夏目漱石『三四郎』里見美禰子と四人の男(ラストシーンに隠された主題)

猫枕読書会

 この小説内で起こる唯一の事件、それは独身だった里見美禰子が結婚したこと。その過程の美禰子を見つめた四人の男による報告書のようなもの、がこの小説です。ですから、ラストシーンでまとめとして、等身大に描かれた美禰子の絵「森の女」の前に、四人の男たちが集合します。

——広田先生と野々宮さんと与次郎と三四郎と。四人よったりはよそをあと回しにして、第一に「森の女」の部屋にはいった。 

 
 このラストシーンに、『三四郎』の主題が集約されています。四人は「森の女」を見て、一言ずつコメントを述べます。絵の感想は、そのまま美禰子に対する言葉です。四人各自が里見美禰子をどう見たか、を端的に表現しています。

四人の男と四種の理想

 なぜ、四人も必要だったのか?
 然るべき理由があります。

  1. 『三四郎』は『草枕』と双子であり、逆さまの作品である。
  2. 『草枕』は、夏目漱石『文芸の哲学的基礎』の小説版である。
  3. よって『三四郎』も『文芸の哲学的基礎』と関係がある。

 という、三段論法です。漱石作品を読む際にガイドブックとなる、
夏目漱石の講演『文芸の哲学的基礎』(青空文庫で読めます)で語られるのが、
「文芸家の四種の理想」です。

(猫枕読書会は『草枕』を「謎解き『草枕』」で徹底解説しています。『三四郎』と『草枕』の深い関係については、「謎解き草枕その6」2ページ目で触れました。ぜひ「謎解き草枕」をご覧ください。)

〈夏目漱石の文芸家の四種の理想〉
  • の理想】感覚物(自然と人間)そのものに対する情緒。
  • の理想】感覚物に対して情が働く。愛、徳義的情操(忠、孝、義侠心、友情等)
  • の理想】感覚物に対して智が働くことによって、情を満足させる。
  • の理想】感覚物に対して意が働く。荘厳に対する情操 

 上記の【四種の理想】という観点から里見美禰子を評価するために、四人の目が必要でした。
 という訳で、本文の順を追って、四人のコメントに表れる【四種の理想】と里見美禰子を照らし合わせてみましょう。

①佐々木与次郎が見た里見美禰子

「すてきに大きなものを描いたな」と与次郎が言った。

 絵の出来具合ではなくその大きさを評価したところが、彼の役割に合致しています。与次郎の担当は【壮の理想】(自らの意志を発揮して何かを成し遂げようとする)という観点で、里見美禰子の意志と勇気を称えています。
 物語中、与次郎と美禰子は、ある意味で似たもの同士でした。自分の意志を実現するために活動していたけれど失敗してしまった・・・という意味で。

 佐々木与次郎は、高等学校の英語教師広田先生を、東京帝国大学の教授にしようという運動のためあれこれ画策していました。そのやり方や結果はともかく、与次郎は意気盛んに運動していたのです。彼は、美禰子を評して、こう述べていました。

「(前略)女だって、自分の軽蔑けいべつする男の所へ嫁へ行く気は出ないやね。もっとも自分が世界でいちばん偉いと思ってる女は例外だ。軽蔑する所へ行かなければ独身で暮らすよりほかに方法はないんだから。よく金持ちの娘や何かにそんなのがあるじゃないか、望んで嫁に来ておきながら、亭主を軽蔑しているのが。美禰子さんはそれよりずっと偉い。その代り、夫として尊敬のできない人の所へははじめから行く気はないんだから、相手になるものはその気でいなくっちゃいけない。そういう点で君だのぼくだのは、あの女の夫になる資格はないんだよ」

『三四郎』12章

 与次郎の読みどおり、美禰子は「夫として尊敬できる人」との結婚を望み、そのため彼女なりに時間制限ギリギリまで頑張っていたのです。いつも落ち着いた態度の美禰子でしたが、彼女の置かれた状況は、時間的に追い詰められた猶予の無いものでした。

