芥川龍之介『河童』解説|嫌悪と絶望に満ちた人間社会を戯画に描く。

スポンサーリンク

資本主義への憎悪と諦め

資本家のゲエルは人懐っこい河童で「資本家中の資本家」として登場します。書籍製造会社の工場では、一年間に七百万部の本を製造する大量生産の様子を描く。紙とインクと灰色の粉末を漏斗状の機械の口に入れるだけで、五分と経たないうちにいろいろなサイズの本が次々と出来上がる。

このことは書籍製造会社ばかりでなく、絵画製造会社、音楽製造会社にも起っていて機械による大量生産です。

この機械化で一ヵ月に四.五万の職工がストライキもなく解雇され食料として肉にされる。ゲエルによれば「餓死したり自殺したりする手数を国家的に省略してやる」と云うのだ。

僕が「職工は黙って殺されるのですか?」と問うと、裁判官のペップによれば、河童の国には「職工屠殺とさつ法がある」と云い、このことで肉の価格が下がったという。

戸惑う僕に対して、ペップは「あなたの国でも第四階級(プロレタリアート)の娘たちは売笑婦になっているではありませんか?」と返され、「ひと口、如何ですか?」と肉を薦められ、「職工の肉を食うことなどに憤慨するのは感傷主義ですよ」と云われ、僕は辟易する。

昭和初期の不況にかけて農村では女性たちが売られている。貧しい人々の苦しみに目を向けない非情さを物語っている。

話は政治に及ぶ。河童の国の天下をとっていたのは「クオラックス」党内閣で「河童全体の利益」を標榜していた。党を支配しているのは名高い政治家のロッペ。ロッペの演説は嘘に満ちている。

河童の国では、誰もが気づいている嘘は、畢竟、正直と変わらない。

そしてロッペを支配しているのが「プウフウ」新聞の社長のクイクイ。クイクイを支配しているのが後援者の資本家のゲエル

労働者の味方をする新聞の記者たち、しかし記者たちも自身のことだけを考えており、結果、社長クイクイ、そして資本家ゲエルによって支配される。そのゲエルは、最終的に美しい妻のゲエル夫人の支配を受けているという。

まさに芥川の見立ては、メディアも資本家の言いなりであり資本主義に組み込まれている。一定の金持ちエリートが社会を牛耳っているのである。

そして政党のトップを押さえている影の大物実力者のゲエルも、実はゲエル夫人に押さえられているという女性優位の真実をペーソス交じりに描く。つまり「クオラックス」内閣は、ゲエル夫人に支配されている。

さらに雌の河童が雄の河童を殺そうとして戦争まで起こった。隣国がある限り戦争は止まないとしている。仮想の敵国はかわうその国という。これもまさに地政学的な見立ててであり、当時の中国への日本の進出を皮肉っている。

それはささやかなきっかけからだった。道楽者の亭主を殺そうとした雌の河童がココアの茶碗に毒を盛り、誤ってかわうそ国の客人だった軍人が飲んで死んでしまった。

これが発端で、河童の国とかわうその国の戦争になり三十六万九千五百匹の河童が戦死した。この戦争で資本家のゲエルは戦地の食料に石炭殻を送り大儲けした。多くの兵士の死と戦争で儲かる資本家という相矛盾。

自らも大阪毎日新聞の社員であった芥川は、資本主義を批判しながらも、その盤石な社会構造の中で、嫌悪も憎悪も無力でやるせない心境である。

そこへ給士が訪れ「ゲエルの燐家が火事で焼けた」と告げると、ゲエルは、自家への類焼に狼狽するが、鎮火したことを知ると「燐家は自分の貸家なので火災保険の金は取れる」という。

罪と罰、そして自殺の問題

一か月前に僕は、或る河童に万年筆を盗まれたが、或る午後にその河童を見かけます。丁度通りかかった巡査に取り調べしてもらうと、盗んだのはグルックという二三日前まで郵便配達をしていた河童でした。

動機を訊ねると「子供の玩具にするため盗んだが、すでに子供は死んでしまった」と云う。死亡証明書を確認すると巡査は無罪とした。僕はあっけにとられます。

河童の国の刑法では「如何なる犯罪を行ひたりといえども、がい犯罪を行はしめたる事情の消失したる後は該犯罪者を処罰することを得ず」という条文を裁判官のペップに教えてもらいます。

