唯一の絶対神を信じない反キリスト者であることが、西方キリスト教圏の社会でいかに排除されるかを描く『異邦人』。カミュは不条理と向き合い、ニヒリズムを超えて、真理を求める人間の姿を根源的に問う。そこには自分に正直で、自由な人間中心主義を善とする生き方がある。
解説
キリストを超えて、人間が中心であることの真理を至上とする生き方。
「きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かもしれないが、私にはわからない」養老院から電報をもらった。「ハハウエノシヲイタム、マイソウアス」これでは何もわからない。恐らく昨日だったのだろう。
Albert Camus :L’ETRANGERより
この訃報が、異邦人 ムルソーの運命を決定づける。
今日か、昨日か、日時は不確かで抽象的、そこに普遍性を持たせている。ママンの死はどこか他人事で、我が事感がない。そして「私にはわからない」の言葉は「死の現実的な意味」さえも問いかけのようだ。
ムルソーの母の死との向き合い方、通夜・葬儀に際しての受動的で無感動、無表情な姿には西欧のキリスト教に深く根ざし刻まれた信仰的態度は無い。
フランス人は、ほとんどがカトリック教徒だ。その信仰心や習俗には、人間社会を営む規範がある。当然、主なる神のもとで「汝、父母を敬え」であり、「汝、殺すなかれ」が絶対的戒律である。
ムルソーはフランス領の北アフリカのアルジェリアに生まれ暮らす。そこは 太陽の強い光と海だけが永遠のように存在する。彼は神を信じぬ無信仰な人間なのだ。
神を信じぬ以上、慣習や儀礼に拘らない、あるいは知らない。ゆえに重きを置かないという態度である。私たち日本人は二十四節気のなかで暮らし、冠婚葬祭の多くが宗教的な意味を持っている。
『異邦人』はパリから遠く離れたアルジェの地で、キリストという人格神を信じないひとりの青年が、母国フランスの法規範に裁かれ、カトリックの教誨師に説諭される。そして法による裁判で、異端審問さながらに裁かれ、その危険な思想の排除のために死刑を宣告されギロチンにかけられる。
この不条理のなかでムルソーの真理が確立されていく過程を追体験する物語である。当初は無感動で口数が少なかった。しかし裁く側の判事や検事が言葉を捏造し虚構を仕立て上げる。ムルソーは無意識な自分の中に意味を訪ねていく。
アルジェの太陽や海や星や風の自然を感じながら思索を巡らす。ついにムルソーは明確に一神教を否定し、自由を善とする人間主義の尊さを、怒りを交えて長弁舌する。神のもとに人間があるのではなく、人間こそが中心であるとする真理に到達する。
日本には神道の八百万の神がありその最高の祭祀者として天皇を戴く、六世紀には仏教が外来するが本地垂迹、神仏習合という知恵を使い、十六世紀にはキリスト教も入ってくる。
日本人は習俗的に神社に初詣して祈り、人生の節目毎に参拝し、宗派に則り本尊と位牌で仏壇を荘厳し、盆には墓参りで祖先を迎え、クリスマスを祝い、仏前でも神前でも教会でも式を挙げる。私たちは器用で融通無碍だ。
その意味で無宗教ではなく寛容すぎる信仰心がある。さらに「お天道様が見ている」という日本独特の恥の文化の倫理に包まれている。
母親の通夜・葬儀でのムルソーの冷静な態度が、後に大きな罪となる。
『異邦人』は第一部と第二部に分かれる。
第一部では母の葬式に際しての態度と、日常に戻りアラブ人の殺害にいたるまで。
訃報を受けて母親を預けていたマランゴの養老院を訪れる。執り行われた喪の儀式でうまく振る舞えない。アルジェに戻りマリーやアパートの住人らとの日常生活に戻り、レエモンの痴情沙汰に巻き込まれ、ついにアラブ人を殺害するまでが描かれる。