 美禰子は早くに両親を失くし、家族は兄がひとりだけ。見かけは和風でも、内装は洋風で暖炉のある立派な居間がある家に、兄とふたりで暮らしていました。美禰子が持っている預金通帳に入っているのは、両親の遺産を兄と分けた金でしょう。

 美禰子の兄、里見恭介はもうすぐ結婚をすることになっていました。彼は自分が結婚する前に、妹の縁談をまとめるつもりで、画家の原口にも頼んでいました。推測するに、家にお嫁さんを迎えるので、美禰子の居場所は無くなるのです。明治時代、職も無い23歳の独身女性の選択肢は結婚しか無いのでしょう。結婚といえば、周囲が世話してくれる縁談、お見合いが普通だった時代。

 しかし美禰子は、広田先生から英語を習い、バイオリンを弾き、日曜礼拝に行くキリスト教徒。彼女の住む家のように、外見は日本人でもかなり西洋化された女性です。お見合いではなく、自分で結婚相手を見付けたいと思っていた、ということがうかがえます。当時としては、勇気ある発展した考えです。彼女は、現代で言えば「婚活」をひとりで頑張っていたのです。

 その美禰子の意志が表れているのが、名刺です。彼女は、ただ名前と住所だけを記した名刺を持っていました。三四郎と三度目に出会った時に、手渡しています。お見合いに名刺は必要ありません。初めからどこの誰だかよく知っているのですから。まさに三四郎とのように、偶然の出会いをした機会を逃さないように、名刺を準備していたのでしょう。

 しかし残念ながらタイムリミットに間に合わず、美禰子は諦めて縁談を受けることになります。10章で画家の原口のモデルを務めながら、
「でも兄は近々に結婚しますよ」と報告した時
「おや、そうですか。すると貴方はどうなります」と聞かれて
「存じません」とねたような答えをしていました。

 この時すでに美禰子の縁談は決まっていました。よし子が断ったために回って来た縁談を受けたのです。にも関わらず「私も近々に結婚するのです」と言わなかった美禰子の心中が察せられます。この直後、三四郎がやっとの思いで「あなたに会いにいったんです」と告白しますが、もう遅かったのです。人力車に乗った立派な男が彼女を迎えに来ました。彼が縁談の相手でしょう。

 もし、先によし子がこの縁談を断らずに結婚してくれれば、事態が美禰子の望み通りに展開する可能性も有ったかもしれません。
 美禰子が”夫として尊敬できる”大本命は、よし子の兄、野々宮宗八でしたから。

 

②野々宮宗八が見た里見美禰子

 美禰子の本命が野々宮であった、という事は、物語が始まる前から決められた設定です。最初に述べたとおり『三四郎』は、『草枕』の逆さま世界だからです。

 『草枕』では、泰安という僧侶がヒロイン那美にラブレターを書いて、一悶着おきました。その反対の『三四郎』では、ヒロイン美禰子のほうからラブレターを書くことになる訳です。さらに言えば、泰安の手紙は、不真面目な戯れの恋文だったので、那美から叱られてしまいました。美禰子の手紙は、結婚を願う真剣なものだったに違いありません。

 三四郎がまだ夏休み中に、大学に野々宮を訪ねた日、野々宮のポケットから女文字の封筒が半分覗いているのを見つけました。これは美禰子の字であったことに、後日気付きます。三四郎だって彼女から2度手紙を貰いますが、封書ではなくハガキでした。野々宮が貰った封書こそ、美禰子からの熱烈なアプローチでしょう。

 野々宮がどう返事を書いたかは不明ですが、彼女に蝉の羽のようなリボンを贈りました。夏が過ぎて季節外れになってしまったのも構わずに、入院中のよし子を見舞いに行った日、美禰子はそれを身に着けていました。野々宮に出くわす可能性を期待して、リボンを着けたのでしょう。

