芥川龍之介『蜘蛛の糸』あらすじ|因果応報の慈悲と、利他の大切さ。

概要>蜘蛛の命を助けたことで、目の前に下りて来た一本の細い銀色の蜘蛛の糸。せっかくの因果応報のご慈悲だったが、犍陀多の利己心で糸は切れてしまい、もとの地獄へ落ちていく業。お釈迦様の慈悲深い救いと悲しい眼差し、その救いに求められる利他のこころ。

登場人物

お釈迦様
蓮の池を歩きながら、地獄の様子をご覧になり慈悲深いこころをお持ちになる。
犍陀多(カンダタ)
大泥棒で地獄で苦しむが、以前、一匹の小さな蜘蛛の命を助けたことがある。
地獄の亡者
犍陀多に下りた一本の蜘蛛の糸に群がって、上にのぼろうとする地獄の亡者たち。

あらすじ(ネタバレあり)

お釈迦さまは善の報いに、犍陀多に救いの機会をお与えになる。

ある朝、お釈迦さまは極楽の蓮池のふちをお歩きになっています。蓮の花は玉のように真っ白で、真ん中の金色の蕊(ずい)からは好い匂いがあたりへ溢れています。お釈迦さまは蓮の葉の間から下の様子をご覧になると、水晶のような水を透して三途の河や針の山の地獄の景色がはっきり見えます。

その地獄の底に、犍陀多(カンダタ)という男が蠢いていました。この男は、人を殺したり家に火をつけたりした大泥棒ですが、たったひとつ善いことをしたことがあります。

それは小さな蜘蛛を殺さず、命を助けてやったことがあったのでした。

お釈迦さまはこのことを思い出しになり、それだけの善いことをした報いに、この男を地獄から救い出してやろうとお考えになりました。幸い、そばを見ますと蓮の葉の上に極楽の蜘蛛が一匹、銀色の糸をかけています。お釈迦さまは、その蜘蛛の糸をとって白蓮の間から地獄の底へお下ろしになりました。

犍陀多は恐ろしい地獄の血の海で、一本の蜘蛛の糸を見つけ喜ぶ。

地獄の底の血の海では、ほかの罪人と一緒に浮いたり沈んだりしている犍陀多がいました。地獄は、まっ暗で、恐ろしい針の山がぼんやり光り、聞こえてくるのは罪人の幽かな嘆息ばかりで、ここに落ちてくる人間はさまざまな地獄の責苦に疲れはて、泣き声を出す力さえなくしています。

大泥棒の犍陀多も血の池にむせびながら、もがいてばかりいました。

ある時、犍陀多が血の池の空を眺めますと銀色の蜘蛛の糸が一すじ細く光りながら、自分の上に垂れてきます。犍陀多は思わず手を打ち喜びました。この蜘蛛の糸にすがりついて、どこまでものぼっていけば、きっと地獄から抜け出せ、もしかしたら極楽へいけるかもしれないと。

自分一人だけ助かりたいと思った途端に、糸は切れ地獄に逆落としになる。

さっそく犍陀多は蜘蛛の糸をつかみながら上へ上へとのぼり始めました。

地獄と極楽は何万里とあるので途中で休み、糸の中途にぶらさがりながら遥か目の下を見下ろしました。すると、血の池も針の山も足の下になっていました。

犍陀多は「しめた。しめた。」と笑いました。

ふと気づくと、蜘蛛の糸の下の方に数限りない罪人たちが、自分の後を何百、何千とのぼってきています。自分一人でさえ切れそうな細い蜘蛛の糸が、どうしてあれだけの人数に耐えることが出来ましょう。もし切れてしまえば、ここまでのぼってきた自分はもとの地獄に逆落としになります。

犍陀多は大きな声を出して「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸はおれの者だぞ、下りろ。下りろ。」とわめきました。

