芥川龍之介『河童』解説|嫌悪と絶望に満ちた人間社会を戯画に描く。

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晩年の作品『河童』について、芥川は書簡で「僕自身に対するデグウ(嫌悪感)から生まれた」としている。この作品は、人間社会の批評や風刺が描かれるが、それは作者自身への自虐でもある。

芥川は、日本的な私小説という形式をとらずに、自己という人間と人間の社会を、河童と河童の社会に置き換えて戯画化することを試みた。芥川の厭世的な感情、その生存の孤独と憂鬱は『河童』の寓話の世界で表現されることになる。

この世に生まれ落ちた芥川は、懐疑のなか生き、そして嫌悪と絶望に包まれていく。その思いは親からの遺伝、家族制度、恋愛、芸術、資本主義、刑罰、自殺、宗教と饒舌に広がりを見せる。 病苦に悩み、生活に疲れ、のしかかる重荷と、芸術の行き詰まり。そして次第に自殺に向かっていった晩年の芥川の心境を、登場する多彩な職業と性格の河童たちの群像に描く。

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あらすじと解説

「或精神病院の患者―第二十三号」が誰にでもしゃべる話として始まる。

彼は三十を越しているが、一見した所、若々しく見える狂人である。主人公の僕は、第三者としてこの狂人の『河童』の話を筆記する語り部の位置づけとなっている。

物語では、この狂人≒主人公の<僕>として読み進む。

狂人は、院長のS博士や僕に長々とこの話を続けた。話し終えると拳骨を振り回し誰に対しても「出て行け!この悪党めが!貴様も莫迦な、嫉妬深い、猥褻な、図々しい、うぬ惚れきった、残酷な、虫の善い動物なんだろう。出て行け!この悪党めが!」と怒鳴りつけるのである。

この「虫の善い動物」こそが全ての人間です。利己主義な人間社会。そして自分もその一人であること。まさに、自己に対する嫌悪と自虐です。

僕は、信州上高地の温泉宿から朝霧のなかあずさ川の谷を登ったが、深い霧で覆われ、仕方なく戻って岩場で休む。霧が晴れかかる頃、一匹の河童に出遭った。

夢中に追いかけるうちに深い穴の中に転げ落ち、気を失う。気がつくと大勢の河童に取り囲まれていた。河童の国に迷いこんでしまったです。

最初に遭った河童が漁師のバッグで、僕を治療してくれたのが医者のチャック。僕は河童の国の法律で「特別保護住民」として、チャックの家の隣りに住むことになった。硝子会社の社長のゲエルなども好奇心に駆られて僕に会いに来た。

僕は、河童の使う言葉を習い、次第に河童の風俗や習慣を分かるようになってきた。

河童の国は、日本の文明と大差が無い。河童は着物を身に着けることなく、腰のまわりさえ覆わない。僕が、この習慣を「何故か?」と尋ねると、漁師のバックは笑いながら「お前さんの隠しているのが可笑しい」と返事する。

ここで人間の国と、河童の国の価値の違いが紹介され、それはサカサマであることを知る。

我々人間は正義とか人道とか云うことを真面目に思う、しかし河童はそんなことを聞くと、腹を抱えて笑ひ出す。

河童は人間の考える「正義」や「人道」は滑稽だとする。ここには「正義」や「人道」が絶対ではないとの芥川の考えがある。それが、偽善と直結していることを芥川は見抜いているのだ。

百年前の時代から既に、現在のポリティカル・コレクトネスの大合唱の背景に、明らかに権力や利害の匂いを感じとっている。こんな始まりの晩年の作品『河童』

それでは芥川の生涯や思索とも照らし合わせ、物語のあらすじに沿って芥川の「自己嫌悪」の何たるかを解説してみます。

親からの遺伝の問題

まず、生命の誕生の問題が象徴的に描かれる。

僕が或時、人間の産児制限の話をすると、医者のチャックが笑いだす。

チャックは「しかし両親の都合ばかり考えているのは可笑しいですからね。どうも余り手前勝手ですからね」と云う。つまり両親の都合=産む側の視点での考え方だけ。

ここでは人間の考えている「人道」というのは利己的だとする。

僕はバッグの細君の出産に立ち会う。子供が生まれる際に、河童の国では、父親が電話でもかけるように母親の生殖器に口をつけ、胎内の子供に向かって大きな声で尋ねる。

「お前はこの世界に生まれて来るかどうか、よく考えた上で返事をしろ」

するとお腹の子どもが自ら諾否の意志を示すというのである。バックの場合は、お腹の子は答える。

「僕は生まれたくありません。第一僕のお父さんの遺伝は精神病だけでも大変です。その上僕は河童的存在を悪いと信じていますから」

すると産婆は細君の生殖器に何かの液体を注射し、大きかった腹を縮めてしまう。

河童の国では、生まれるか生まれないかの選択は、子どもにあるのだ。産まれる側の子どもの意志が尊重されるのだ。ここには芥川の出生にまつわる苦悩がこめられている。

龍之介の生後七ヶ月頃、実母ふくが発病し、その後十年間、狂人として生き続けた。そして龍之介が十一歳の時に、実母は亡くなっている。

自分もいつか発狂してしまうのではないか、それは芥川にとって生涯の恐れだった。

人は何故、苦しみに満ちたこの世に生まれてこなければならないのか。「河童的存在を悪い」と信じている。人間の存在が悪ならば、人間は生まれることを拒否する権利があって良いのではないか。これは「人間的存在を悪い」と考えている芥川の意見なのです。

