村上春樹『品川猿』解説|名前を盗む猿と、人間の心の闇

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本作品のメッセージと感想

名前は、自己を同一化するアイデンティティそのものです。物語では、旧姓の大沢から結婚して安藤に変わります。みずきのアイデンティティも、大沢の血統で繋がる家族と、安藤となったことで新しい家族も加わりそうです。

しかし、みずきは母親から愛されずに育ち、また夫の安藤を愛していないことを品川猿に指摘されます。みずきは深い「心の闇」を抱えていたのです。

それを、みずき自身はうっすら気づいていて、他者には隠し続けていたのでした。

人は人それぞれに、他者にはわからない、あるいは隠しておきたい、自分だけの自分を抱(かか)えて生きています。そして内側に秘めた自分に圧し潰されそうになるときがあります。限界を越えるとそれは危険な結果をもたらす場合さえあります。

松中優子は、自身では制御できない「嫉妬心」に駆られて死を選んだのでしょう。

大沢みずきの場合は、「心の闇」を表には現(あらわ)しませんが、結果、家族の記憶のせいで、人を心から愛することができなくなっています。

この物語は、名前を盗むことで、みずきの負の記憶である「心の闇」も引き受けてくれます。

名前=アイデンティティ=ポジとネガの両面(全体)を抱える私自身であり、品川猿(というかわたしたち猿とあるので猿たち)は、心惹かれた人間のポジティブだけではなく、ネガティブの部分も受け入れるというのです。

ここでの「心の闇」とは、みずきの隠したい「家族に愛されなかった」記憶です。

品川猿は、選り好みをせずに悪しきもの=つまり、みずきの「心の闇」も引き受けるというのです。それも含めて、品川猿はみずきに恋をしているのです。

するとみずきは心の解放ができますよね。うん、品川猿には、ほんとうの優しさや寛容がありますね。

別の言い方をすれば品川猿が片想いをすることで、みずきは、自身の暗部をいくらか取り除くことができるのです。

しかし如何せん、相手は猿です。人間のように両想いになることは不可能です。

そうしてもうひとつの大きな問題があります。それは他者に委ねることで、みずきは自己の名前(=アイデンティティ)を失っていくことになります。

それは自分でなくなることを意味しています。

さぁ、名前が戻ってきました。彼女は他の誰かに変わることは出来ないし、彼女こそがただひとりのみずきなのです・・・

みずきは自身の現実と向き合い、大沢であり安藤である自分の名前と生きていくことを再度、確認するのです。

で・・・品川猿は・・・? 一応、みずきの許しを得て、人間たちの配慮で高尾山(たかおさん)に放たれるようです。命は助けられました。うーん、品川猿は、猿に生まれたばっかりに・・・可哀そうな気もしますねぇ。片想いってせつないですね。

でも、お猿さんですしねぇ、名前を盗まれるとやはり人間は生きていけませんからねぇ、仕方ないですよね。

このお話そのものが、どこかカウンセリングの題材のようですね。

尚、この後に『品川猿の告白』が発表されています。元気でやっているといいですね!

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