ジョン・アーヴィング『ガープの世界』解説|死のその時まで、ひたむきに命を生きる。

ジェニーは、愛のない、肉欲のない、不思議な方法で生命を宿し産む。母なる胎内からこの世界に現われたT・S・ガープ。ガープの観る世界には、暴力や暗殺や強姦など目を覆う出来事と、苦しく複雑な人生を負った人々がいる。愛、不義、確執、狂気、敵対、そして次々に訪れる死。作家の眼で人生の悲劇を喜劇として物語る『ガープの世界』。

あらすじ

愛のない、肉欲のない、不思議な方法で、私生児として生まれたガープ。

男の肉欲が嫌いで結婚はしたくない、だが子供は欲しい。看護婦の仕事をするジェニーは非婚出産を希望するマイノリティ。生涯で一回だけの性交渉を計画し実行に移す。

ジェニーは、脳を損傷し全身に包帯を巻き、死期が近い兵士を看護する。ガープ三等軍曹は、何故か常に勃起し赤児への退行現象を起こしている、ジェニーは、砲台の射手の最後の一発の玉(=すなわち精子)を馬乗りになり “一方的に” 貰い受ける。その後、男は死んでしまう。

ジェニーは、「彼のなかの最良のものは、私のなかにあり、私たち二人にとっていちばん良いことで、彼が生き続けることの出来る唯一の方法、わたしが子供をもつことのできる唯一の方法だった」と考える。それは瀕死の兵士にとっても、ジェニーにとっても、両方に最上の方法であった。

世間の人たちが不道徳とみなすことは、人間個人の権利を重んじていないという。

こうして念願のシングルマザーとなり、産まれた子には技術軍曹(Technical Sergeant=三等軍曹)の兵士にちなんで「T・S・ガープ」と名づける。保守的なジェニーの父親はカンカンになって怒った。

これがガープに与えられた世界だった。<生命いのちの誕生>はいつも受動的。T・S・ガープはいつも自分が若くして、死ぬだろうと思っていた。

ジェニーは主任看護婦となり、名門男子校のスティアリング学院の敷地内でガープと共に暮らす。

ガープは五歳の時、鳩を退治しようと雨のなか付属診療所の四階の非常口の踊り場から屋根に登り、雨どいにはまり動けなくなる。ボジャー補導部長が地面にマットを手配し、ジェニーは手摺てすりごしに何とか救い出し、奇跡の生還を果たす。

ある日「脂肪シチュー」と渾名された金持ち上流階級のスチーヴィ・パーシィ家のレドリバー犬、ボンカーズがガープの左耳を噛み切った、ジェニーは注射を打って犬を殺そうとする。それはジェニーにとって階級闘争であった。

ガープも「上流社会の野良犬ども」と呼んでいた。

レスリング室でヘレンと会い、ガープは作家になろうと決意する。

ガープは十五歳になりスティアリング学院に入り、授業や教師は選べたが、スポーツ活動に悩んだ。ジェニーは様々な種目を見学してレスリングのコーチのアーニー・ホームに会う。着任したばかりで、アイオワ各地でコーチをしていたが中西部にうんざりして東部に出てきたのだ。

彼の娘、十五歳のヘレン・ホームは、一族でいちばん頭がいいというのがアーニーの口癖でその美しさは母親譲り。生まれてこの方、午後の三時間は父のレスリング室で男の子たちを眺めながら本を読んでいた。そのせいで大の読書家となった。ヘレンの母親も元は看護婦だったが、彼女を生んで一年四ヵ月後に蒸発した。

ヘレンは看護婦姿のジェニーを母親と勘違いして抱きつく。アーニーはジェニーに詫びながら、親子の物語、蒸発した看護婦との経緯いきさつ、中西部の話などをした。片親同士でお互いに共感し、レスリング室で突然の親近感がわいた。

ジェニーはガープを「レスリングに登録」した。ガープはレスリング室が好きになった。コーチのことも好きになった。自分のスポーツ、自分の時間の過ごし方を見つけた。やがてガープはヘレンと会話を交わす。

ある日、誰もいないスタジアムでヘレンが一人本を読んでいた。ガープが「本ばかり読んでいるんだったら、将来は作家になるんだろうね」と訊ねると、ヘレンは「可能性はないわ」と答え、「もしだれか・・・と結婚するんだったら、作家と結婚するんでしょうね」と返す。

ガープに “想像力” がそなわったのは、ヘレンの肉体を想像してみようとした時だった。

ヘレンによってガープの将来の夢が決まった。T・S・ガープは、作家になろうと決意したのである。ヘレンのいうほんもの・・・・の作家に。

ポンキーズへの仇討ちと、初めてのセックスを経験して卒業する。

ガープは初めての作品をヘレンに評価してもらい、作家を本格的に目指していく。

夢中だったレスリングでは最優秀レスラーに選ばれ、ガープは最初のスター選手で、アーニー・ホームのお気に入りだった。ヘレンの評価はガープにとって大きな意味を持った。また英語教師のティンチからは作家になるように励まされた。ガープの想像力を誉めてくれて、文法と正確な言葉遣いを愛する心を教えてくれた。