龍之介の実母ふくは小心で内気な性格だったという。姉久子によれば、妹初子が風邪をこじらせ七歳の時に脳膜炎で亡くなったのを、ふくは自分の責任と考え、また龍之介を三十三の厄年で産んだことを悔み、形式的に捨て子として育てた。比して父敬三は激しい性格で、ふくは精神や肉体を病んでいった。

龍之介は「母に親しみを感じたことはなく、面倒を見てもらったこともない。いきなり長煙管で頭を打たれたこともあるが、だいたいもの静かな狂人だった」と、その様子は作品『点鬼簿てんきぼ』に詳しい。

やがて龍之介は狂気の遺伝子を恐れ、肉体の衰弱と共に、その恐れは益々大きなものとなり、自殺へと導かれる要因となっていく。

作品『侏儒の言葉』で親子について「人生の悲劇の第一幕は親子となったことにはじまっている」の一節がある。

重くのしかかる家族制度

河童の国でバックに劣らずよく世話になった学生のラップ。ラップを通して紹介された詩人のトック。髪を長くしてる詩人のトックはもっとも芥川を投影しています。

芥川の重荷となる家族の心象をトックとラップを引いて如実に描いてる箇所があります。

トックは「親子兄弟などと云うものは悉く互いに苦しめ合うことを唯一の楽しみにして暮らしてる」として「家族制度は莫迦げている」と考えています。

或時、窓の外を指さし「見給え。あの莫迦げさ加減を!」と吐き出すように言います。

窓の外の往来には、まだ年の若い河童が一匹、両親らしい河童を始め、七八匹の雌雄の河童をくびのまわりにぶら下げながら、息も絶え絶えに歩いている。

この描写には養子だったの芥川が、養父母と伯母の三人、そして妻と三人の子供。さらにこの頃、自殺した義兄の未亡人となった長姉の家族の面倒まで見るという精神的にも金銭的にも重荷となっている様子が描かれます。

物語では、僕は年の若い河童の犠牲的精神に感心し、その健気(けなげ)さを褒めたたえますが、トックは僕に対して「君はこの国でも市民になる資格を持っている。時に君は社会主義者かね?」と問われ、僕は「勿論」と答えます。

ラップも家族制度に苦しんでいます。妹のヒステリックさや、母親の妹贔屓(びいき)、母親と仲の悪い叔母の関係、年中酔っ払いの父親、盗みを働く弟と、散々です。これも芥川の家族に対する心象です。それでもラップはトックのように家族を棄てることができません。

トックは自分のことを「超河童(超人間)」だと誇りをもって答えています

家族制度を否定し、超人を自称するトックですが、それでも窓越しに見える平和な家族団欒を見て羨ましさを感じるところは、芥川の矛盾した心情が表われます。

煩わしかった恋愛の問題

ここでは恋愛の問題が扱われます。猛烈に迫ってくる女性の問題は、学生のラップの出来事を通じて紹介されます。

河童の恋愛は、人間の恋愛とは趣を異にする。雌の河童は、これぞと云う雄の河童を見つけるが早いか、雄の河童を捉えるのに如何なる手段も顧みない。

一番正直な雌の河童は遮二無二、雄の河童を追いかける。雌の河童は勿論ながら、両親や兄弟まで一緒になって追いかける。その結果、追いかけられた雄の河童は病に伏してしまうほどです。

ラップは、硫黄の粉末を顔に塗った女性の河童に抱きつかれて、床につき、いつしかくちばしが腐って落ちてしまう。

又時には雌の河童を追いかける雄の河童も見かけるが、それは雌の河童が雄の河童の気を引く策であり、いざ成就すると失望というか後悔をしてる、というのです。

ひどい時には、誘っている雌の河童が、大きな雄の河童の肩に隠れて襲われているフリをする。すると大きな雄の河童は、小さな雄の河童をねじ伏せる。すると雌の河童はにやにやしながら大きな河童の頸にしがみつく。

どうやらここでは、芥川のこれまでの女性関係で悩んだ心情が表れています。

二十三歳の頃、青山学院を卒業し才色兼備だった吉田弥生と結婚を望んだ際に、養父母の反対で立場上、諦めなければならず、弥生は軍人と結婚する。龍之介は養父母のエゴを憎むと共に自己を押し通せぬ辛さを知る。「何故生きてゆくのは苦しいか、何故、苦しくとも、生きて行かなければならないか」終生、離れぬ思いとなる。

