黒澤明『羅生門』解説|芥川の名作の先に、黒澤が伝えたかったこと。

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人間の虚言、狡猾さ、虚栄心。すべてを肯定した上で生き抜くこの社会。

小説「藪の中」を下敷きに、その上に小説「羅生門」をいただくく。人間のエゴイズムとカオスを二段重ねにした映画である。そして物語の終わりに僅かな救いを余韻として残す。世界の黒澤が究極における人間の本質を暴く。

芥川の小説「羅生門」の最後は

「外には、ただ、黒洞々こくとうとうたる夜があるばかりである。下人の行方は、誰も知らない」

という格調高い余韻ある名文で閉じられる。そこには、極限の中で、老婆の着物を奪い、生きていくために悪事を正当化する下人が、これから悪をもって生きていこうとする心情の変化が描かれる。

これに対して黒澤の映画『羅生門』では、

下人は生きるために当然のことをしたまでで、いかほども悪びれる様子もなく羅生門を後にする。躊躇やためらい、ましてや良心などかけらほどもない。

当事者の多襄丸、夫の金沢、妻の真砂の三人三様のまさに “藪の中” の証言。小津映画にとって笠智衆が欠かせないように、黒澤映画にとって欠かせない三船敏郎の演技が圧巻である。

小説とは異なり、映画の強さとして役者の演技や映像、音楽の要素は大きい。

モノクロームの映像は、太陽と影の陰陽を強調し、蝉時雨が激しく、ぎらぎらとした光の中で、多襄丸、金沢、真砂の三人がどこかモノトーンの静寂を感じさせながら淡々と出来事が、繰り広げられる。三人三様の主張にそれぞれのエゴイズムが潜んでいる。

そして「一部始終を見ていた」というそま売りの話、この話すらも真実か否かは分からない。

奏でるボレロは、この平安朝の物語を、時空を超えてモダンな見世物として運んでくる。

小説「羅生門」の下人の心象を考えれば、平安の末世の悪事は、肯定はできずとも、仕方のないこととして読者は諦観としてみつめていた。

映画では、巨大な羅生門の造作に圧倒されながら、そこで交わされる人間たちのちっぽけな会話が絶妙の世界観をつくる。杣売りも旅法師も覗き見的な証言で、その証拠に、杣売りは隙を見計らって「短刀を盗む」という事実を隠蔽して、善意の目撃者を演じる。

最後に残る僅かな人間の善を信じて、諦めず繋がりあうこの社会。

映画「羅生門」では、杣売りの話が終わると、羅生門の片隅から赤子の泣く声が聞こえる。

下人は、すばやく赤子を見つけ、着物を剥ぎ取ってしまう。畜生にも劣る下人の行為をとがめる杣売りに対して、この平安の末世に、まともに生きる者などいないと下人は話し、杣売りの偽善をなじる。

そして「お前こそ嘘をついている、短刀はどうなった、お前が盗んだんだろう」と、杣売りが、真砂が持っていた高価な螺鈿らでん小刀さすがを盗んだことを暴き立て、殴りつけ、赤子の着物を抱え、雨のなかを立ち去っていった。

映画に登場する下人は、小説の「老婆の着物を剥ぎ取る」とは異なり、目の前で「赤子の着物を剥ぎ取る」という人非人にんぴにんの挙に出る。そして短刀を盗んだそま売りが見せた偽善を徹底的に笑い者として蔑む。

旅法師は、赤子を抱えこの末世を嘆く。その時、杣売りは罪の意識から「赤子を自分の家で引き取って育てる」という。六人育てるも七人育てるのも同じだというのだ。

映画では、既に悪を正当化している下人がいて、“藪の中” の事件の真実は、そま売りの証言通りであり、また杣売りもまた盗人である。

冒頭に、杣売りが「わからねぇ」と連発しながら、かたや一部始終を見て分かっていた以上、なぜ検非違使に真実を言わなかったのかは「関わり合いになりたくなかった」からである。

映画「羅生門」では、真実を語っているのは杣売りである。この「わからねぇ」は、真実が分からないのではなく、かくも人間が嘘をつく理由、つまり<人間というものが分からない>と言っているのである。何より杣売り自身が盗人であり、その真実は隠しているのだから。

芥川の小説「藪の中」には、最後に杣売り(小説のほうは木樵きこりだが)が語るシーンは無い、これは映画「羅生門」で、黒澤と橋本の脚本で加えられたものである。

末世の世にあって、この旅法師の心境はいかなるものであろうか。

杣売りは小刀を盗んでいるから、盗人である。知っている真実を検非違使に伝えてもいない。その意味では、引き受け手がないとはいえ、旅法師の手を離れた赤子がきちんと育てられるかどうかの保証など何も無い。

それでも、不確かな善意・・・・・・に委ねるしか他に手段は見当たらない。旅法師は、まだ少しばかり残っていると信じる人間の良心に期待を込めている。

それが偽善であれ、すさんだ世の中で行き先が決まった赤子へ、旅法師は人間を信じることにして安堵する。殺伐とした世の中でのささやかな光明である。

栄華を極めた平安の終わり、末世の救いようのない天変と人心の乱れ、まさにカオスの世界が描かれて、人間は善悪の基準すら持てないエゴイズムの中にいる。

最後の杣売りの言葉と態度こそが、黒澤が考えるほんの僅かな救いなのか。

芥川が生涯、抱きつづけていた<漠然とした不安>が、小説『羅生門』となり、そして黒澤が映画『羅生門』を製作し、世界はこの日本の芸術に称賛をおくった。この脚本による映画は、第24回アカデミー賞名誉賞 第12回ヴェネツィア国際映画祭 金獅子賞の栄誉に輝いた。

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