夏目漱石『三四郎』里見美禰子と四人の男(ラストシーンに隠された主題)

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ストレイシープは「森」に迷う?

 三四郎に「題が悪い」と言われた「森の女」というタイトルですが、それなりに意味があるように思います。作品中「森」が出てくる場面が、四度あります。

 一度目、三四郎が美禰子と出会った池のそばにある森です。絵に描かれている上野の森ですね。
 二度目、菊人形展から抜け出した三四郎と美禰子が、小川で休憩をとる場面。二人で見上げた空の下にあった森。(2章)
 三度目、三四郎と美禰子が丹青会の展覧会から出た後、森の大きな杉の下で雨宿りをする場面。(8章)

 ここまでの「森」を考えると、美禰子の心が揺れている時「森」も出てくるのだな、と納得です。けれども四度目に出てくる「森」は、広田先生の夢の中。11章、夢で森の中を歩いていた広田先生が、昔ひとめ惚れした少女に再会した、という話です。昼寝から覚めた広田が三四郎に、この不思議な夢の話をします。この夢は、「草枕と三四郎は兄妹!」で説明したように「詩画は不一にして両様なり」を表しているのですが、もうひとつ別の問題「広田先生が結婚しない理由」にも関わっています。

 広田先生が言うには、自分は「ハムレットに似た人」だから結婚しないというのです。彼の母が、死ぬ前に「実は誰其が御前の本当の御父おとっさんだ」と全然知らない人の名前を告白。自分が父だと信じていた人の子ではなかった、母の不義によって生まれた子だと知らされた。そのせいで、結婚に信頼を置かなくなった、とのこと。「母が父を裏切り叔父と密通したせいで、女性不信になったハムレット」と似ているのだ、というわけです。そして「僕の母は憲法発布の翌年に死んだ」

 帝国憲法発布は1889年2月。その式典の日に暗殺されたのが、森有礼文部大臣。彼の葬列の途中に見かけた美少女は、広田青年の脳裏に焼き付いた。が、翌年彼の母が驚くべき告白を残して死んだため、広田青年は結婚に信頼を置かなくなった——という流れです。

 三四郎が「しかし、もしその女が来たら御貰いになったでしょう」と聞くと「貰ったろうね」と答えるのですから、その少女はハムレット広田にとってのオフィーリアだったという事になります。
それにしても、少女との出会いが、森有礼の葬列だったというのは、色々と考えさせられる設定です。

 森有礼は、英語の国語化を提唱するほどの急進的な欧化主義者でした。日本の未来を絶望視する広田は、森有礼の暗殺について何を思ったか、などと、真面目に考えることもできます。が、広田青年の心が揺れた瞬間は、「」文部大臣の葬列途中だった!?
 なあんていう冗談みたいな話もあり得るのが、夏目漱石だと思います。
 ハムレットは、宿命に従い復讐を遂げて散りましたが、広田先生はこの世のすべてに対して「不信」な状態のまま、生き残ってしまったハムレット。彼もまた森をさまよう迷羊、なのでしょうか。

 与次郎は、広田を「偉大なる暗闇」と名付け、論文の題にしました。神秘的でかっこいい呼び方ですが、尊敬の念を込めたわけではありません。
 外国では光ってるが、日本では誰も知らない真っ暗な野々宮を「燈台」。自分の周囲二尺をぼんやりと照らす「丸行灯まるあんどん」が与次郎。それに対しての「偉大なる暗闇」の広田なのですから、敬っているんだか、皮肉なんだか微妙です。与次郎は、広田先生を評して

「万事頭のほうが事実より発達しているんだからああなるんだね。その代り西洋は写真で研究している。パリの凱旋門がいせんもんだの、ロンドンの議事堂だの、たくさん持っている。あの写真で日本を律するんだからたまらない。きたないわけさ。それで自分の住んでる所は、いくらきたなくっても存外平気だから不思議だ」

夏目漱石『三四郎』4章

 と言っています。確かに、西洋の綺麗なところだけ収めた写真を見ているのと、漱石のように実際に洋行した人の感想は、大分違うのでしょう。三四郎から見れば、泰然と取り澄まし太平を得た広田ですが、与次郎に言わせると「自分じゃなんにもやらない人だからね。第一ぼくがいなけりゃ三度の飯さえ食えない人なんだ」そうです。様々な方面に対しての意欲に欠けている、ということでしょう。勉強熱心なのに著作で出世しようなどという気は一切無く、結婚もしない広田先生。彼が展望を持てないのは、日本の未来を論理的に突き詰めて「ほろびるね」と帰結してしまったせいでしょう。人間が必ず死ぬように国家も興亡する運命の中で、ハムレットのように煩悶している最中か?もう諦めて何もしないのか?広田先生のように何も信じる事が出来ず、「智・情・意」の内の「智」の世界だけに極端に傾いていく人の苦悩は、後の『行人』や『こころ』で、現実的に生々しく描かれることになります。

イブセンの装置

 「さよう、イブセンの劇は野々宮君と同じくらいな装置があるが、その装置の下に働く人物は、光線のように自然の法則に従っているか疑わしい」

夏目漱石『三四郎』9章

 9章、精養軒での学者や芸術家の会合で、縞の羽織の批評家がこんな発言をしていました。
『三四郎』に何度も登場する「イブセン」の名。『草枕』では「能の仕組」が作用しましたが、『三四郎』では「イブセンの装置」が働きました。装置にかけられ、実験されたのは「矛盾する女」でした。

 北欧の劇作家イプセンと言えば、代表作『人形の家』です。フェミニズム運動のおこりとしての印象があるでしょうが、実際に読んでみると、ヒロインのノラは自立を目指す強い女というより、揺れる心を持った「矛盾する女」です。
 夫が病気の時に借金をしてでも彼をしっかりと療養させ、その返済のために節約と内職を頑張った”糟糠の妻”ノラなのですが、そのことを夫には内緒にしています。夫の前では、綺麗でちょっとおバカな可愛い女として愛されることを楽しんでいるのです。そうして心の中では、一度で良いから夫に向かって「馬鹿野郎ッ!」と言えればどんなに気持ちがいいだろう、と思っています。
 そんな矛盾を抱えたノラが、最後は夫の懇願を振り切って家を出て行ってしまいます。身の破滅を覚悟した革命的な決断です。そのノラの心の変容が、いかにも自然であり得そうに描かれているのか?というと、上記の縞の羽織の批評家の言うとおり、あんまりそうは思えません。青空文庫に島村抱月訳の『人形の家』がありますから、読んでみてください。

 「イブセン流」だと思われていた美禰子は、ノラと正反対に大人しく慣習に従って、縁談結婚をしました。彼女の周りの男たちは驚いたでしょう。妥協した決断だとか打算的な女だ、と思っているかもしれません。けれどどうせ彼らは、現実を生きる生身の美禰子のことなど、すぐに忘れてしまうのです。

 ただ里見美禰子の一瞬の輝きが、一枚の画として、美しい芸術として、
 彼らの心にいつまでも残る・・・それで良いのです。

 令和三年八月 猫枕読書会