二十七歳になった龍之介は、八歳下の塚本文と結婚する。毎日新聞社で月給と原稿料を得ることができ生活の見通しもついた。しかし、現実は煩わしく、結婚生活より芸術の方が僕の心をつかむと、親友にこぼしている。

その後、新人作家の集まりで、既婚者であるひでしげ子と出会う。この出来事がラップの恋愛のモチーフになっている。

最初、文壇の華やかな存在だったしげ子に芥川が熱を上げ、密会を重ねた。しげ子は次第に利己的な本性を露わにし、龍之介にまといつくようになる。自宅まで押しかけることもしばしばあった。しげ子は男子を出産するが、その子が芥川に似ていると言われ、いたく悩む。動物的本能を感じる彼女を芥川は重荷に感じる。

詩人のトックの隣りには、マッグという哲学者が住んでいるが、マッグだけは容姿が醜く捕まったことがない。またマッグは始終家のなかで本ばかり読んでおり、河童の国の恋愛から逃れている。

反面、「わたしもどうかすると、あの恐ろしい雌の河童に追いかけられたい気も起こるのですよ」と言わせている。

随筆『侏儒の言葉』の中で、女人について「健全なる理性は命令している。――「なんじ、女人を近づくるなかれ」 しかし健全なる本能は全然反対に命令している。――「なんじ(、女人を避くるなかれ」と記している。

理性と本能の相矛盾する恋愛感情、女性に抱く気持ちの不思議を披露してみせる。

芸術について

芸術の話が深堀りされます。雌河童と同棲するトックは細君を持たない自由恋愛家で、家族生活を軽蔑し、自ら「ぼくは超人(直訳すれば超河童)」と云います。

つまり、「芸術は何ものの支配をも受けない。芸術のための芸術である。従って芸術家たるものは何よりも先に善悪を絶した超人でなければならぬ」というのがトックの持論です。

この部分は芥川のまさに芸術至上主義を描いています。

トックの属する芸術家たちが集まる超人倶楽部に、天才音楽家のクラバックがいる。河童の国では絵画だの文芸での発売禁止や展覧禁止は行われないが、演奏禁止があり、クラバックが全身に情熱をこめて演奏すると会場の後ろ席にいる身の丈抜群の巡査が「演奏禁止」を命ずる。会場は大混乱となり、警官の横暴を観衆はなじり出す

これは当時の官憲による検閲の問題です。芸術に理解のない日本の風土とその検閲制度を風刺しています。

その音楽家のクラバックは芸術上の悩みがある。彼は他の芸術家、とくにロックの存在を恐れている。それは「何か正体の知れないものを、言わばロックを支配している星を恐れている。ロックは僕の影響を受けないが、僕はいつのまにかロックの影響を受けてしまうのだ」と云う。

この個所には同時代の作家、特に志賀直哉への思いが強く意識されています。芥川は、この時期、健康を害し、周囲の問題事に時間を取られ、思うように創作が散り組めない。その境遇への焦りが現れます。

芥川は同じ年に発表した文芸評論『文芸的な、余りに文芸的な』の<五.志賀直哉氏>のなかで「志賀直哉氏の作品は何よりも先にこの人生を立派に生きている作家の作品である。」とし、「道徳的に清潔に」という言葉を使い、人生を清潔に生きている作家としています。因みに武者小路実篤を楽観主義者、政宗白鳥を厭世主義者としています

また詩人トックの描写のなかに芥川の当時の状況が表れています。トックは不眠症に陥っており、医者にもいかず、おかしなことー(自動車の窓の中から緑色の猿が一匹首を出したように見えたのだよ)ーを口走って、自分は「無政府主義者ではない」と云って去っていきます。

そして学生のラップに「余り憂鬱ですから、さかさまに世の中を眺めて見たのです。けれどもやはり同じですね」と云わせています。芥川のどうにもならない憂鬱で孤独な気分が表れています。

ここで哲学者マッグが書いた「阿呆の言葉」が紹介されます。

芥川の『侏儒の言葉』や『或阿呆の一生』にみられる一節をアレンジして『河童』のなかに挿入させています、そのいくつかを記しますと・・・、

阿呆はいつも彼以外のものを阿呆と考えている。

我々のもっとも誇りたいものは、我々の持っていないものだけである。

何びとも偶像を破壊することに異存を持っているものはない、同時に又何人も偶像になることに異存を持っているものはない。

矜誇きんこ、愛慾、疑惑―あらゆる罪は三千年来、この三者から発している。同時に又恐らくはあらゆる徳も。

物質的欲望を減ずることは必ずしも平和をもたらさない。我々は平和を得る為には精神的欲望も減じなければならぬ。

などの警句と諧謔に満ちています。