に、沙羅が悩まされる怪しい「地震おじさん」が、神戸の震災が幼い子供にもたらしたPTSDの怖さを感じさせます。

地震が勇気を奮い起こし、淳平に新しいふるさとができる。

なぜ小夜子は高槻を選んだのか。学生時代に淳平は小説家になりたいと思ったし、小夜子も小説を熱心に語りあうほど好きだったのに。お互いは仲睦ましくみえました。

小夜子は積極的で人なつっこく現実的な高槻の愛の告白を受け入れます。そして大人になっても三人の関係は続きます。高槻は一流の新聞社に就職を決め、小夜子も希望通り大学院に進む。そして二人は結婚する。

高槻の言う通り、淳平は女の気持ちについては鈍感なのでしょう。高槻は淳平に向かって「大事なことは何もわかっていない」と言います。大事なこととは何なのでしょう。

小夜子が30歳の時に沙羅が生まれ2歳の時に破局を迎えます。高槻に恋人ができて二人は別々になろうという。そして小夜子からは、

「その方がきっとうまくいくと思うから。いろんな意味合いで」(217P)

と言われ、淳平は「いろんな意味合い」という言葉が分からない。淳平と小夜子は正式に離婚をする。淳平は高槻が小夜子と別れたことを「ろくでもない馬鹿だよ」と言うと、高槻は「それは言えてる」と言いながら、

「どうしようもないことだったんだ。止めようもないことだったんだ。どうしてそんなことが起こったのか、俺にもわからない。申し開きもできない。でもそれは起こったんだ。今じゃなくても、いつか同じことがどこかで起こっただろう」(220P)

と昔と同じようなせりふ(201P)を言う。そして高槻は「小夜子は世界でいちばん素晴らしい女だと今でも思っているが、だからこそうまくいかないことが世の中にはある」と言う。

よく理解できない淳平に、高槻は「お前には永久にわからない」と言われる。

二人が離婚して2年が過ぎる。淳平は小夜子に仕事の世話をして自分も小説家として知られるようになる。小夜子に結婚を申し込むことについて、淳平は真剣に考えるが迷い続けて結論がでない。

そこに神戸の地震が起こる。淳平は根を失くし、どこにも結びついていないと感じる。

阪神・淡路大震災。スペインに洋行中の淳平は、出身の神戸が崩壊し市街地に黒煙が立ち上るのをテレビのニュースを見る。それでも淳平は両親との確執で連絡も取らず東京の生活に戻る。

しかし内奥に隠された傷あとは生々しく露呈されます。巨大で致死的な災害が生活の様相を足もとから変化させます。淳平はこれまでにない深い孤独を感じます。

小夜子の娘、沙羅も地震のニュースの見すぎで情緒が不安定になっています。そんなときに頼る人間がいない小夜子は淳平に助けを求めます。

淳平は沙羅のために、蜂蜜とりの名人の「熊のまさきち」の童話を即席でつくって話し聞かせる。その童話を語りながら沙羅を通して、小夜子と淳平の時間が静かに穏やかに流れていく。

地震の不安と喪失感は、淳平に強い勇気と責任感を与えてくれます。

約束していた日曜日に動物園に熊を見に行き、大きな熊を見て「とんきち」と名をつけ新たに即席の話を作るが、暗い結末になってうまくいきませんでした。

夕食を小夜子と沙羅の三人で一緒に過ごす。やがて沙羅が眠りについた後で、淳平と小夜子は結ばれる。そして淳平は学生の時と変わらない小夜子への同じ思いを気づく。

そこに沙羅が目覚めて二人の前に立ち、「地震のおじさんがやってきて、みんなのために箱のふたを開けて待っている」と伝える。

淳平は何かが箱のふたを開けて待っていると思うと背筋のあたりに寒気がした。この震災のように、いつも不幸はどこかで隠れて口を開けて待っていると感じます。

淳平は沙羅と小夜子と、二人の女性を護って生きなければならないと思う

淳平は愛する人といることで勇気が奮い起こされ、始めて責任を引き受け生きることを覚悟します。

淳平は今度こそ小夜子に結婚を申し込もうと思います。そして暗い結末になったままの「まさきち」と「とんきち」の話を沙羅と小夜子が納得するハッピーエンドにして二人が友達で終わる話に変えます。

これから先、たとえ空が落ちてきて、大地が音を立てて裂けても、朝の光の中で愛する人々をしっかり抱きしめている結末のような小説を書こうと思います。

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作品の背景

連作短編集の『神の子どもたちはみな踊る』の一篇。本短編集は1995年1月の阪神・淡路大震災および同年3月にオウム真理教が起こした地下鉄サリン事件の影響を色濃く表しています。全6篇の収録の中で、最後に収められたこの『蜂蜜パイ』だけが書き下ろしとなっています。

4歳の女の子が地震のニュースを見て情緒が不安定になるが、その娘を通して主人公の淳平の人生が勇気と責任を携えて大きく変わっていく。

この作品は二人の男と一人の女性のあいだで、学生時代から大人まで続く三人友達の関係、結婚した二人と残された一人の男、離婚する二人と残された一人の男、結婚を決意する男と再婚する女性と別れた一人の男という時間軸の人生の変遷に<地震>という出来事が起こった後の心象の変化を描き、主人公の淡々と語られていた内なる廃墟が「after the quake」をきっかけに、逆に力強く人生が転回する心温まる癒しの作品となっています。

発表時期

2000年(平成12年)2月、新潮社より刊行された。村上春樹は当時51歳。当初『新潮』1999年8月号から毎月5篇の短編が「地震のあとで」という副題付きで連載された。2002年2月、文春文庫として文庫化、「after the quake」と表記される。

表題作「神の子どもたちはみな踊る」のほか「UFOが釧路に降りる」「アイロンのある風景」「タイランド」「かえるくん、東京を救う」「蜂蜜パイ」の全6篇を収録。エピローグにドストエフスキーの『悪霊』一節と、さらにジャン=リュック・ゴダール『気狂いピエロ』の一節を引用している。英語版は2002年8月に『after the quake』でクノップ社より刊行。訳者は、ジェイ・ルービン。