夏目漱石『草枕』完全解説!全ての謎と物語の構造を解く|謎解き『草枕』その1

『草枕』には筋があります!

 “夏目漱石の『草枕』には筋らしい筋は無い。”というのが定説ですね。作者の漱石自身さえ「プロットもなければ事件の発展もない。」と『余が草枕』に書いています。
 しかしこの不思議な小説に取り憑かれ、何度読んだか分からない程読んでしまった私は『草枕』には、筋もプロットもあるのだ!と主張したい。一見ハチャメチャに見えて、実はしっかりとした構造のある小説です。もちろん一読者の個人的見解です。正解かどうか知りません。『草枕』のあらすじを最初から最後まで解説している本に、出会ったことが無いからです。漱石自身が「プロットは無い」と言っているのにそれを語るのは野暮なのかもしれません。私は、そこをあえて勇気を出して語ってみる決心をしました。難しい芸術論や漢詩、俳句は読み飛ばし『草枕』の物語部分を最初から最後まで、できるだけ詳細に解説することに挑戦します。ただご存知のとおり、普通の小説ではありませんから、あらすじを説明しようにも、困難が三点あります。

  1. 『草枕』は、初読の時には意味が分かりません。何度も繰り返し読んで、はじめて解るように書かれています。筋を解説する際には、順序どおりではなく、本文を前後せざるを得ません。
  2. 主人公が旅先で出会う不思議な女との断続的なエピソードを、日本人が昔から大好きな「見立て」を使って、頭の中で完成させる物語です。読者は、本文中のヒントをもとに、本文に書かれていない部分を想像で補わなければ、滑らかな物語になりません。
  3. 主題の核心まで含めて説明するために、どうしても夏目漱石の講演『文芸の哲学的基礎』に触れなければなりません。

 それでも、挑戦してみたいのです。何故なら『草枕』こそ、遊び心をたっぷり込めて楽しみながら、漱石が自分自身のために書いた最高傑作であると信じているのに、他の作品に比べて注目されないのが残念で惜しいからです。『草枕』の面白さをなるべく分かりやすく、かつ徹底的に語ってみたいのです。このミステリアスな小説の数々の謎、(なぜ那美さんは、裸を披露するのか?池に飛び込むフリをするのか?その他多数)に興味がありませんか?長くなりますが、どうぞ最後までお付き合いくださいませ。

謎解き『草枕』目次

「智・情・意」と「非人情・人情・不人情」

1章 当然あの有名な冒頭が重要です。これを1段落目で切って読むと、人生の処世訓として解釈することもできるのでしょうが、2段落目まで通して読んでください。注目すべきは「智」「情」「意地」と、最後の「詩が生まれて、画ができる」です。

 山路を登りながら、こう考えた。
 ()に働けば(かど)が立つ。(じょう)(さお)させば流される。意地をとおせば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
 住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画ができる。

『草枕』 1章

 初めに言ってしまいます。「智・情・意と文芸」が、この小説のテーマです。
「智・情・意」とは何か?漱石先生自身の解説があります。
 『草枕』が書かれた明治39年の翌年、漱石は『文芸の哲学的基礎』(青空文庫で読めます)という講演を、東京美術学校でしました。この講演内容を、先に小説の形で表現したものが『草枕』だとも言えます。「智・情・意」についての解説が、この講演でなされています。できるだけ簡単にまとめてみました。

  1. 「我」を二つに分けると「身体」と「精神」
  2. 「精神」の作用を三つに区別すると「智」「情」「意」
  3. 」を主に使って、物の関係を明らかにする人は、哲学者とか科学者になる。
  4. 」を主に使って、物の関係を味わう人は、芸術家とか文学者になる。
  5. 」を主に使って、物の関係を改造する人は、軍人、政治家、豆腐屋、大工、百姓、車引などになる。
  6. 「智」「情」「意」の三作用は、別々に働くわけではない。たとえば文芸家が物の関係を味わうためには、物の関係を明らかにし、場合によって創作者として、この関係を改造しなくてはならないように、どんな人にも「智」「情」「意」の働きが必要である。

 「情」は感情。「智」は感情を除外した知性。「意」は何かを成し遂げようとする意志。草枕本文は「意地」となっています。これは語感のためでしょう。「智・情・意」の意味を押さえて、もう一度冒頭の引用文を読むと、
 「智」を使って理屈でものを言えば上から目線で感じ悪いと人に嫌われ、「情」に深入りすると面倒なことになるし、自分勝手な「意」が衝突する窮屈な人の世に疲れ、逃げても逃げきれないと悟った時「詩が生まれて、画ができる」という感じですね。要するに、主人公は「智・情・意」を厄介なものとして捉えています。