三年生の時に、パーシィ家の幼馴染のクッシー・パーシィと川の近くの砲台のそばで、初めての体験をするところゴムを忘れ、クッシーは口にガープのものを含む。かくてガープは非生産的なかたちでセックスの洗礼を受けた。

ガープはレスリングを辞める、学校での教養も備わったとのジェニーの考えもあり、大学に行くのを止めてヨーロッパに行き作家の勉強に励むことになる。これはジェニーの考えであり、彼女もガープと伴にすることにした。ティンチのアドバイスを受けてオーストリアの地を選んだ。

卒業式の日に、ガープはクッシーに会いにゆき、彼女を何とか誘い出し、仇敵のポンカーズの耳を今度はガープが噛んだ。学校で過ごした四年間と母親の十八年間を記念して。

ガープは付属診療所に向かう。噛み切ったポンカーズの耳の一部を見て「耳には耳を、ね」とジェニーは言った。かくてガープは、母親の部屋から一番遠い部屋でクッシーとセックスが叶った。

打ち棄てられた宇宙のなかで、行われる孤独な行為で、恐ろしい楽観主義の行為だった。

ヨーロッパに渡り、十八歳の青年となったガープは、作家の孤独な蟄居ちっきょ生活の心構えができてた。

マルクス・アウレリウスの自省録を読み、芸術とは何かを知る。

ジェニーは四十一歳になっており、これまでの人生を文章で表現することを考えていた。ガープは、自分だけの想像力の世界に生きていた。ウィーンで感じたことを手紙にしてヘレンに送っていたが、ジェニーは十一月には六百枚の原稿を打ちおえ、まだ始まったばかりの勢いだった。

二人はウィーン市歴史博物館で展示されるオーストリアの詩人・劇作家のフランツ・グリルパルツアーの有名な作品を読んで嫌いになった、そしてガープは古本屋でマルクス・アウレリウスの英語版『自省録』を買う。

「その生命の時間は一瞬に過ぎず、その存在は絶えざる流れ、その感覚はほのかな灯心草のろうそく、その肉体は地獄の餌食えじき、その魂は静まることなき渦巻にすぎず、その運命は暗く、その名声は定めない。これを要するに、すべて肉体に属するものは行く川の流れのごとく、すべて魂に属するものは夢と蒸気のごとし」

これを読み、ガープは作品の違いはテーマではなく、知性と洗練度 にあり、その違いこそが “芸術” だと確信した。

ジェニーは“欲望” の意味を知るため街に出ると、三人の街娼に出くわす。一人の娼婦をバーに誘い「そういうかたちで奪われて、それで品位を傷つけられないのか、それとも品位を傷つけられるのは男だけだと思っているのか」と質問する。

娼婦は「分からないわ」と答えた。結局ジェニーには “欲望” の意味が理解できなかった。

しかしジェニーの文章に、色調を与えたのは「この心の汚れきった世界においては、だれもがだれかの妻かだれかの情婦ーそのどちらかになろうと躍起になっている」という文章だった。

「わたしは仕事をもちたかった。そして独りの生活がしたかった。そのために性の容疑者とされてしまった」という一文が本の題名を与えた。

ジェニーの “性の容疑者” がベストセラーに、ガープは初めて短編を書く。

この『ガープの世界』は、作中作の入れ子構造になっていて、主人公のガープの観た世界が、想像を通して「小説」となっている。読者は、小説家ガープ(ジョン・アーヴィング)の作家人生を追体験できる。

ガープは、街で娼婦のシャルロッテというジェニーと同じ年恰好の女性と意気投合し作品の構想を得る、そして短編『ペンション・グリルパルツアー』を書いた。

ウィーンの街めぐりでの想像の物語は、全編に死のテーマが漂う。19世のオーストリアの詩人 フランツ・グリルパルツアーに因んだ『ペンション・グリルパルツアー』。父はオーストリア観光局のスパイとしてペンションのランク分けをする秘密の任務を家族と共に担う。あるペンションに鉄道駅で出会った四人組のハンガリーからのサーカス団も泊まっている。そこで起こる不思議な出来事― “夢を告げる男” や “逆立ちで歩く男” や “一輪車に乗る熊” や “ハンガリーの歌の男” そして “赤のターバンを巻いた老女”が起こす物語。たくさんの人と一匹の熊が死んだ。

ヨーロッパから帰り、ガープとヘレンは結婚した。ヘレンは大学を卒業して二十三歳で英文学の博士号を取得し、二十四歳の時に女子大学の助教授となる。

ジェニーは半生を描いた自伝 『性の容疑者』 がベストセラーになる。世間は「力にあふれて一つの生きざまを謳いあげ、他の生き方を拒否した、真の女性運動家の手になる最初の自伝」と好評した。

彼女は長編のノンフィクション作家として有名になり女性運動の指導者に祭り上げられる。『性の容疑者』出版の後、ショックを受けた父親は心臓発作で死亡した。

ジェニーは、母親の世話に赴きドッグズヘッド港の屋敷で、女性のための相談を務めることになった。

ガープとヘレンの間には長男のダンカンが生まれた。ヘレンは大学で教鞭をとり、作家のガープは家政夫を楽しみ、子煩悩な父親、良き夫として、幸せな家庭を築いていく。