村上春樹『国境の南、太陽の西』解説|初恋の幻を追う、囚われの自我からの帰還

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本作品のメッセージと感想

露わになった歪んだ自己は、また隠されていく。

ペルソナが剥がれれば、その下に何があるのか。それは不完全な自己が露わになっていく。

ハジメには三人の女性、島本さん、イズミ、そして妻の有紀子がいる。

ハジメと島本さんの関係は初恋であり純愛である。ハジメの孤独で我儘な性格と、脚をひきずるハンディがありながらハジメを優しく癒し、自分も強く生きようとする島本さんとではかなり異なる性質である。このハジメの純愛は精神的に大人で美しい島本さんに包まれている状態である。

しかし島本さんもまた守られる人を失い、その一途な気持ちから精神の安定を失ったまま薄幸な大人を迎えたのだろう。しかし彼女はハジメと邂逅することで一瞬の幸せを感じ、消え去ることで最終的にはハジメを守っている。

そしてそれはハジメの自我の歪みがもたらす幻想でもあった。

イズミとは、男女の関係になれなかったことで、身近なイズミの従妹との激しい肉体関係に及んでいる。その関係は倫理では許されない。

ハジメのなかに乱暴で無神経な悪が潜んでいるが、それはハジメの傲慢さや自己愛がもたらす行為である。そしてイズミの従妹は三十六歳で死に、イズミは亡霊のように生きて、時々にいろいろな場所でハジメの前に現れる。

有紀子との関係は、幸せな結婚生活や、二人の娘に恵まれた家庭、バーの経営も順調である。それなのに島本さんの記憶の中で、全てを捨てて彼女と生きようとする。島本さんがハジメの前から消え、やがてハジメの前から島本さんとイズミの幻影も消えた。

ハジメは自分の不完全さを有紀子に詫び離婚を否定する。それは至高体験を求めながらも決して行動に移せないハジメの受動的な人生である。そしてご都合的にもう一度新しい生活を始めたいと願い、有紀子はそれがいいと仕方なく微笑む。

ハジメはこれまでの人生でなんとか別の人間になろうとした。それはある意味で成長することであり、ある意味でペルソナの交換のようなものだ。

でも、

僕はどこにもたどり着けなかったんだと思う。僕はどこまで行っても僕でしかなかった。僕が抱えている欠落は、どこまでいってもあいかわらず同じ欠落でしかなかった。(中略)僕の中にはどこまでも同じ致命的な欠落があって、 その欠落は僕に激しい飢えと渇きをもたらしたんだ。(15章)

ある意味においては、その欠落そのものが僕自身だからだよ。僕にはそれがわかるんだ。(15章)

と言いながら、自分の深層の歪んだ自我をハジメは有紀子に語る。

それは不完全なまま大人になった哀しく憐れな自己の告白だ。

それに対して有紀子は、

「可哀そうな人」(15章)

と壁に書かれた文字を読むように、どこか呆れて茫然とした様子である。そして、

「これが続いているあいだ、私は何度も本当に死のうと思ったのよ」(15章)

と言う。有紀子は二十二歳の頃に自殺を図っている。

彼女も幻想を追いかけた時期があったが、自分の意志で乗り越えたという。有紀子は、今回のことで自殺まで考えたがしなかったのは、ハジメがいつか帰ってきたら自分が受け入れるだろうと思っていたからという。

そして、

「何かに追われているのはあなただけではないのよ。何かを捨てたり、何かを失ったりしているのは あなただけじゃないのよ」(15章)

と彼女は言う。

有紀子は大人で優しく諭すようにハジメと向き合う。有紀子の理性的な対話により何とか離婚を免れて修復の糸口を見つけ、妻や子供と生きる幸せをハジメは守ろうとする。

国境の南とは、有紀子であり、太陽の西とは島本さんの暗示なのかもしれない。

そして国境の南には凡庸な幸福があるが、太陽の西には孤独な死が待ち受けているのだ。

しかし最後までハジメの異形は無くならない。ハジメは墓地の上に浮かぶ雲を眺める。真っ暗な部屋の中で広大な海に、誰に知られることなく密かに降る雨を思う。

誰かがやってきて、背中にそっと手を置くまで、僕はずっとそんな海のことを考えていた。(15章)

ここで物語は終わる。

幻想の中であれば、海に降る雨を考えているときに、背中に手を置いたのは島本さんとなる。物語がここで完結するのなら手を置いたのは有紀子だろう。

あなたは、どちらだと思われますか?

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