カポーティ『ティファニーで朝食を』解説|自由を追い求める、ホリーという生き方。

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解説

安息の地を探すホリーは、定住を好まずいつも彷徨う自分だけを信じる。

ホリーは定住を好まない。ときどきベランダでギターを爪弾き歌う。

その歌詞は、

眠りたくもない、死にたくもない、空の牧場をどこまでもさすらっていたい。

というものだ。空想の大空をいつまでもどこまでも果てしなく旅するさすらい人である。

名刺には “ミス・ホリディ・ゴブライトリ―・旅行中トラヴェリングとある。部屋のスーツケースには荷物が詰めこまれ、いつでも旅立てる状況だ。どこにも定住しない、ホリーは場所にも人の心にも縛られない。

困窮な幼少時代を兄妹の絆だけを支えに盗みを働きながらその日暮らしをした。獣医のゴライトリーに拾われ後妻となるが、常識ではこの年齢差も異常だが、ホリーは感謝して受け入れる。しかし衣食住が足り何不自由ない暮らしのなか、ホリーは少しずつ日々、遠出をしながら、ついには家に戻って来なくなった。

それは、傷が癒えた野生の動物が、再び、自然に還るようだった。

各地を転々とし、カリフォルニアではO・J・バーマンからのハリウッド女優へのチャンスも断り、その理由を「自我を捨てることはできない」としてニューヨークに渡り、ホリーという名を持ち、二十前の美しい大人となって社交界の話題となる。

裕福な暮らしを夢見て、金持ちの富豪たちと付き合い玉の輿を目論む姿、それは貧しさから抜け出したい反射的な願望だが、実際のホリーの本心はブラジルという遠いところへ行くこと。大空を旅することなのだ。

両親を失くし泥棒をして生きていた過去、ゴライトリー獣医に拾われ後妻となった過去、現在はルラメーからホリーに変わった名前、名刺には“旅行中”と綴っている。

それは堅苦しい社会の檻から逃れること、実存を探しながらも、これまでのアイデンティティを消滅させていく生き方なのだ。ホリーは過去を否定し、常に生まれ変わりたいのだ。

ホリーはカポーティ自身を投影し、作家の私は冷静に見守り観察している。

上階に越してきた作家の「私」をホリーは何故、兄妹のように接したのか?年恰好と屈託さと貧乏への親近感。しかしホリーの主義からペットのような位置づけではないはずだ。

ホリーには飼い猫がいるが、ある日、偶然、川べりで巡り会っただけで、私たちはお互い誰のものでもない独立した人格というのがホリーの考え方だ。だから名前はつけていない。名前は所有関係を作り、猫の自由を奪うからとの理由である。

作家の「私」はフレッドに似ているから、ホリーは「私」を “フレッド” と呼んでいる。兄妹の感覚である。両親に捨てられ野生児だったルラメー(ホリー)にとって、フレッドだけが唯一、信頼できる絆である。

それは、トルーマン・カポーティの出自の経歴を見ても自己投影的だ。

社交界で華やぐ自由奔放で性に開放的なホリーの側面を持つカポーティと、作家の「私」として客観的に自己と時代を見つめるカポーティ。自身をホリーと作家の二つの人格に映し出している。

「私」の小説が活字になり、クリスマスのお祝いにホリーは「私」が欲しかった350ドルもする美しい宮殿みたいな鳥籠を贈る。「私」からはティファニ―で買った旅の安全を祈願する聖クリストファーのメダルを贈った。

宮殿みたいな・・・・・・鳥籠は、いかに美しくとも、鳥籠本来の機能を超えた過度に装飾された虚構のような世界である。ペットとなり籠のなかに棲んでも、籠の美醜までは関係ない。比して、聖クリストファーは旅の護りであり宗教的な祈りである、そして人格神の一神教である。

高額を心配する「私」に、ホリーは化粧室に行くときのチップ数回分だと気にしないが、その中に「鳥を絶対に入れない」ことを頼む。それはまるで、世界は用意されても、魂までは隷属しない意思である。

自由が束縛されることを嫌う。鳥籠の本質(=鳥を飼うための籠)を否定することは、すなわちペットとしての・・・・・・・鳥の存在を認めないことである。

ホリーは金に頓着していないし、寧ろ金のために自分を最大に見せる処世術に長けている。品性よりも自分の価値を上げることにプライドを置いている。それは一見に唯物論的だが、魂は野性的なのだ。価値は物質文明の外側の魂の精神性のなかにある。

束縛や隷属を嫌い自由を愛し続ける、ホリーという野生の生き方。

考え方によっては、ホリー自身がニューヨークの華やかで美しい社交界、まさに上流階級の消費文明の象徴の中に囲われている。しかしサリー・トマトとの一件で警察に捕まり新聞沙汰になる。このままニューヨークに入れば醜聞で、窒息しそうなほど身動きがとれなくなる。まさに籠の鳥・・・の状態だ。

