村上春樹『アフターダーク』あらすじ|損なわれたエリと危ういマリを、朝の光が救う。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

解説(ここを読み解く!)

謎解きのヒントは「ある愛の詩」、高橋は嘘を平気でつける人間。

謎解きは必要ないかもしれませんが、カメラの視点で物語が展開することで、全体が捉えにくくなっています。広い意味で捉えれば「アフターダーク」そのものが<異界>であり<あちら側>の世界ですから非現実なものです。

推論を展開するにあたり突破口となる確固たる事実は、高橋のいう「ある愛の詩」の話が嘘話であることです。平然と嘘をつけることが高橋の人格の特徴です。

「ハッピーエンド。二人で末永く幸福に健康に暮らすんだ。愛の勝利。昔は大変だったけど、今はサイコー、みたいな感じで。」(9章_3:07am)

言うまでもなく、このアメリカ映画は悲恋物語(ライアン・オニール扮する裕福なハーバード出身のオリバーは、家柄の差のある恋人のアリ・マッグロウ扮するジェニーを白血病で失ってしまう)でありハッピーエンドではありません。そして恋人ジェニーが亡くなった後に、オリバーが和解した父親との会話で、ジェニーが言った「愛とは決して後悔しないこと」は印象的な情愛のこもった言葉でした。

嘘をつくというより寧ろ、全く違う物語に変える異常さがあります。

これに対して「アルファヴィル」というラブホテルが登場します。ジャン=リュック・ゴダールのフランス映画「アルファヴィル」についてカオルはマリにどんな映画かと訊ねます。するとマリは、

「アルファヴィルでは、人は深い感情というものをもってはいけないから。だからそこには情愛みたいなものはありません。ものごとはみんな数式を使って集中的に処理されちゃうんです」(5章_1:18am)

と答えます。人間が深い感情を持つことが許されない世界。「ある愛の詩」と「アルファヴィル」、二つの映画は対照的です。

ここで中国人娼婦の郭冬莉グオ・ドンリが男に殴打され身ぐるみ剥がされる事件が起こます。そして娼婦を殴打したのはコンピューターのシステム・エンジニアで昼の一般社員の勤務時間を避け、システム改修が可能な真夜中をメンテの時間にあてています。

物語のなかで「アルファヴィル」はきっと<異界>への境界、つまり大きな裂け目の場所としての役割を持ちます。

悪の系譜と連鎖、アフターダークの夜の闇の複雑性。

高橋とマリは深夜の「デニーズ」で出会い、夜が明けるまで中国娼婦の事件を挟み幾度かの会話の接点を持ちます。高橋は音楽好きな平凡な人畜無害な男性を演じていますが、別人格として怪しく異常な人間でもあります。既述の「ある愛の詩」の嘘話はプロット上、読者に警告を促すに充分です。

高橋の父親は詐欺的な商売で前科があり反社会的です。母親は愛情をもって育ててくれたが実の母親ではなく継母だった。父の遺伝を怖れるという高橋は、この時点で、綿谷ノボル的、ジョニー・ウォーカー的で<悪の系譜>に繋がっています。

さらに「アルファヴィル」の出来事もすべて仕組まれた出来事だと考えられないか。浅井エリとマリの姉妹を除けば、その他の登場人物はあまりに繋がりすぎています。

突然、マリの前に現れた高橋は、後で分かるのですが「アルファヴィル」でバイトをしていたという。中国娼婦が暴行を受けるが、カオルはマリが中国語に堪能であることを高橋から聞く、カオルが高橋に「誰か中国語がわかるのいないか」に訊いたという。高橋は以前、姉のエリから妹が中国語を堪能なことを聞いている。確かに辻褄はあっているが、あまりに偶然に話が出来上がっている。寧ろ、話の後付けのために高橋はマリとの「デニーズ」での会話の中で中国語の話題をわざわざしたような感じだ。

まるでマリに出来事が収斂されていくような流れになっている。あたかもマリが物語のターゲットのような印象です。

同時にマリにも変化が訪れてくる。中国娼婦の一件の後、カオルの誘いでバーに行き語らった後で、意図的なようにカオルはマリを「すかいらーく」に送り届ける。そこでマリは洗面台で何かが起こるのを予期しているような目で、鏡に映った自分の顔を見つめている。

マリが洗面所を出て行った後も、カメラの視点の私たちは内部を映し続ける。すると洗面台の鏡にはまだマリの姿が映っている。この描写は残影のようで、ここも境界であり、裂け目となっている。

