勇敢で狡猾で天真爛漫な おぎんは、棄教の口実が咄嗟に閃めいた。
そして一月ばかり後に、とうとう三人を火炙りの刑に処することにする。
「実を云えば、この代官も、世間一般の代官のように、一国の安危に関わるかどうか、そんなことは殆ど考えなかった。第一に法律があり、第二に人民の道徳があり、わざわざ考えて見ないでも、格別不自由はしなかった(P154)」とある。
まさに芥川らしいシニカルな表現、つまりは法治を墨守するだけの思考停止の公務員なのである。
刑場は、丁度、墓原の隣りである。三人は太い角柱に括りつけられる。堆い薪が組まれている。周囲には大勢の見物人が詰め掛けている。一切の準備が整い、最後通牒で役人が「天主のおん教えを捨てるか捨てぬか」少時の猶予を与える。
しかし彼らは答えない、遠い空を見守ったまま、口もとには微笑みさえ湛えている。
無数の眼が瞬きもせず、三人の顔に注がれる。これは痛ましさの余り、息を呑んでいるのではない。火のかかるのを、今か今かと待っているのである。まさに今、薪に火が放たれようとする!
そのとき、おぎんは、はっきりと「わたしはおん教を捨てる事に致しました」と宣言した。
孫七が悲しそうに、力ない声で「おぎん!お前は悪魔にたぶらかされたか?もう一辛抱しさえすれば、おん主の御顔も拝めるのだぞ」と言い、おすみも「おぎん!おぎん!お前は悪魔がついたのだよ。祈っておくれ。祈っておくれ」と言う。
縄を離れたおぎんは、孫七とおすみの前へ跪きながら、何も云わず涙を流す。そして言う。
「わたしはおん教を捨てました。その訣はふと向うに見える、天蓋のような松の梢に、気のついたせいでございます。あの墓原の松のかげに 、眠っていらっしゃる御両親は、天主のおん教も御存知なし、きっと今頃は いんへるの に、お堕ちになっていらっしゃいましょう。それを今わたし一人、はらいそ の門にはいったのでは 、どうしても申し訣がありません。わたしはやはり地獄の底へ、御両親の跡を追って参りましょう。どうかお父様やお母様は、ぜすす様やまりや様の御側へお出でなすって下さいまし。その代りおん教を捨てた上は 、わたしも生きては居られません。・・・・」
芥川龍之介:おぎん 引用
おぎんは、こう切れ切れに云って、啜り泣きに沈んでしまう。
この部分が、物語のクライマックスである。おぎんは死んだ両親への愛ゆえに、地獄に二人を置いておくわけにはいかず、自分も地獄へ行くというのだ。
おぎんの棄教は、仏教徒のまま死んでいった実の父母が地獄にいる、それなのに自分だけ天国へは行けないという感情、だから棄教して実父母のもとへ行くと、養父母に涙ながらに訴える。そして養父母は天国へ行って欲しいと願う。そして養父母を棄てた自分は死ぬという。
一読では、人倫の道として人間愛や親孝行を思う完璧な論理である。しかしここには、おぎんのたくらみが潜んでいる。
余談ですが、物語のいんへるの、これはキリスト教の地獄です。仏教の地獄では、輪廻転生があります。現世の行いをもとに、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間(=人間界)、天上(=天国)の六道となり、このひとつが地獄です。さらにこの上に極楽浄土があります。
キリスト教(ローマ・カトリック)の方は、告解をして善行を積むこと、寄付や慈善によって ぱらいそ へ行き、キリスト教を信じぬものは いんへるの へ墜ちるとなります。
おぎんの言葉で、おすみも孫七も棄教をして生き抜くことを選ぶ。
すると、じょあんな おすみも、ほろほろ涙を落とし出します。
孫七は「お前も悪魔に見入られたのか?」と云い、「天主のおん教を捨てたければ、勝手にお前だけ捨てるが良い。おれは一人でも焼け死んでみせるぞ」と、よく言えば「威厳」ですが、寧ろこれは「虚勢」に近い言葉です。
すると、おすみは「いえ、わたしもお供を致します。けれどもそれは・・・」と涙を呑み込み、半ば叫ぶように「けれどもそれは、ぱらいそ へ参りたいからではございません。唯あなたの、―あなたのお供を致すのでございます」と言う。よく言えば「夫唱婦随」ですが、寧ろこれは「封建的な服従」下での夫を慕う思いです。
孫七は長い間、黙っていたが、その顔は蒼ざめ、血の色を漲らせ、汗の玉が顔にたまりだす。心の中にあにま を感じる。今、彼の霊魂を天使と悪魔が奪い合っている。動揺し悩んでいるのです。
その時、おぎんは顔を挙げていた。涙に溢れた眼に、不思議な光を宿しながら、じっと孫七を見守っている。そこにあるのは、無邪気な童女の心ばかりではなく、「流人となれるえわの子供」、あらゆる人間の心である。
「お父様!いんへるのへ参りましょう。お母様も、わたしも、あちらのお父様やお母様も、―みんな悪魔にさらわれましょう」
芥川龍之介:おぎん 引用
孫七は、どうとう堕落した。おぎんの巧妙なたくらみが、孫七の背中を押したのだ。
おぎん、おすみ、孫七。信仰心の厚いキリシタンが、三人とも棄教した。その理由は「ふと向うに」実父母が眠る墓が見えたからというのだ。見方によっては、ほとんど咄嗟の閃きのようなものである。
この話は、棄教話のなかでも、「最も恥ずべき躓きとして、後代に伝えられた物語である。(P159)」つまり、恥ずべき=みっともない、ということである。
殉教すれば<天国>、棄教すれば<地獄>という両端の構図は、そこにいたる人間の苦悩や真理の探究をあまりにも無視するもの。あくまでキリスト教の教義なのである。
じつは童女(まだ若く未来を生きる夢に満ちている)おぎんは、生を本能的に求めているのだ。
しかし実父母が死んだ後は、キリシタンの養父母に育てて貰っている。禁教下ながら幸せな時を送っている。しかし信仰している限りは、隠れキリシタンとして、幸せな生涯を送ることは難しい。果たして捕らわれの身となり、棄教するか否かを迫られている。
確かに信仰心は尊いが、「生きる」ことを優先するために、おぎんはどうするか。閃いたおぎんの口実(棄教の理由)を発端に、ひいては養父母の命をも救ったのである。
涙で溢れ、不思議な光を宿すおぎんの眼は、孫七に、はかりごとを眼で訴えており、頑なに殉教を目的とする頑固なだけの孫七の変節を願っている。
建て前は、「死ぬということの意味を知る。神のためではなく、両親への愛のため、大道のためということ。そこには天国も地獄も無意味なのだ。人倫を尊ぶ日本人の良き物語」として読者を感動させる。
更に又、伝うるところによれば、悪魔はその時大歓喜のあまり、大きい書物(聖書)に化けながら、夜中刑場に飛んでいたと云う。これもそう無性に喜ぶ程、悪魔の成功だったかどうか、作者は甚だ懐疑的である。
芥川龍之介:おぎん 引用
「悪魔は聖書に化けて大喜びしている」が、物語の最後に、作者である芥川がひょっこり顔を出して、おぎんの咄嗟に閃いた棄教の口実に、人間の愛の尊さや生への逞しさを匂わせながら、まるでベロでも見せるように悪魔までネタにする。悪魔とて、所詮は書物(聖書)のなかに棲んでいる形而上のことなのだ。
死に直面した時の生の渇望という人間の思い、怜悧に棄教の意味を捉える芥川の眼は、人間の性を賛美するお伽話として終わるのである。
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