芥川龍之介『トロッコ』解説|ぼんやりとした不安が、ふっと訪れる。

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人生の昂揚と不安

良平は二十六の年、妻子さいしと一しょに東京へ出て来た。今では或雑誌社の二階に、校正の朱筆しゅふでを握っている。が、彼はどうかすると、全然何の理由もないのに、その時の彼を思い出す事がある。全然何の理由もないのに?――塵労じんろうに疲れた彼の前には今でもやはりその時のように、薄暗い藪や坂のある路が、細細と一すじ断続している。

引用:芥川龍之介 トロッコ

トロッコの最後の部分の引用です。なぜ二十六歳の良平の描写で、物語は終わるのでしょうか。

この文章こそが、芥川が感じたことなのです。物語のほとんどをしめるトロッコと遊んだ幼い頃の一日の出来事は、良平の現在の心象を伝えるための記憶の紹介となっています。

八歳の良平の心の転換点は、

楽しく過ごしながら、遠いところまで来て、帰りは<自分一人である>という現実に、突然に遭遇した不安です。

あらすじ

それではあらすじに従い、良平の心の動きを追いかけてみます。

土を盛って山を下り走るトロッコ。 八歳の良平はトロッコにとても興味があります。線路を走るときのあおるような勢いや、土工の半纏はんてんが風になびくのを眺めながら、良平はトロッコの世界に憧れます。

ある日、弟と隣の子と三人でこっそりトロッコを動かします。ごろりと車輪が動き出し、トロッコは線路を上っていきます。これ以上、登れなくなったところで「さあ、乗ろう」と、良平の合図で三人が飛び乗ります。

その途端、目の前の風景は、たちまち両側へ分かれるように、ずんずん展開して来ます。顔にあたる薄暮はくぼの風、 足の下におどるトロッコの動揺、良平は有頂天になります。

もう一度、押そうとすると土工たちに見つかり叱られ一目散に逃げていきます。

十日後、良平は一人で工事場にやってきてトロッコを眺めています。すると今度は、親しみやすそうな若い二人の土工たちがいました。

「おじさん。押してやろうか?」と良平が言うと、「おお、押してくれよう」と快い返事です。良平は二人の間にはいると、力一杯押し始めます。 「われは中中なかなか力があるな」と言われます。

「いつまでも押していていい?」と尋ねる良平に、「よいとも」と答える土工を、良平はやさしい人たちだと思います。急勾配になり、両側には蜜柑畑の黄色い実があざやかです。

良平は「登り路の方が、トロッコをいつまでも押せるので楽しい」と思います。畑を上りつめ、下りで三人が乗り移ると、蜜柑の匂いを感じながらトロッコは線路を走り出します。今度は「押すよりも乗る方がずっとよい」と良平は思います。

八歳の良平は土工の仲間入りができてうれしかったことでしょう。そして憧れのトロッコに乗り、押して上り、滑走下りしながら、美しい山や海の景色にふれ有頂天です。

竹藪を抜け、雑木林に入り、高い崖の向こうの広々と寒い海が見える所まで来た時に、良平は、ずいぶん遠くまで来過ぎたと感じます。

「もう帰ってほしい」と思います。でも最後まで行かなければ、帰れないことは良平にも分かっています。トロッコは、さらに坂を上り、坂を下って行きます。

そして土工は「われはもう帰んな。おれたちは今日は向こう泊まりだから、あんまり帰りが遅くなると、われのうちでも心配するずら」と言います。

少年にとって、それは残酷な言葉であり、裏切られたような心持だったでしょう。

有頂天な気持ちから一転、一人で帰らなければならない、という現実に突き放された瞬間です。そして、この土方の “一人で帰りな” という言葉は、良平は全く予期していませんでした。

良平はこの言葉に呆気にとられ、泣きそうになります。それでも、泣いても仕方がないと思い、不安や心細さでいっぱいのなか、線路伝いにどんどん走り出します。

左に海を感じながら急な坂路を駆け登り、涙がこみ上げ顔がゆがみます。竹藪を駆け抜けると、夕焼けの山の空も沈みかかっています。

命だけでも助かればと思い、もらったお菓子を捨て、羽織を捨て、草履を捨て、足袋で走ります。良平は不安に感じながらも必死に駆けます。蜜柑畑を通り過ぎる頃には、あたりは暗くなる一方です。

