村上春樹『アフターダーク』解説|なぜ浅井エリは眠り続けているのか?

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メッセージと感想

「アフターダーク」の世界の説明として、

結局のところ、すべては手の届かない、深い裂け目のような場所で繰り広げられていたことなのだ。真夜中から空が白むまでの時間、そのような場所がどこかにこっそりと暗黒の入り口を開く。そこは私たちの原理がなにひとつ効力を持たない場所だ。(16章)

と締めくくられます。この作品には阪神淡路大震災の記憶がこめられているようです。

どうして浅井エリは眠り続けているのでしょうか?
それはエリがマリを守るためなのではないでしょうか。

しかしマリはエリとは会話を拒絶しています。仲良くなれないのです。

<あちら側>のTVのなかのエリは<こちら側>に何かの窮状を訴えています。しかしその叫びは、大きな声になることもなく<こちら側>のマリには届きません。

マリ自身が気づくことでしか、自分自身を救う方法はないのです。

テレビの画面が突然、落ち着きを失くしはじめ、エリは危険を察して逃げ出します。

邪悪の象徴である高橋の影がエリに近づいているのです。それはまた同時に、生身の高橋の危険がマリに近づいていることを意味します。

エリは、いつの間には<こちら側>の部屋に戻り、元通りの眠りの状態になったとされます。

マリは自分に取り得はないけれど、努力家であることを認めています、

マリにできることは考えて、考えて、考え抜くことなのです。何とか自分の力で目の前の危険から逃れることができるのでしょうか。

やがてマリを迎えに、高橋は「アルファヴィル」にやってきます。しかし高橋の朝食の誘いを、マリは、はっきりと断り家に帰ります。

マリは別れ際、高橋に、幼稚園のとき地震にあいエレベーターの中で閉じ込められた話をします。

その真っ暗闇の中でエリは、マリを抱きしめた。二人の身体が溶けあってひとつになるくらいにぎゅっと。エリもまだ小学校二年生だったが、年上の自分が強くなろうとした。エリは私のために歌も歌ってくれた。私たちが心を重ね合わせ、隔てなくひとつになれた瞬間。

それはマリにとって大切なエリの記憶であり、コオロギのアドバイスでもあります。

その記憶によってマリは自分が強くなることができたのです。

姉の美しさに対して劣等感をもつマリは、高橋の<邪悪>に誘い込まれそうになりますが、自らの意志で逃れることができました。

アフターダークに蠢く出来事はひとつの試練です。

マリは試練を乗り越える。マリは<異界>に墜ちることを踏みとどまることができました。この物語は、すべての出来事がマリに収斂されていく流れになっています。あたかもマリがターゲットのような印象です。だからマリが主人公なのです。

家に帰ったマリはエリのベッドに入り込む。若い姉妹が身体を寄せ合って眠っている。エリの心臓の鼓動を理解しようとマリは耳を澄ませる。マリの目から涙がこぼれる。

エリ、帰ってきて、と彼女は姉の耳元で囁く。お願い、と彼女は言う。(18章)

ここでマリの言葉は祈りに変わります。マリがエリのベッドに添い寝をする。

それは地震のときの真っ暗なエレベーターの中と同じように。今度はマリがエリを守ろうとします。

そのためにエリは『これからしばらくのあいだ眠る』必要があったのです。

このお話は犯人を明確にすることではなく、私たちの精神の脆弱さ、あるいは人間の善悪の基準の境界のあいまいさの中に、まさにミステリーー神の隠された秘密ーを共有することだと思います。

カメラの視点は、都会の上空を離れ閑静な住宅地の上に移動する。

マリがエリに口づけをする、エリの小さな唇が微かに動く。来るべき何かのささやかな胎動のように。

その目撃者として私たち(神聖なるカメラ)は確固たる<こちら側>となる。

邪悪を退け、自立することができたマリ。だからこそ眠り続けるエリを目覚めさせることができそうです。 二人の思いは、朝の新しい光のなかで時間をかけて膨らんでいくのです。

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