鏡の中のマリは、向こう側からこちら側を見ている。真剣な目で、何かが持ち上がるのを待ち受けているみたいに。でもこちら側には誰もいない。(5章_1:56am)

このマリの描写は、アフターダークの魔界の世界が口を開けているようです。

最初に「デニーズ」で偶然、高橋と会ったこと。次に「アルファヴィル」での事件とカオル達との関係の始まり。そして「すかいらーく」の洗面台に映るマリ。ひとつひとつの場所が境界であり裂け目になっています。

悪の系譜と連鎖、アフターダークに発生するさまざまな裂け目。カオル達と中国組織は一味ではないが、警察沙汰を避けるという意味では客観的に<異界>を構成していく一部になっている。

テレビの中で眠り続ける、損なわれた浅井エリ。

村上作品では<こちら側>の世界と<あちら側>の世界が、壁や井戸などの境界を抜けて存在します。眠り続ける浅井エリがテレビの向こう側に移動することは、彼女のもうひとりの自分である影が<異界>にあることを意味します。

『アフターダーク』の世界では、巨大な都市の光の集中した繁華街の夜そのものが、裂け目になっています。その境界を超えると<異界>となります。そこは感情のない世界。その象徴として情愛のないコンピューターのバーチャル空間のように「アルファヴィル」があります。そこを抜けた何もない部屋が、浅井エリの眠り続けるテレビの中の<あちら側>の世界と繋がっています。

浅井エリは、何かの理由で損なわれています。

「あなたが『アルファヴィル』に一緒に行った相手の女の子って、ひょっとしてうちのお姉さんじゃないの?」(11章_3:42am)

とマリは訊ねます。高橋は「浅井エリじゃない、違う子だよ」と答えます。

高橋は以前に、マリにカオルとの関係を聞かれたときに、一度だけ女性に誘われて「アルファヴィル」に行ったが、お金がなくて、カオルにいわれて「アルファヴィル」でバイトをしたと答えていますが、きっと嘘です。高橋が「アルファヴィル」に一緒に行った相手は浅井エリで、高橋はそこで浅井エリを壊し損なっています。

これは『ねじまき鳥クロニクル』における綿谷ノボルが高橋であり、損なわれ方はクミコと同じ精神的なものです。この精神的なものとは『ダンス・ダンス・ダンス』の優等生のペルソナを被った五反田君と同じように、白雪姫のペルソナを被った浅井エリが自身の影の部分を、高橋によって露わにさせられたのでしょう。高橋の目的は美しいエリを損なうという知的好奇心からです。

そのせいでベッドに眠るエリは肉体のみで、魂は<異界>にいる状況になっています。

<あちら側>の異界にいる理由は、エリが損なわれているからです。<こちら側>に戻るためには、受け止めてくれる人がいなければなりません。これも村上作品のひとつの約束事です。そうなると受け止めてくれる人間は妹のマリとなります。

エリが眠り続けている=つまり肉体は現実に在っても、魂は異界にいる状態です。そしてその異界は、どこか空白の部屋で囚われの状態になっています。そこにはエリを監視している「顔のない男」がいます。

高橋は「顔のない男」、白川との関係は何なのか。

「顔のない男」は高橋です。もしくは、高橋のなかに棲む<邪悪>です。この<邪悪>は『ねじまき鳥クロニクル』の綿谷ノボルであり、『海辺のカフカ』のジョニー・ウォーカーです。

客体の固有名詞はそれぞれですが、観念的には<邪悪>となります。

高橋は一度だけエリとデートをして「アルファヴィル」でエリの損なった訳ですが、それはエリが高橋を誘ったのです。そしてエリは完全に損なわれます。その状態を、もうひとつの異常な人格の高橋が監視をしています。

<あちら側>でエリを監視する「顔のない男」は、高橋のもうひとりの影です。

エリのいるテレビの中の部屋の印象やveritechという会社のネームが入った鉛筆は同じですが、高橋と白川は同一人物ではありません。

中国の娼婦に暴力を加えた男は防犯カメラに映っていてDVDを拡大してカオルたちが確認しています。顔は十分に判別できるとありますので高橋の顔を知っているカオリは間違えることはないでしょう。この犯人は高橋ではありません。

この物語では、丸時計が章単位で表記され刻々と時間の経過が刻まれています。白川がタクシーに乗って家路に向かっている時刻と高橋がマリと公園にいる時刻は、ほぼ重なっていることが証明されますので別人である証拠ということになります。