 野々宮の美禰子に対する感情というのは、ほとんど描かれていません。ただ野々宮に関しては、住宅事情が悪化していく様子が描かれています。この薄給の研究者は、数ヵ月の間に2度も引越をしているのです。

 女学校に通う妹よし子と二人で住んでいたのですが、まず大久保に引っ越しました。以前に住んでいた所より大学から遠いのですが、家賃が安いからです。三四郎は、その原因をよし子の入院費がかかったせいで経済的に苦しいのだと推察しています。せっかく引越したのに、退院して来たよし子が苦情を訴えます。兄の帰宅はいつも深夜になるのに、大久保は寂しくて不安だと言うのです。そこで、仕方なく、よし子を美禰子の家に預け、自分は藁ぶきの汚い家に下宿生活をする事に成ります。

そんな野々村を美禰子は、

野々宮の様な外国にまで聞こえる程の仕事をする人が、普通の学生同様な下宿に這入はいって居るのも必竟ひっきょう野々宮が偉いからの事で、下宿が汚なければ汚ない程尊敬しなくってはならない。

『三四郎』6章

と讃美し、彼を尊敬しきっていました。

 彼女はどんなに貧乏しても、野々宮と結婚する覚悟があったろうと思います。きれいな着物が汚れるのも気にせずに、平気で汚ない縁側や草の上に腰を降ろす美禰子ですから、逞しい面だってありそうです。
 けれど野々宮のほうで、無理を押してまで結婚しようという気が起きませんでした。二人の気持ちのすれ違いを暗喩するような会話を三四郎が盗み聞きしていました。
 菊人形展に向かいながら、なぜか飛行機実験の話をする美禰子と野々宮です。

 「死んでも、そのほうがいいと思います」と無謀でも飛んでみようという美禰子に対して、
 「・・・高く飛ぼうというには、飛べるだけの装置を考えたうえでなければできないにきまっている。頭のほうがさきにるに違いないじゃありませんか」と飛ぶ前に、しっかり計算しなければいけない、と慎重な野々宮。結婚も、経済的に計算してみて無茶なものは止めておこうと言うつもりです。ロマンチックな美禰子を「女には詩人が多いですね」と笑う野々宮でした。

 残念ながら、彼はそれほど美禰子に関心が無いのです。美しい美禰子をただ心地よく眺める程度の気持ちしか無い。美禰子の心の内にまで興味がありません。
 そういうわけで、野々宮の「森の女」の感想は、

「色の出し方がなかなか洒落しゃれていますね。むしろ意気な絵だ」と野々宮さんが評した。

「お洒落で粋」と褒めています。野々宮の担当は【美の理想】
東京帝国大学の建築の美しさを熱心に語っていた野々宮ですから。

 さて、2度も引越した野々宮でしたが、美禰子の結婚を受けて3度目の引越をすることになりました。美禰子のところに居候させていた妹よし子と再び一緒に住むためです。
 よし子は、美禰子の結婚が決まった時

「私をもらうと言ったかたなの。ほほほおかしいでしょう。美禰子さんのおあにいさんのお友だちよ。私近いうちにまた兄といっしょに家を持ちますの。美禰子さんが行ってしまうと、もうご厄介やっかいになってるわけにゆかないから」

『三四郎』12章

 と、なんだか美禰子に勝ち誇ったように、笑っていました。無邪気に兄を振り回す妹よし子はまだ女学校に通っているのですから、おそらく二十歳にもなっていないでしょう。当分、お嫁に行く気は無いようです。おそらく兄は、この妹が片付くまで結婚しないでしょう。美禰子の兄と違って、ずいぶん妹思いです。いつも「愚物」「ばか」と言いながらも、体の弱い妹を気遣っています。
 この兄妹、まるで夫婦のように感じられます。どうしても、野々宮のモデル寺田寅彦と若くして病死した妻、夏子の姿を重ねて見てしまうからです。