夏目漱石『三四郎』里見美禰子と四人の男(ラストシーンに隠された主題)

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④小川三四郎が見た里見美禰子

 鈍くて、理解するのに時間がかかってしまう三四郎ですが、美禰子の心の内まで見つめてくれたのは、彼でした。心優しい三四郎の担当は、情が働く【善の理想】です。

「どうだ森の女は」
「森の女という題が悪い」
「じゃ、なんとすればよいんだ」
 三四郎はなんとも答えなかった。ただ口の中で迷羊ストレイシープ迷羊ストレイシープと繰り返した。
『三四郎』13章

 美禰子の心の内を表現した「迷羊」を心に刻む三四郎です。
 彼は彼女と出会った瞬間から、その揺れる心を感じていました。それをただ「矛盾だ」と捉えていました。何が矛盾しているのかは、よく解らなかったのだけれど。

 美禰子と対照的なのが、よし子でした。
三四郎は、よし子に出会った時「統一」の感じを見出しました。何が「統一」なのかと言えば「物憂い憂鬱と隠さざる快活」。よし子の「物憂い憂鬱」とは、自身の病弱な体でしょう。それでも「快活」な気分でいられるのは、優しい兄の保護下に居るから。その「統一」の感じは、三四郎にとって心地良いものでした。よし子と一緒に居ると安らぎを感じるのですが、どうしても美禰子のことを考えてしまう三四郎でした。

 美禰子が「迷羊」を言葉にしたのは、菊人形展に行った日、野々宮と飛行機の話をした後のことです。人混みに気分が悪くなった美禰子は、まず野々宮のほうを見ますが、彼はまったく彼女の方を向いてくれません。その様子を心配した三四郎と、二人だけで菊人形展の会場から抜け出します。
 町から外れ、畑や野が広がる静かな小路を小川に沿って散歩する二人。気になる美禰子と二人きり、広田先生の引越手伝いの際に少し親しくなれたので、三四郎にとって2度目のチャンスでした。彼だって、美禰子から名刺を貰えたのですから、少しは可能性があったでしょう。

 小川の端の草の上に腰かけて空を眺め、いい雰囲気で話をします。 美禰子が「御貰いをしない乞食なんだから」と言ったところで、「知らん人が突然あらわれた」と謎の通行人が登場します。「洋服を着て髭を生やして、年輩から云うと広田先生位な男」が歩いてきて、二人の前に来ると顔をぐるりと向け直して、正面から三四郎と美禰子を睨め着けました。その眼には、明らかな憎悪の色があり、三四郎は「じっと座っていにくい程な束縛」を感じます。
 この男が、後日美禰子の絵ハガキにデビルとして描かれた男なのでしょうが、いったい何者でしょう?人通りの無い田舎道ですが、洋服を着ているので、地元の農家のオジサンではなさそうです。非現実的で象徴的な存在なのでしょう。広田先生くらいの年齢だと書かれていますから、広田先生の化身ではないかと考えます。

 広田先生は、日本に絶望し西洋、それも「イブセンも出なければニイチェも出ない」ような保守的な英国ではなく、もっともっと進歩的なヨーロッパ大陸や北欧の思想が好きそうなのに、三四郎には(なるべくおっかさんの言うことを聞いて結婚しろ)と勧めます。独身を貫く広田先生については、後で考えてみます。

 せっかくいい雰囲気で会話していたのに、そろそろ帰りましょうか?と腰を上げかけた三四郎に、美禰子が言いました。

「迷子」
 女は三四郎を見たままでこの一言ひとことを繰り返した。三四郎は答えなかった。
「迷子の英訳を知っていらしって」
 三四郎は知るとも、知らぬとも言いえぬほどに、この問を予期していなかった。
「教えてあげましょうか」
「ええ」
迷える子ストレイシープ——解って?」

夏目漱石『三四郎』5章

 普通に考えれば、迷子の英訳は「lost child」でしょう。それを彼女は、わざわざ「stray sheep」と聖書的に表現しています。その意図を「解って?」といているのです。そこらの男を相手に言っているのではありません。東京帝国大学文科の学生、三四郎を見込んでこんな会話を仕掛けているのです。彼女が言わんとしているのは、物理的な迷子ではなく、精神的な状態なのだと即座に理解して、何か言ってあげるべきでした。それなのに三四郎は沈黙したままで、一言も応えませんでした。

 美禰子は、この沈黙を誤解しました。(東京帝国大学の学生を相手に、偉そうな事を言う生意気な女だと思われたかしら?)と考えて「私そんなに生意気に見えますか」と聞きます。それでもなお、何も言ってくれない三四郎に、美禰子は

「じゃ、もう帰りましょう」と言った。厭味いやみのある言い方ではなかった。ただ三四郎にとって自分は興味のないものとあきらめるように静かな口調くちょうであった。

夏目漱石『三四郎』5章

 (彼は、私に興味が無いんだわ。)と誤解して諦めたのです。美人で教養もある美禰子ですが、大学生を相手に傲慢なわけではありません。まさか三四郎が本当に鈍くてなんと応えればいいのか分からないから黙っている、とは思わなかったのです。彼女が三四郎を「理解が遅くて鈍いヤツだ」と見抜くのは、もっと後の事でした。

 美禰子はいったい、どう「矛盾」し、さまよう「迷羊」なのでしょう?
それは「御貰いをしない乞食」という、これまた矛盾する言葉で説明されているのではないでしょうか。自身を「御貰いをしない乞食」だと呼ぶ彼女は、いったい何を乞うているのか?
もちろん愛を乞うているのでしょう。でも御貰いの愛じゃダメ。自分で選びたいのです。

 明治時代にいち早く西洋の文化を知った美禰子は、自由な恋愛を夢見てしまう。自由恋愛する為には、社会が許してくれるだけでは駄目、当然相手があってのこと。叶わない事のほうが多いでしょう。自由であれば選択肢が増えるけれど、また別の不自由に悩まされます。

 美禰子の夢は叶わず、仕方なく縁談結婚を選びました。与次郎も広田先生も原口も予想しなかった事です。みんな口を揃えて「あの女は、自分の行きたい所でなくっちゃ行きっこない」と言っていました。西洋流だと思われていた美禰子でしたが、結局大人しく縁談を受けました。兄が結婚するので、嫁に行かざるを得ない現実と折り合いをつけたのです。その決断までには、苦しい葛藤があったはず。夢を見ることができた分だけ、望まなかった現実を受け入れる苦しさです。
 甘い夢を見る自由と、勝ち得る現実のにがさに引き裂かれながら、近代人は生きることになるのです。

 美禰子の気持ち、三四郎はよく理解できたことでしょう。彼自身も東京に来て、自由な空気に触れ、一度は自分の将来を好き勝手に思い描いてみたのです。

——要するに、国から母を呼び寄せて、美しい細君を迎えて、そうして身を学問にゆだねるにこしたことはない。

夏目漱石『三四郎』4章

 なんてことを夢想してみましたが、故郷の母はハッキリと「東京の者は気心きごころが知れないから私はいやじゃ。」と手紙で釘を差し「三輪田のお光さん」との結婚を強引に進めます。母を大事に思う三四郎は、従わざる得ないでしょう。美禰子が東京で結婚披露宴をしている間に、故郷に帰省して、お光さんとの結納を済ませたのではないでしょうか。大学卒業後は、故郷に帰るのです。
 三四郎は、東京という大都会で生きていくことの大変さを、ほんの数ヵ月の間に知りました。都会には、与次郎のようなイタズラ者や、美禰子のように手強い女性がいるのですから、ぼんやりした彼は田舎の方が合っているのかもしれません。