僕が「不合理だ」と言うと、ペップは「親だった・・・河童も、親である・・・河童も同一に見ることは不合理です、同一に見るなんて河童の国では滑稽です」と云います。

さらに「死刑」についても、日本は絞罪ですが、河童の国は文明的で「犯罪の名を言って聞かせる」だけで、「神経作用に異常をきたし」死んでしまうと云うのです。

或る弁護士の河童は「誰かに蛙だと言われー蛙は人非人にんぴにんという意味なのですが―己は蛙かな?蛙でないのかな?と考えるうちにとうとう死んでしまった」と哲学者のマックは云う。

僕が「自殺ですね」と言うと、「殺すつもりで蛙だと言ったのですが、あなたがたの眼から見れば自殺と云うのですね?」とマックは云った。

芥川の義兄が高額の保険金をかけていた家が火事となり、偽証罪で執行猶予中に鉄道自殺します。高利の借金が残り、龍之介はその後始末に追われます。生きていた時の借金を、死んでも払わなければならない。その弁済のため芥川は東奔西走し、神経衰弱はいよいよ悪化します。このとき芥川が直面した社会経験が色濃く表れます。

このとき燐家からピストルの音が一発、空気を跳ね返すように響き渡ります。詩人のトックがピストルによって自殺したのでした。

自殺について、硝子会社の社長のゲエルは「何しろトック君は我儘だったからね」と云い、医者のチャックは「元来胃病でしたから、それだけでも憂鬱になりやすかった」と云う。何か残してあり、そこには、

「いざ、立ちて行かん。娑婆界しゃばかいを隔つる谷へ。岩むらは険しく、やま水は清く、薬草の花はにほえる谷へ」

と、ゲエテの『ミニヨンの歌』の剽窃ひょうせつらしき一枚があった。哲学者のマッグによれば「詩人としても疲れていた」と云う。クラバックはただその詩を読んでいた。

僕は、残された雌の河童に同情しながら肩を抱き、二歳か三歳の何も知らずに笑っている子供の河童をあやしました。僕は河童の国に来て、はじめて涙をこぼす。

「しかしこういう我儘な河童と一緒になった自家は気の毒ですね、後のことを何も考えないのですから」裁判官のペップは資本家のゲエルに返事をする。

これはまさに自殺を覚悟し、死後、心残りとなる妻や子供のことを思う芥川の心情です。

と同時に「しめた!すばらしい葬送曲ができるぞ」と眼を輝かせ飛び出す音楽家のクラバックの描写は、芥川の芸術家としての業を表わしています。

宗教の問題

トックの自殺を目の当たりにした哲学者のマッグに「兎に角我々河童以外の何ものかの力を信じることですね」と言わせて、宗教の問題が語られる。

河童の国では、基督教、仏教、モハメッド教、拝火ゾロアスター教など、いろいろあるが、もっとも勢力のあるのは近代教であり、それは「生活教」とも云い、大寺院があり、そこで「生命の樹」を崇拝する。

長老によると「生命の樹」には、金の果の「善の果」と緑の果の「悪の果」がっている。祭壇には、聖徒としてストリンドベリィ、ニイチェ、トルストイ、国木田独歩、ワグネル、ゴーギャンなどの大理石の半身像があった。

「生命の樹」の教えは「旺盛に生きよ」だと長老は説明する。

河童の聖書には、我々の神は一日のうちにこの世界を創った。そしてまず雌の河童をつくり、雌の河童は退屈の余り、雄の河童を求めた。我々の神はこの嘆きを憐れみ、雌の河童の脳髄を取り、雄の河童を造った。

『旧約聖書』の「創世記」の天地創造になぞらえ、雌が雄に先んじて造られている。これは河童の国の恋愛観と共に、芥川の女性への思いの強さでもあろう。

長老はトックの死を聞くと「我々の運命を司るものは信仰、境遇、偶然―畢竟この三者である」と語った。ここも随筆『侏儒の言葉』を引用している。そしてあなた方は「遺伝」を加えるでしょうとして、不幸にもトックは「信仰を持たなかった」とする。

我々の神はこの二匹の河童に『食へよ、交合せよ、旺盛に生きよ』という祝福を与えた。

「旺盛に生きよ」なる点は、社会の不条理や、やりきれなさや煩わしさを克服し、

生きることに近代教の特色があるとする。人生の諸問題は「生命の樹」を礼拝することによって、すべては解決するというのだ。

ここは宗教への批判とともに近代の批判にもなっている。

現実の世の煩わしさ、生活苦・病苦・人間関係などの娑婆の苦に対して、『食えよ、交合せよ、旺盛に生きよ』と近代教は説く。

そんな生き方は僕には納得できず「無意味」なものにしか見えない。

自殺したトックは幽霊となって現われ、心霊協会会長のペック氏と、信頼する元女優のポップ夫人を同伴、詩人トック氏の霊がポップ夫人に憑依し問答を行う。

トックの交友は広くクライストやマインレンデル、ワイニンゲルなどの自殺者を友人として称賛する。自殺はしていないがそれを擁護したモンテーニュは評価するが、厭世主義者のショーペンハウアーとは交友しないという。

トックは死後の名声を気にしたり、全集の売れ行きを気にかけたり、同棲した雌の河童の消息や、子供たちを心配するのだった。

狂っているのは、河童の国か?人間の国か?