白川は外見的には服装は清潔で、知的な印象もあり、育ちも悪くなさそう。仕事はコンピューター・ソフト関係のエンジニアでその作業ぶりは有能そうです。

しかし白川はもうひとつの人格を持っています。解離性の人格障害です。

思考の精緻さを優先するあまり、混乱させられた状態に置かれた時に異常性が表出する、その意味では、もうひとりの自分の人格を持っています。それが郭冬莉グオ・ドンリが生理という想定外の状況で起こった白川の娼婦への暴行の顛末です。

そこで『アフターダーク』では<邪悪>が再生されていると考えられます。

つまりエリの精神を損なった「高橋」がいて、郭冬莉グオ・ドンリを暴力で損なった「白川」がいて、そして今、マリをターゲットとしている「高橋」が時系列で存在しています。

そこにはアフターダークに棲みつく<邪悪>なものが再生産され循環しています。

「白川」がセブンイレブンのチーズ売り場の横に携帯電話を捨てて帰るが、「高橋」が同じ場所で「白川」が置き去った携帯電話が鳴る。まるで再生産が繰り返されているようです。

携帯電話を取ると、「逃げきれないよ」と男の声が出し抜けに言う。

「逃げきれない。どこまで逃げてもね、わたしたちはあんたをつかまえる」(16章_am5:10)

相手が何の話をしているのか当然、高橋には理解できないとされていますが、「ねぇ、ちょっと待ってよ」という高橋の言葉に対して留守録のテープを吹き込むメッセージのように、

「私たちは、あんたの背中を叩くことになる。顔もわかっているんだ」(16章_am5:10)

寧ろこのメッセージは、「白川」や「高橋」なる客体を通して再生産されるアフターダークの<異界>の生贄たちへの啓示のような不気味さを放ちます。

私たちのカメラアイは、朝の光がマリとエリを救うのを見る。

推論を重ねてあまりに飛躍すると小説自体が成り立たなくなりますが・・・

この『アフターダーク』の作品を、夜の時間に起こる想像を超えた、異次元の出来事と捉えてみます。村上世界に寄せて言えば、夜そのものが<異界>です。

私たちのまわりで原因と結果は手を結び、総合と解体は均衡を保っている。

結局のところ、すべては手の届かない、深い裂け目のような場所で繰り広げられていたことなのだ。真夜中から空が白むまでの時間、そのような場所がどこかにこっそりと暗黒の入り口を開く。そこには私たちの原理がなにひとつ効力を持たない場所だ。(16_5:09am)

マリは高橋が朝食を共にしようという誘いを、はっきりと強い意志で断り家に帰ります。そのころエリはテレビの中から<こちら側>に移動しています。朝が近づいているからです。

マリは高橋と別れ際に、幼稚園のとき地震に会いエレベーターの中で閉じ込められた話をします。その真っ暗闇の中でエリは、マリを抱きしめた。二人の身体が溶けあってひとつになるくらいにぎゅっと。エリもまだ小学校二年生だったけれど、年上である自分が強くなろうとした。エリは私のために歌も歌ってくれた。私たちが心を重ね合わせ、隔てなくひとつになれた瞬間。

でもそれからどんどん遠くに離れていって、そのうちべつべつの世界に暮らすようになった。あのエレベーターの暗闇の中で感じた強い心の絆のようなものは、私たちのあいだには戻ってこなかった。

この逸話の挿入は、村上の阪神淡路大震災からインスパイアされたものでしょう。まさに裂け目としての大震災、戸惑う人々の中で、確認される大切な関係や絆。

物語のなかでは、いつも強く演じなければならない<白雪姫>のエリと、そんなことを知らず心が離れていく<山羊飼いの娘>マリの関係が描かれます。

地震のときのエレベーターでの出来事からずっと<白雪姫>を演じるエリは、しだいに現実とのギャップが傷になっていく。そしてエリは、高橋という男に完全に損なわれた状態である。そこには「アルファヴィル」という大きな裂け目の場所があり、カオルもコオロギもコムギも、そして中国組織も娼婦も無意識に一部となっている。

村上の考え方を、コオロギの言葉を借りて話す場面で、

マリちゃん。私らの立っている地面というのはね、しっかりしてるように見えて、ちょっと何かがあったら、すとーんと下まで抜けてしまうもんやねん。それでいったん抜けてしもたら、もうおしまい、二度と元には戻れへん。あとは、その下の薄暗い世界で一人で生きていくしかないねん」(15章_4:33am)