ブラジルの富豪のホセから結婚を破棄されると、サリー・トマトの件で婦人警官にこずかれ、それがもとで流産したと嘘話を造ったり、O・Jから弁護士を通じて釈放してもらっても、保釈の身でありながらブラジル行きを強行し、「私」に長者番付リストの入手をせまる。詐欺的で、虚偽的で、刹那的であるが、そこに抗いと脆さが窺える。

ただ一人の肉親のフレッドを失くし、社交界からも追い出されたホリーが、ブラジルに渡り、さらにアフリカまで彷徨の旅をすることは自由な自分の居場所探しである。

ブラジルに旅立つホリーがスパニッシュ・ハーレムで猫を捨てる。新しい地での自己の確立を誓う姿である。しかしすぐに捨てた猫を、ホリーは再び探そうとする。

名前をつけない、所有関係のない猫に別れを告げた時に、ホリーは始めて孤独を感じる。

そしてホリーは「自分と猫、私たちはお互いのものだった」と気づく。「私」は、猫の面倒は見るとホリーに約束した。愛するニューヨークを離れることに感傷的になるホリー。しかし、自由を愛する生き方が蘇る。それは言葉では表せない、説明できないホリーの野生の感情だ。

数週間後に、猫を発見する。猫は、鉢植えの植物に両脇をはさまれ温かそうな部屋の窓辺に鎮座していた。猫はどんな名で呼ばれているのだろうと「私」は想像する。

そして10年の歳月を経て、ホリーそっくりの木彫りの顔の写真が同封された手紙を見せられる。アフリカに渡ったホリーにも、掘っ立て小屋でも安住の場を得て欲しいと「私」は願った。

捨て子だった野生児が、獣医のゴブライトリ―に拾われ、何不自由なく育つが、それは束縛であり隷属であると考え、テキサスの田舎から西海岸、そして大都会ニューヨークへ、そこも衆目に晒され既に自由は無く、新天地のブラジルへ。果ては、アフリカに辿り着いたのである。

「私」の見たホリーに似た木彫りの写真は、まるで自然信仰の精霊のような印象である。その生き方は、決して老いさらばえて姿を見せてはいけないのだ。

小説のタイトルは、なぜ『ティファニーで朝食を』なのか。

現在のマンハッタン5番街のティファニー宝飾店では軽食も用意されるようだが、この時代は論外である。Breakfast at Tiffany‘s-小説のタイトルはなぜ『ティファニーで朝食を』なのかを考えてみる。

文中には、

自分といろんなものがひとつになれる場所をみつけたとわかるまで、私はなにも所有したくないの。そういう場所がどこにあるのか、今のところまだわからない。でもそれがどんなところだかはちゃんとわかっている。

“それはティファニーみたいなところ” だというのだ。

ティファニーで朝食をとるということ、それは、女性にとって美しさで満たされた礼節ある空間であり、そういう場所で心安らかに朝食をとる。それは所有や独占ではなく、調和や風景に近い。ニューヨークの社交界の人気者のホリーならではの夢なのであろう。

それは静かで美しい幻想世界なのかもしれない。

そして「いやな赤」の気分を、ティファニーが落ち着かせてくれるというのだ。当時、アメリカに共産主義の波が押し寄せている。政治や文化、芸術の分野で密かに浸透している。革命による社会不安、プロレタリア独裁の社会では個人の自由などありえない。

身分や階級を超えて成功を掴むことのできるアメリカ。ティファニーは個人の自由を尊重し、幸せを体感できる場所と感じたのであろう。

極上で静謐な空間に憧れる女性心理、そして資本主義の象徴。

醜聞から逃れ、ブラジルに旅立つホリーには、既にニューヨークは過去形の好きだった場所なのだ。

夢を抱きつづけ抗いながらもがく、我儘で脆い自己。自由を愛するホリーにとってニューヨークは美しい宮殿のような鳥籠に変わってしまったのである。

一体となり、ひとつになれる安住の地を求めて、ホリーという女性はこの世の果てまで自由を求めて羽ばたきつづける。ホリーは、大空が虚しい場所だと知っている、雷鳴がとどろき、ものごとが消えうせる場所だと知っている。しかしホリーには大空を見上げるだけの生き方などは、できないのだ。

ホリーはたとえ堕ちても、美しく羽ばたきつづけたいのだ。

それは常にここでない何処か。アンファン・テリブルと光輝いたカポーティが、果てはアダルト・チルドレンとして生きていくように、隷属や束縛を嫌う、自由を愛する旅を永遠に続けることなのだ。