こうして詩人トックの自殺を機に、僕はだんだん河童の国にいることに憂鬱になり人間の国に帰りたくなる。しかし僕の落ちた穴が見つからない。

或る年をとった河童に相談すれば叶うかもしれないと聞き、尋ねて見る。彼は生まれた時すでに六十を越えた白髪頭だったが年を経るにつれて若くなるという。

彼は「若いときは年寄りで、年をとった時は若くなっている」と云い「従って年寄のように慾(よく)欲にも渇(かわ)かず、若いもののように色にも溺れない」として幸せそうにしている。老人は「幸せでなかったとしても安らかだった」と云う。

この河童は、生まれて来た時に年寄りだったとが、一番幸せだったとする。

この河童の導きで、はじめに落ち込んだ穴から梯子を上って人間の国に帰ってくる。

僕は「我々人間に比べれば、河童は実に清潔な存在だ」と思った。そして一年後、ある事業の失敗をきっかけに河童の国に戻りたいと思う。そして家を抜け出し中央線の電車に乗ろうとしたところを巡査につかまり病院に入れられてしまう。

僕が河童の国のことを想いつづけていると、或る曇った午後に、漁師のバッグが見舞いに来た。ラジオニュースで僕の病気を知り、水道の鉄菅を抜け、消火栓を開けてやって来たという。

その後、いろいろな河童の訪問を受ける。僕の病はS博士によれば「早発性痴呆症」とのこと。

しかし河童の国の医者のチャックによると、

僕は早発性痴呆症患者ではなく、S博士やあなたがた読者の方だというです。

他にも学生のラップや哲学者のマッグや硝子会社のゲエルも月の夜に見舞いに来てくれ、音楽家のクラバックはヴァイオリンを弾いてくれた。

机の上の黒百合の花束もクラバックが土産にくれた(僕は後ろを振り返ったけれど、勿論机の上には花束も何ものっていなかった)。そして哲学者のマッグが持て来てくれた本の最初の詩を読む。(古い電話帳をひろげ大声で読み始めた)

そこには「仏陀はとうに眠っている」そして「基督ももう死んだらしい」という内容でした。宗教に対する芥川の不信の気持ちを表している。

こうして『河童』の国の一つ一つに、芥川の心象が表れ、全体としては嫌悪の心情が貫かれているが、ときに哀しく、ときにユーモラスに、ときに苦悩する描写は、人間喜劇としての印象を受ける。

芥川は、晩年には発狂するか自殺するかについて悩み、精神の異常に怯えながら服毒自殺により三十五歳の生涯を終える。

『河童』の物語の中の「阿呆の言葉」の最期の一節「若し理性に終始するとすれば、我々は当然我々自身の存在を否定しなければならぬ」に殉じた死だった。

Bitly

※芥川龍之介のおすすめ!

芥川龍之介『羅生門』解説|悪を正当化するとき、人は真の悪人になる。
芥川龍之介『鼻』解説|外見より内面の自尊心を、笑われる辛さ。
芥川龍之介『芋粥』解説|夢は叶う時より、願い続ける時が幸せ!
芥川龍之介『蜘蛛の糸』解説|因果応報と、エゴイズムの戒め。
芥川龍之介『地獄変』解説|独裁者 vs 芸術家 その残酷対立
芥川龍之介『蜜柑』解説|目に写る色彩が、心を癒した瞬間。
芥川龍之介『杜子春』解説|金持ちでも仙人でもない、正直な暮らし。
芥川龍之介『藪の中』その真相に涙する「文芸的な、余りに文芸的な」嘘
芥川龍之介『神神の微笑』解説|「破戒する力」ではなく「造り変える力」
芥川龍之介『トロッコ』解説|ぼんやりとした不安が、ふっと訪れる。
芥川龍之介『おぎん』解説|みんな悪魔にさらわれましょう
芥川龍之介『猿蟹合戦』解説|蟹は死刑、価値観は急に変化する。
芥川龍之介『桃太郎』解説|鬼が島は楽土で、桃太郎は侵略者で天才。
芥川龍之介『河童』解説|嫌悪と絶望に満ちた人間社会を戯画に描く。