ムルソーは知的な青年だが貧困で大学を断念している。海運業の仕事で平凡に暮らすが、貧しさゆえに母親を扶養できず、三年前に国庫で運営される養老院に入所させている。母親の面倒をみないことは、この地の慣習では親不孝だが、貧困ゆえに止むを得なかった。すでに母との会話もなくムルソーにとって合理的な判断だった。
ムルソーは母親との別離で、すでに母子ともに別の人生を送っていたのだ。
養老院長は訪れたムルソーに、経済的な理由で別居した事情を皮肉を含みながら同情する。母親は無神論者ではないが生前に宗教のことは考えなかった。しかし埋葬はカトリック教の儀礼を希望した。こうして母親の死は、儀式と共に公文書に登記される。
ムルソーは葬儀の手順に不案内で作法を知らない。また死を現実に受け入れることができずにいる。彼は母の死に顔を見ることを遠慮しそのことを後悔する。霊安室に向かったムルソーは門衛にミルク・コーヒーを薦められて飲み、煙草を吸いたくなり、一瞬、躊躇したが、構わないだろうと思い火を点け、門衛にも一本薦めた。そして夜と花の匂いでうとうとする。
通夜では十人ほどの男女を含む在院者が集まり、ムルソーと向かい合い並ぶ。彼らもやがて順番に訪れる死を思い、まるで第二部の陪審員のような面持ちで物言わず見つめる。葬儀の日もムルソーは母の顔を確認することを拒む。ママンの「婚約者」とからかわれる仲の良かったペレーズが、特例として葬儀への参列を許される。
やがてマランゴの司祭が来て葬儀が行われる。司祭はムルソーを「我が子よ」と呼ぶ。ムルソーを「子」、自分を「父」に置く。太陽が葬列を照りつける。焼きつけるような暑さだ。ムルソーは葬儀屋から母の年齢を聞かれ、正確な年齢を知らないことに気づく。こうして酷薄な太陽に支配された葬儀が終わる。
その後のムルソーの無気力な日常が、危険な思想をもつ人間とされる。
ムルソーは葬儀の疲れを癒すため港の海水浴場に行く。そこで同じ職場だったタイピストのマリーに出逢う。水の中で二人はくつろぐ。ムルソーは彼女に気を寄せていた。
彼女は喜劇映画を観たいと言う。服を着た時、黒いネクタイ姿のムルソーにマリーは気づく。「昨日」ママが死んだと知り、喪に服していないことに驚いたが何も言わなかった。映画の後、マリーはムルソーの部屋に泊まった。
ムルソーは日曜が嫌いだ。それはキリストの安息日に由来するからか。母親が死んでも家の窓から見る景色は変わらない。けだるい一日が過ぎる、いつもと同じ日曜日。ママは埋葬され、ムルソーは明日からまた勤めに出る。
母への別れを拒否し、母の死を受け入れることを逃れ、ムルソーは何も変わらないと考える。
母の死後、ムルソーは仕事に精を出す。同じアパートの隣室のサラマノ老人と出会う。老人はスパニエル犬を連れてリヨン街に散歩に出るところだが、お互い仲が悪くて紐を引っぱりあって罵り合っている。それでもそこには他人には知られない愛情があるとムルソーは考える。
同じ階にレエモンという男がいる。「倉庫係」と名乗っているがやくざ者で女衒らしい。周囲にはあまり好かれていないが、彼の話は面白いと思う。ムルソーという男は他人の噂では人を判断しない。 レエモンは情婦とその兄弟といざこざを起こしており、その喧嘩話をムルソーに聞かせる。字の書けないレエモンは、ムルソーに手紙を書く事を頼んで情婦を呼出す。
土曜にマリーが来てムルソーの部屋に泊まる。マリーはムルソーに「愛しているか」と尋ねるが、ムルソーは「それは何の意味もないこと」と言い、「恐らく愛していないと思う」と答える。そこには愛の先に結婚というカトリックの儀式への忌避があるのか。
