映画『羅生門』あらすじと解説/ここが見どころ!

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概要>多襄丸、夫の金沢、妻の真砂。三人三様の嘘をつく。嘘をつく理由は、それぞれの虚栄心とエゴイズム。芥川の小説「藪の中」に、小説「羅生門」の下人を登場させ、杣売りと旅法師の会話に僅かな救いを余韻として残す。世界のクロサワが究極における人間の本質を暴く。

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登場人物

多襄丸(三船敏郎)
悪名高く女好きな盗賊、真砂を手籠めにする。検非違使の庭でも不敵な態度をとる。
金沢武弘(森雅之)
真砂の夫、優しい気立ての男で、妻を手籠めにされその後の態度に絶望し自害する。
真砂(京マチ子)
金沢の妻、多襄丸に襲われる。辱めを受け夫とともに死のうとするが死にきれなかった。
杣売り(志村喬)
遺体発見者。検非違使の庭で矛盾する三人の証言を聞くが、一部始終を目撃している。
旅法師(千秋実)
金沢夫婦の姿を目撃する、検非違使の庭では三人の話を聞き、人間に大きな不信を抱く。
下人(上田吉二郎)
雨宿りに羅生門で杣売りと旅法師の話を聞き、人間の嘘とエゴイズムを肯定している。
巫女(本間文子)
検非違使の庭で、巫女の口を借りて死んだ金沢の霊が乗り移って証言を伝えていく。
放免(加藤大介)
河原で、痛みうずくまっていた多襄丸を発見し、検非違使に連行する。

あらすじ(ネタバレあり)

平安の都では、戦さ、地震、竜巻、火事、飢饉と災いが続き、夜になれば洛中には盗賊の群れが荒らし廻っている。ここ羅生門もすでに廃墟となり、ここで雨宿りをする男たちがいた。

そま売り(山で木を伐り売る人)と旅法師(お坊さん)は、藪の中での奇妙な殺しの事件の参考人として検非違使の庭で取り調べを受けての帰りだった。そこへ下人が駆け込んできて三人でこの不思議な話を始める。

杣売りは「こんな話は聞いたことがない」と言い、旅法師は「人の心が信じられない」と言う。杣売りは、下人にこの話を聞かせる。検非違使の庭でそれぞれの証言が繰り広げられる。

目撃者と当事者三人三様の証言に、それぞれの嘘と虚栄心が潜んでいる。

目撃者のそま売りの話

3日前、薪を取りに行った山で、侍の金沢武弘の死体の第一発見者は自分である。あたりに太刀は見あたらなかった。木の枝のところに市女笠いちめがさがひとつ、踏みにじられた侍烏帽子えぼしがひとつ、死骸の傍らに断ち切られた縄がひとつ、少し離れたところに赤地織の守袋が落ちていた。

目撃者の旅法師の話

死骸の男には3日前の昼下がりにあった。場所は関山から山科やましなの途中。女は、薄い布を垂らしていたので顔は分からない、男は太刀も帯びていたし、弓矢も携えていた。あの男がこのようになろうとは人間の命は朝露のようにはかないものです。

目撃者の放免ほうめんの話

私がからめとった男は、多襄丸という名高い盗人です。河原でうなっていたところを捕まえました。弓矢や馬など殺された男が持っていたものです、間違いありません。

多襄丸たじょうまるの話

あの男を殺したのは、確かに俺だ。二人は、勇敢に戦いあって殺したのだ。

旅の途中の金沢夫妻と出くわし、風の吹いた拍子に顔をおおった垂絹たれぎぬがあがり女の顔が見えた。とっさに男を殺しても女を奪おうと俺は決心した。しかし、男を殺さずとも、女を奪うことができれば別に不足はないと思った。

そこで、向こうの山の古塚に鏡や太刀が沢山出て、藪の中に埋めてある。もし望みなら安い値で売りたいと話すと、欲のあるあの男は、私についてきた。そこで、俺は男を組み伏せ松の根方に捕縛しくくりつけた。そして俺はとって返し、女を松の根方にくくりつけた男のもとへ連れて行った。

女は一目見るなり、小刀を引き抜き、俺に向かってきた。どうにか小刀を打ち落とし、思い通りに男の命は取らずとも、女を手に入れることができた。俺は、男を殺すつもりはなく、藪の外へ逃げようとすると、女は「あなたが死ぬか夫が死ぬか、どちらか一人死んでくれ、二人の男に恥を見せるのは死ぬよりつらい。私はどちらにしろ生き残った男に連れ添いたい」と言う。俺は、男を無性に殺したい気になった。