 主人公の画工は教養があって、難しい芸術論を語り、俳句も漢詩も得意で一見成熟した芸術家であるように見えます。「余」と自称したりして尊大な感じですが、騙されてはいけません。この小説は主人公の視点のみで語られるので、読者は画工の至らない点に気付きにくい上、漱石の意見=画工の意見だと勘違いしやすいのです。作者と画工は、まったく別なのだという視点で読むと、画工の本当の姿が見えてきます。彼は、東京に居ると画工になりきれないと悩み、自信がありません。漱石先生が言うには、芸術家は主に「情」を働かせて物の関係を味わうことが大事なのに、そして芸術家として、人間として「智・情・意」すべてが大切なのに、それが分かっていません。そんな腰の引けた態度、バランスの悪い画工はさっそく転倒、餅をつきます。

 かんがえがここまで漂流して来た時に、余の右足うそくは突然すわりのわるい角石かくいしはしを踏みくなった。平衡へいこうを保つために、すわやと前に飛び出した左足さそくが、仕損しそんじのめ合せをすると共に、余の腰は具合よくほう三尺ほどな岩の上にりた。肩にかけた絵の具箱がわきの下からおどり出しただけで、幸いと何の事もなかった。

『草枕』1章

 彼は立ち上がる時に、目指す峯を見ますが、その手前に邪魔な禿山(はげやま)があるのに気付きました。険しくて乗り越すのは難しそうだから、遠回りすることに決めます。この禿山は、後に立ち寄るお茶屋で「天狗岩」だと教わります。天辺(てっぺん)には赤松が見えます。『草枕』では大事な場面で、しょっちゅう松の木が登場しますので、次に読むときは松の木にも注意して下さい。なぜ松なのか?理由はすぐ後に解ります。

 さらに山路を歩きながら、画工は詩や絵など芸術について考え続けます。西洋の詩と違って、東洋の詩歌は、世間的人情を解脱しているところが良い、などと言います。ここで「非人情」という言葉が初めて出てきます。

淵明、王維の詩境を直接に自然から吸収して、すこしのでも非人情ひにんじょうの天地に逍遥しょうようしたいからのねがい。一つの酔興すいきょうだ。

『草枕』1章

 他ではあまり見かけませんが『草枕』では「非人情」という言葉が何度も出てきます。画工のお気に入りの言葉で、彼はできるだけ「非人情」な気分でいきたいと思っています。「非人情の天地というのは、当時の漱石が理想とした芸術観」云々書いてある本もあります。しかし画工と漱石は別人です。「非人情」はあくまで画工の理想であって、漱石の理想ではありません。
 『草枕』のテーマは「智・情・意と文芸」だと最初に述べましたが、「智・情・意」という言葉は、冒頭にしか使われません。一方「非人情」と「人情」は20回ほど、「不人情」は3回使われています。この三つの言葉「非人情・人情・不人情」の順に並べて「智・情・意」と見比べて下さい。何となく似ているけれど、一致するわけではありません。明らかに「不人情」≠「意」です。でも他人から「智・情・意」を向けられて、迷惑した側の感じ方だと考えれば、こういう言い方にもなるでしょう。画工は「智・情・意」をわずらわしいものだと思っていますから。

 「非人情」とは何なのか?『草枕』を読めば必ず湧く疑問です。
 画工が「非人情」をどういう意味で使っているか?
自他両方のドロドロした感情と、損得勘定ばかりの世間から遠く離れ、安心して第三者的な視点を保つことができる場所、芸術家として対象から距離を置いて「人情」を観察する態度を「非人情」と呼んでいます。この画工流の「非人情」だけを使って『草枕』を読むのも、ひとつの読み方ではあります。

しかし、ここでは「非人情」=「智」という見解に立つことにします。その理由について、筋の説明をしながら述べたいと思います。「非人情」=「智」だとすると、別の『草枕』が見えてきますよ。

 画工流の「非人情」解釈は、9章で那美さんから指摘を受けてしまいます。9章はとても重要で、『草枕』のヘソのような章です。
 「非人情」を連発するくせに、その意味を少し取り違えているこの画工、クールな態度で格好つけてるけど、よく読むと突っ込みどころのある人物です。

 ちょっと逃げ腰な画工ですが、読者は大いに彼に共感できますよね。誰だって、煩わしい俗世間から離れた場所で、安心して芸術が楽しみたい。
 だから旅に出る。出たなら、できるだけ浮世を離れた旅をしたい。そこで彼はある事を思いつきました。