良平は、すべってもつまずいても走っていきました。

幼い頃に一人で遠出をして、帰り道も分からず辺りが真っ暗闇になっていく経験をされたことがありますか? 良平は随分、遠くまで来ています。暮れはじめた景色は、八歳の少年にはさぞ怖く心細かったことでしょう。でも泣いている場合ではない、躊躇すれば、ますます日が暮れていきます。やがて、日は落ちて景色は闇のなかに消されそうです。何も見えない暗闇という不安です。幼い良平にとって、とても強烈な不安だったはずです。

遠い夕闇の向こうに、村の灯がほのかに見え、近づくと近所の人たちが声をかけますが、それでも良平は無言のまま走り続けます。そして家へ着いて激しく泣きます。

まわりの大人たちは、泣く訳を口々に尋ねますが、良平は遠い路を駆け通してきた今までの心細さを振り返り、ただただ大声で泣き続けるのでした。

解説

二十六歳の今、大人になった良平は上京し雑誌社の校正係の仕事をしています、すでに妻子を持ち家族を養っています。小さくても幸せな家庭を持っているのでしょう。

校正の仕事は、生活の保障はなく、その日の糧を得るのがやっとの心細い職業です。

「仕事」とは何でしょうか。「家庭」とは何でしょうか。「幸せ」とは何でしょうか。それぞれに絶対の安定がある訳ではありません。さらにその前提には<世間>があります。

全ては不安定で、実は漠然とした時間の連続なのです。家族を守るために、走り続ける心細い生活は、少年の日、線路づたいに不安に駆られ走り続けた薄暗くなっていく路に繫がっているのです。

毎日の生活に疲れた良平の前に、ふっと理由もなくよみがえる、トロッコの記憶。

八歳のあの日、良平にとって辿り着いた家での涙は、安堵の涙だったはずです。なぜ安堵なのか、それは家という帰る場所に着き、両親がいるという安心です。

その時の彼”とは、もちろん一人で帰る心細い良平ですが、その先には家族のいる家がありました。

二十六歳の良平には、帰る場所はもう有りません。彼こそが家であり、帰る場所でなければならないのです。逆に言えば、彼が不安である以上は、安堵できる場所はない、不安定な状況なのです。

塵労じんろうとは俗世間の煩わしい苦労のことです。俗世間の煩わしさというのは、生きていれば、時にいろいろとあるものです。

世間に疲れた時、トロッコの出来事を思い出すというのです。あの突然、容赦なく訪れた転機です。いつ訪れるか分からない不安です。絶頂の時に、訪れた不安です。明確な予兆などありません。

そんな漠然とした不安のなかで、良平は今日も家族とともに生きているのです。

日清・日露の勝利を経て日本は世界の一等国となります。民主の自由な思想と政治参加の機運が高まる中で、人々は浮かれています。トロッコは風を切り、風景は目まぐるしく通り過ぎます。良平の八歳の幼い頃の思い出です。しかし思いもよらず、一人で帰るという突然の不安に襲われました。

良平の二十六歳の頃の日本は、大正デモクラシーが翳りを見せはじめます。第一次世界大戦を終えて、戦後不況が訪れます。『トロッコ』発表の翌年大正十二年には関東大震災が起こります。

外の世界では、貧富の差や共産主義の思想が台頭し、国粋主義の思想も活発になり、社会は混乱し国家は強権的になっていきます。内の世界にも、この作品発表の頃の芥川は、健康が次第に悪化。神経衰弱、ピリン疹、胃痙攣、腸カタル、心悸昂進などの病気が続きます。

母親の死の経緯から、自分も狂人になるかもしれないという不安がつきまといます。外にも内にも芥川には<ぼんやりとした不安>がつきまといます。

芥川龍之介著「トロッコ」人生の昂揚と不安を描いた作品です、中学生の頃に読むと、八歳の良平の気持ち良さと心細さ伝わりますが、大人になって読むと、二十六歳の良平の心境が身近になります。

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