この言葉には阪神淡路大震災の経験や、オウム事件で取材した『アンダーグラウンド』で、普通の暮らしを営む人々が突然遭遇した恐怖や、信者たちを取材した『約束された場所で』で、自身で思考することを放棄してシステムのなかに身をゆだねることの危険性を暗示しています。

姉の美しさに対して劣等感をもつマリは、高橋の<邪悪>に誘い込まれようとするが、家に帰ることで逃れる。来週の月曜日には北京の大学に交換学生として赴くので準備などに忙しいという。それでも高橋は手紙を書き、マリの帰りを気長に待つという。

物語で暴行を受けた娼婦は中国人だった。マリはこの中国語ができることもあり同じ19歳の不遇な郭冬莉グオ・ドンリに親近感さえ抱いている。このことも中国に留学に行くマリが日本にやって来てという再循環を予感させる。

姉について考え、家に居づらく、ひとり夜の街が明けるまで過ごすマリにとって、アフターダークにうごめく出来事は、ひとつの試練です。そしてマリはその試練を乗り越える。マリはかろうじて<異界>に移動することを踏みとどまることができました。

エリが自分のベッドに戻って来たときに、マリも部屋に入りエリのベッドにもぐり込む。姉の心臓のひとつひとつを理解しようと耳を澄ませる。マリの目から涙がこぼれる。

エリ、帰ってきて、と彼女は姉の耳元で囁く。お願い、と彼女は言う。(18章_6:40am)

ここでマリの心は癒されて、祈りとなる。マリがエリのベッドの傍に来たことで、エリが<異界>から戻る場所ができ、同時に、エリはマリを家に戻すことで高橋の危険から救ったのです。ここで二人の姉妹の関係は回復されます。

そして夜が<異界>であれば、朝の光は<こちら側>の世界です。それをカメラアイで見せられる私たちがいます。そしてエリの小さな唇が、微かに動く。私たちは、その動きを見逃さない。瞬間的な肉体の信号をしっかりと目にとめる。

今の震えは、来るべき何かのささやかな胎動であるかもしれない。あるいはささやかな胎動の、そのささやかな予兆であるかもしれない。(18章_6:520am_293P)

損なわれたエリと危うかったマリを取り戻そうと、朝の新しい光のなかで時間をかけて膨らんでいく。そしてその目撃者として私たちは確固たる<こちら側>となる。

そこに観念的に良識ある普通の暮らしを信じる私たちの視点が存在している。その源泉はきっと愛情ということだろう。

※村上春樹のおすすめ!

村上春樹『風の歌を聴け』あらすじ|言葉に絶望した人の、自己療養の試み。
村上春樹『1973年のピンボール』あらすじ|死霊との対話で、絶望からの出口を見出す。
村上春樹『羊をめぐる冒険』あらすじ|邪悪な羊に抗い、道徳的自死を選ぶ鼠。
村上春樹『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』あらすじ|閉ざされた自己の行方、ふたつの不思議な世界。
村上春樹『ノルウェイの森』あらすじ|やはり、100パーセントの恋愛小説。
村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』あらすじ|生きる意味なんて考えず、踊り続けるんだ。
村上春樹『国境の南、太陽の西』あらすじ|ペルソナの下の、歪んだ自己。
村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』あらすじ|時空を繋ぐ、人間の邪悪との闘い。
村上春樹『スプートニクの恋人』あらすじ|自分の知らない、もうひとりの自分。
村上春樹『海辺のカフカ』あらすじ|運命の呪縛に、どう生き抜くか。
村上春樹『アフターダーク』あらすじ|損なわれたエリと危ういマリを、朝の光が救う。
村上春樹『1Q84』あらすじ|大衆社会に潜む、リトル・ピープルと闘う。
村上春樹『パン屋再襲撃』あらすじ|非現実的で不思議な、襲撃の結末は。
村上春樹『象の消滅』あらすじ|消えゆく言葉と、失われる感情。
村上春樹『かえるくん、東京を救う』あらすじ|見えないところで、守ってくれる人がいる。
村上春樹『蜂蜜パイ』あらすじ|愛する人々が、新たな故郷になる。
サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ/ライ麦畑でつかまえて』あらすじ|ホールデンの魂が、大人のインチキと闘う。
フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー/華麗なるギャツビー』あらすじ|狂騒の時代、幻を追い続けた男がいた。