⑤「あなたと私とは違いますもの」
「西洋の本ですか、むずかしい事が書いてあるでしょうね」
『草枕』9章
「なあに」
「じゃ何が書いてあるんです」
「そうですね。実はわたしにも、よく分らないんです」
「ホホホホ。それで御勉強なの」
「勉強じゃありません。ただ机の上へ、こう開けて、開いた所をいい加減に読んでるんです」
「それで面白いんですか」
「それが面白いんです」
「なぜ?」
「なぜって、小説なんか、そうして読む方が面白いです」
「よっぽど変っていらっしゃるのね」
「ええ、ちっと変ってます」
「初から読んじゃ、どうして悪るいでしょう」
「初から読まなけりゃならないとすると、しまいまで読まなけりゃならない訳になりましょう」
「妙な理窟だ事。しまいまで読んだっていいじゃありませんか」
「無論わるくは、ありませんよ。筋を読む気なら、わたしだって、そうします」
「筋を読まなけりゃ何を読むんです。筋のほかに何か読むものがありますか」
余は、やはり女だなと思った。多少試験してやる気になる。
「あなたは小説が好きですか」
「私が?」と句を切った女は、あとから「そうですねえ」と判然しない返事をした。あまり好きでもなさそうだ。
「好きだか、嫌だか自分にも解らないんじゃないですか」
「小説なんか読んだって、読まなくったって……」
と眼中にはまるで小説の存在を認めていない。
「それじゃ、初から読んだって、しまいから読んだって、いい加減な所をいい加減に読んだって、いい訳じゃありませんか。あなたのようにそう不思議がらないでもいいでしょう」
「だって、あなたと私とは違いますもの」
「どこが?」と余は女の眼の中を見詰めた。試験をするのはここだと思ったが、女の眸は少しも動かない。
「ホホホホ解りませんか」
「しかし若いうちは随分御読みなすったろう」余は一本道で押し合うのをやめにして、ちょっと裏へ廻った。
「今でも若いつもりですよ。可哀想に」放した鷹はまたそれかかる。すこしも油断がならん。
「そんな事が男の前で云えれば、もう年寄のうちですよ」と、やっと引き戻した。
「そう云うあなたも随分の御年じゃあ、ありませんか。そんなに年をとっても、やっぱり、惚れたの、腫れたの、にきびが出来たのってえ事が面白いんですか」
「ええ、面白いんです、死ぬまで面白いんです」
「おやそう。それだから画工なんぞになれるんですね」
「全くです。画工だから、小説なんか初からしまいまで読む必要はないんです。けれども、どこを読んでも面白いのです。あなたと話をするのも面白い。ここへ逗留しているうちは毎日話をしたいくらいです。何ならあなたに惚れ込んでもいい。そうなるとなお面白い。しかしいくら惚れてもあなたと夫婦になる必要はないんです。惚れて夫婦になる必要があるうちは、小説を初からしまいまで読む必要があるんです」
「すると不人情な惚れ方をするのが画工なんですね」
「不人情じゃありません。非人情な惚れ方をするんです。小説も非人情で読むから、筋なんかどうでもいいんです。こうして、御籤を引くように、ぱっと開けて、開いた所を、漫然と読んでるのが面白いんです」
「なるほど面白そうね。じゃ、今あなたが読んでいらっしゃる所を、少し話してちょうだい。どんな面白い事が出てくるか伺いたいから」
「話しちゃ駄目です。画だって話にしちゃ一文の価値もなくなるじゃありませんか」
「ホホホそれじゃ読んで下さい」
「英語でですか」
「いいえ日本語で」
「英語を日本語で読むのはつらいな」
「いいじゃありませんか、非人情で」
これも一興だろうと思ったから、余は女の乞に応じて、例の書物をぽつりぽつりと日本語で読み出した。もし世界に非人情な読み方があるとすればまさにこれである。聴く女ももとより非人情で聴いている。
9章「非人情」芝居での泰安さんの顛末を念頭に置いて、この対話をよく考えてください。もう少し先まで引用したかったのですが、長いので切りました。ぜひ、草枕9章で続きを読んでください。
相変わらず偉そうな画工は「多少試験してやる」と那美さんに質問していますが、実際に試験されたのは画工のほうです。間抜けな彼は、そのことに最後まで気付きません。彼が何を試験されたのか、解りますか?よく読むと、この対話は「非人情とは何か」という議論になっています。口の上手い画工に騙されないように、後ろのほうから遡るように、考えてみましょう。
本は、おみくじを引くように、偶然開けたところを気ままに「非人情」で読むのが面白いとする画工の意見に対して、那美さんはホホホホと笑って、面白そうだから今読んでいる所を話してちょうだい、とせがみました。画工が読んでいるのは英語で書かれた小説ですから、眼で英語のテキストを読みながら、頭の中で訳して日本語で話せという、難解な要求です。彼が「英語を日本語で読むのはつらいな」と嘆くと、彼女に「いいじゃありませんか、非人情で」と押し切られました。「もし世界に非人情な読み方があるとすればまさにこれである。」と彼も納得したようです。
気の向くままに好きな箇所だけ読むのと、語学力を駆使して翻訳しながら読む、とでは全く違いますね。後者を「非人情な読み方」だとすれば、前者を「非人情」とは呼べないでしょう。読書の場合、外国語を翻訳しながら読むというのが、人情を用いない「非人情な読み方」です。
那美さんの「非人情」は、感情を除外した知性です。
一方、画工は、読書する時も、筋を追わず、登場人物に感情移入しないように読むのです。「偶然開けたところを気ままに読む」「小説の筋なんかどうでもいい」と言い張る画工は、いったい小説の何を読んでいるのですか?趣とか情感を味わっているのでしょう。
画工の「非人情」は「人情」から心理的に距離を置いて、美的に眺める態度です。
画工流解釈の「非人情」も画家らしくて結構ですが、時々「不人情」との違いが分からなくなります。案の定、画工は「非人情」を乱用し「非人情な惚れ方」なんて言ってますけど、泰安の顛末を御覧ください。ふざけた気持ちで生身の女に近づくと、大変な目に遭います。「いくら惚れても夫婦になる必要がない」と決め込んだ身勝手な惚れ方は、那美さんの言うように「不人情な惚れ方」です。恋愛において本当に「非人情」な態度というのは、泰安のように出家して女性と距離を置くことです。
年をとっても惚れたの、腫れたの、にきびが出来たのっていう恋愛小説を面白いのだと言う彼に「それだから画工なんぞになれるんですね」と那美さん。はい、ここで試験の結果が出ました。
「だって、あなたと私とは違いますもの」「ホホホホ解りませんか」と問われていたのです。
(あなたと私とは「非人情」の解釈が、違いますよ。あなたは「非人情」と言いながら、趣と情感を美的に楽しむ美術家でしょ。でもそれは本当に「非人情」と呼べるのかしら?)ということなのです。
では、画工としての「非人情」とは、いったいどういうことなのか?
彼はまだ解っていないのです。(続く)
続きはこちら⇒謎解き『草枕』その4
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