その途端、急に犍陀多のぶら下がっているところから、ぷつりと音を立てて切れました。

そして犍陀多は、あっというまにまっさかさまに地獄へ落ちていきました。

お釈迦さまは、利他の心の無い卑しい犍陀多を悲しく思われる。

お釈迦さまは、極楽の蓮池の淵に立ち、この一部始終を見て悲しそうなお顔をなさりながらまたぶらぶらとお歩きになりました。

自分ばかりが地獄から抜けだそうとする犍陀多の無慈悲な心が、相当の罰をうけて地獄へ落ちたのをあさましく思われたのでしょう。

極楽の蓮池の蓮は、玉のような白い花をお釈迦様の御足のまわりでゆらゆら動き、金色の蕊からは好い匂いがあたりに溢れています。

極楽はもう昼近くになったのです。

解説(ここを読み解く!)

●お釈迦さまは、因果応報の慈悲から一本の蜘蛛の糸を垂らされる。

ひとつは犍陀多の視点で捉えます。物語の内容通り、大泥棒の犍陀多ですが、唯一、以前に一匹の小さな蜘蛛の命を助けたことがあります。

そこで地獄でもだえ苦しむ犍陀多に、お釈迦さまは一本の細い蜘蛛の糸を垂らされる。地獄の闇夜に光る銀の蜘蛛の糸はまさにひと筋の救いです。この因果応報としての仏教の道理を説き、良いことをすれば良いことが必ずかえってくるとの道理となります。

しかし犍陀多は、自利ばかりで、因果の無い蜘蛛の糸に群がる亡者を払おうとします。そこにお釈迦さまは、利他のこころのない犍陀多をご覧になります。

蜘蛛の糸は、犍陀多のすぐ上で切れて、もとの地獄へ落ちていく。子どもたちに善行をつむことでの因果応報と他人を思う利他のこころの大切さを教えるものとなっています。

●お釈迦さまは、遠いところからいつも私たちをご覧になっている。

もうひとつは、お釈迦様の視点で捉えます。地獄は凄まじいところです。血の海や針の山、罪人たちは、地獄の責苦にもがいて、もう声も出ず喘いでいます。

お釈迦さまは、それを遥か上の蓮の花が咲く極楽浄土から蓮池を通して、まるで虫眼鏡で見るように大きくはっきりとご覧になっています。そしてこの物語では、犍陀多に対して蜘蛛の命を救った因果で、蜘蛛の糸をお下ろしになりました。

お釈迦様はいつも慈悲深くご覧になっています。例えば仏教に限らずその他の宗教の神々や自然の神々、人間の目には見えないけれど存在したり、また自然の現象などに姿を変えて現れます。

人間よりも崇高な存在が、人間を見ているという捉え方。だから皆、まじめな態度で生きて行かなければなりません。そこに、日々の祈りや慣習あるいは習俗が生まれ継承されていきます。

本作品は、お釈迦様と犍陀多と蜘蛛の糸に因果応報と利他の大切さを教えていますが、児童、子どもたちに向けて生き方の警句として紹介されています。

作品の背景

芥川龍之介の作品を、初期、中期、晩年の3つにわけると「蜘蛛の糸」は初期の作品になります。「鼻」で、夏目漱石に絶賛されその後、新聞や雑誌からの依頼が多くなります。大正8年に大阪毎日新聞の社員となり専業作家として契約を結び、「地獄変」の連載を開始。このころに鈴木三重吉がはじめた雑誌『赤い鳥』の創刊号に「蜘蛛の糸」を寄稿し、はじめての児童文学にかかわります。以後、「杜子春」などを発表していきます。

発表時期

1918年(大正7年)7月、児童向け短編小説『赤い鳥』の創刊号にて発表。芥川龍之介、当時26歳。はじめての児童文学作品。アメリカ作家で宗教研究科のポール・ケーラスの『カルマ』の日本語訳『因果の小車』の一編が題材とされている。

タイトルとURLをコピーしました