男を殺すにしても俺は卑怯な殺し方はしたくない、男の縄を解き太刀打ちをしろと言った。そしてあの男は勇敢に戦った、そして俺の太刀は二十三合目に相手の胸を貫いた。どうかそれを忘れずにいてくれ、俺と二十合切り結んだのは天下にあの男ひとりだった。

そして、女のほうを振り返ると、女はどこにもいなかった。太刀は都で売った。そういえば、螺鈿らでんの小刀のことは、知らない。

真砂の話

恥かしめを受けた私は、夫に殺してくれと頼み死のうと思ったが、死にきれなかった。

さる寺に身を寄せていたところをおうなに探し出され検非違使の庭で証言する。女は多襄丸の話とは違い、大人しく憐れなほどだった。真砂は辱めを受け、多襄丸は金沢を殺さずそのまま逃げた。

その後、夫の縛られた縄を切ると、夫は、自分に蔑んだ冷たい眼差しを向け、あまりの辛さに自身を呪い、短刀を夫に渡し殺してくれと頼んだ。そして自分は、気を失ったが、気がつけば、私の短刀が夫を刺していた。

私は死のうと思って池に身を投げようとするがどうしても死にきれなかった。この弱い愚かな私はいったいどうすればよいのかと悲嘆していた。

巫女に乗り移った死んだ男の話

多襄丸のみならず、妻にまで裏切られて私は、生きる意味を失くし絶望の中、自刃した。

盗人は、妻を手籠めにするといろいろと妻を慰めた。盗人は巧妙に話をしており一度でも肌を穢した以上、夫との仲もつれあうまい。そんな夫といるより自分の妻になる気はないか。自分は愛しいと思えばこそこんな大それたことをした。

こう言われたとき、妻はうっとりと今まで見せたことのない美しい顔になった。そして「どこへでも連れて行ってくださいという、そのためにも多襄丸に夫を殺してくれ」と頼んだ。

すると多襄丸は、妻に呆れ足蹴にして「この女を生かすか殺すか決めろ」と私に訊ねた。

私は、この多襄丸の言葉に罪を許してもよいと思った。その隙に妻は逃げた。やがて多襄丸だけが戻ってきて、私の縄を切って去っていった。残された私は、短刀をとり絶望の中で自害した。そして静けさのなかで誰かが私の短刀を引き抜いたのを感じた。

クロサワは、藪の中の三人の出来事を杣売りの言葉を真実としている。

杣売りは、男の胸に短刀なんか刺さってはいない。あの男は太刀で刺されたのだという。

下人は杣売りに「お前は、この出来事を全て見ていたらしいな、なぜ検非違使に言わなかったんだ」と訊ねる。すると杣売りは「関わりあいになりたくなかった」と言う。

そして、杣売りが一部始終を話し出す。

山で女の泣き声が聞こえてきた。木の隙間から覗くと、男と女と多襄丸がいて、多襄丸は女を手籠めにした後に、「頼むから俺の妻になるといってくれ」と手をついて頼んでいた。「妻になってくれるのであれば、この世界から足を洗うし、お金もあるし、盗んだお金が嫌なら、汗水たらして働く」と言う。

女は、「私からは言えない、女の私に何が言えましょう」と夫の縄を短刀で切った。

それは、男同士で決着をつけることを意味していた。

すると夫は「こんな女のために命をかけるのはごめんだ」と言う。そして「二人の男に恥を見せて何故、自害しようとせぬのか」と責め、「こんな女、くれてやる」と言う。興ざめした多襄丸は、藪の中へ去っていこうとし、夫も浅はかな妻を見捨てようとした。

その時に、女は発狂したように二人の男をそしりこうわめきたてた。

女は、夫に向かって「夫だったら、なぜこの男を殺さない、私に死ねと言う前に、なぜこの男を殺さない、この男を殺して私に死ねと言ってこそ男じゃないか」と。そして多襄丸に向かって「多襄丸だからこそ、こんな状況の自分を救ってくれると思ったのに、夫を殺しても私を奪おうという気概がないのか」と、多襄丸のお為ごかしに唾を吐きかける。そして二人とも「ただの小利口な男だ」と罵る。