隣室ではレエモンの呼び出しに訪れた情婦が殴りつけられて懲らしめられる。この女の兄弟であるアラブ人が、やがてムルソーが殺す男となってしまう。ここでムルソーは仲裁にも入らず警察も呼ばず、レエモンの共犯者の立場となっている。
やがて警察がやって来てその場は収拾される。その後、レエモンはムルソーに警察での証言を頼み、ムルソーは警察嫌いもありレエモンの求めを承諾する。サラマノ老人は唯一の伴侶だった犬がいなくなり途方に暮れ涙する。ムルソーは優しく同情する。サラマノ老人の境遇にムルソーはなぜかママンと自分のことを重ねる。
母を亡くしたムルソーは、仕事に没頭することでママンを忘れようとする。
ムルソーはレエモンから次の日曜日、友人マソンの浜辺の別荘で過ごさないかと誘われる。と同時に情婦の兄のアラブ人の一味につきまとわれていると知らされる。
学業を放棄してからのムルソーは野心が無くなり、いっさいに無関心になっていた。
「どちらでもいい」と「何の意味もない」はムルソーの口癖である。レエモンが言った「仲間になりたくないか」、職場の主人から聞かれた「パリに行く気があるか」、マリーから訊ねられた「私と結婚したいか」に対して、お決まりの受動的な答え方をする。
それは社会の規範に対する無関心を表わしている。ムルソーには偽善的な慣習はなく、自然で無垢な世界がある。現在を感覚的に生きることだけを彼は好む。
太陽のシンバルとナイフからほとばしる光の刃、それは偶然に起こった。
日曜日、別荘に出発するときにレエモンと諍いを起こしているアラブ人の一団を目にする。アラブ人たちは後を追ってこずに、ムルソーたち一行は別荘地に到着する。
ムルソーはマソン夫妻の仲睦ましさを見て、自分も結婚するのだと真剣に考える。ムルソー、マリーとマソンの三人が水辺に向かう。ムルソーはマリーを追って沖で泳ぎ、浜辺で安らぎと心地良いまどろみを感じる。
マソン、レエモンとムルソーの三人は浜辺に行く。「太陽の光は垂直に砂の上に降りそそぐ」 そこで情婦の兄弟を含む二人のアラブ人と出会う。ここでレエモンがナイフを持ったアラブ人に顔や手を切りつけられる。
別荘に戻り医者に診てもらった後で再び、ムルソーとレエモンの二人が浜辺に行く。
「太陽は圧倒的で、砂の上に、海の上に、光はこなごなに砕けていた」 大きな若陰の冷たい泉にいるアラブ人と出会う。
血気にはやるレエモンをなだめ素手で闘うことを促し、ムルソーはレエモンのピストルを預かる。ここではアラブ人が後ろに逃げて何も起こらなかった。レエモンと別荘の入り口まで戻ったが頭ががんがんしていて、女たちの会話も嫌でムルソーは一人で浜へと向かう。
太陽は容赦なく攻撃する。砂や白い貝殻やガラスの破片から、光の刃が閃く。
ムルソーは岩陰の涼しい泉を求める。しかし彼らがまた来ているのを見た。アラブ人とムルソーは一触即発の状況となる。太陽から逃れようとムルソーは泉に近づく。激しい陽光に攻められ、額に痛みを感じる。それは「ママンを埋葬した日と同じ太陽」だった。血管が皮膚の下で脈打つ。
アラブ人はナイフを抜き構える。額の上の太陽のシンバルと、ナイフからの光の刃を感じる。ナイフの切っ先は煌く長い刃となりムルソーを襲い、アラブ人の顔が全く見えなくなる。
「空は端から端まで裂けて、火の雨を降らす」かと思われ、ムルソーは引き金を引く。それは真昼の均衡と浜辺の静寂を破壊する。さらに身動きしない体に四たび撃ち込む。
まさに「太陽のせいだ」海と太陽だけ。出逢いという偶然が起こした出来事だった。