そして夫と多襄丸をたきつけて、男たちを決闘に仕向ける。二人は、及び腰に剣を交える。ともに命の惜しいなか、女にけしかけられての決闘に、仕方なく二人はどちらかを殺すべく戦っており、くんずほぐれつ、かろうじて最後は、多襄丸の剣が男の胸を刺した。

そして、それを見届けると、女は藪の中へ逃げていった。

追いかける多襄丸は、腰が抜けてしまい逃げていく女を追いかけることはできなかった。多襄丸は、金沢の太刀をもって藪の中へ消えていった。

赤子に対する下人と杣売りと旅法師の言葉に、人間の心の混沌を思う。

その時、羅生門の片隅から赤子の泣く声が聞こえる。

下人は、すばやく赤子を見つけ、着物を剥ぎ取ってしまった。畜生にも劣る行為をとがめる杣売りに対して、この平安の末世にまともに生きるものなど無いと話し、杣売りの偽善をなじる。

そして下人は、「お前こそ嘘をついている、短刀はどうなった、お前が盗んだんだろう」と、杣売りが真砂が持っていた高価な螺鈿の小刀を盗んだことを暴き立て殴りつけ、赤子の着物を抱え雨のなかを立ち去っていった。

旅法師は、赤子を抱えこの世を嘆く。その時、杣売りは、罪の意識から赤子を自分の家で引き取って育てるという。杣売りは、六人育てるも七人育てるのも同じだというのだ。

旅法師は、まだほんの少しなりとも残っている人間の良心に感謝する。

解説/ここが見どころ!

●人間の嘘は、自身の美化や虚栄心のエゴイズムの上に多様である。

下人は、言う。

いったい正しい人間なんているのかい、みんな自分でそう思っているだけじゃないのか。人間って奴は都合の悪いことを忘れ、都合のいいことをほんとうと思っている。そのほうが、楽だからな。

三人の嘘の背景は、下記のように自身を美化したい思いがある。

多襄丸は、都にとどろく猛者ぶりが誇らしく、真砂に頭を下げ妻になるように願ったことや、金沢とのへっぴり腰の決闘の事実で臆病者には思われたくない一心の虚栄心が働いている。

真砂は、あくまで自分は最大の被害者という同情と、夫の保身の情けなさに対し武士の妻であり恥辱を受けて自害しようとする潔さを見せようとしたができずに、気がついたら短刀が夫に刺さっていたと自らの殺害も否定している。

金沢は、目の前で妻の辱めに会い、そして真砂に決闘を迫られて及び腰で戦い、多襄丸に負けたことを恥じ、真砂が手籠めにされたあと、あろうことか多襄丸と連れ添うと言ったことに、自分は苦しみながらすべてに絶望し、自ら命を絶っのだという。

三人三様そのように自身を美化し虚栄心を持っている。

しかし実際は、多襄丸はただの女好きの臆病で、真砂は生きるために恥知らずであり、金沢は死を賭して妻を守るような勇ましさは無く。そこを見破られることが、それぞれに最も、恥ずかしいのである。

映画には、原作となる芥川龍之介の小説「藪の中」に、小説「羅生門」が加わっている。

小説「藪の中」については、多くの研究論文や意見があり、ここではその視点よりも映画「羅生門」に見る人間描写やエゴイズムに焦点をあてる。

小説とは異なり、映画の強さとしてそれぞれの役者の演技や映像、音楽の要素は大きい。

モノクロームの映像は、太陽と影の陰陽を強調し、蝉時雨が激しく、ぎらぎらとした光の中で、多襄丸、金沢、真砂の三人が繰り広げる出来事。三人三様の主張にそれぞれのエゴイズムが潜んでいる。そして一部始終を見ていたという杣売りの話、この話すらも真実か否かは分からない。

奏でるボレロは、この平安朝の物語を、モダンな展開に運んでいく。

映画「羅生門」では、下人を加えている。これは芥川の小説「羅生門」に登場する下人で、主人に暇を出され羅生門の上で老婆の着物を剥ぎ取るシーンを、赤子の着物を剥ぎ取るシーンにダブらせている。

巨大な羅生門の造作が映画ならではのスケール感を出している。そして、小説「羅生門」の下人の心象を考えれば、平安の末世の悪事として肯定はせずとも、諦観のなかにある。

そして小説「羅生門」での下人は、まさにその悪に至るまでの心理変容が描かれており、最後は悪を正当化する。映画「羅生門」の下人は、最初から悪を正当化している下人で、この平安の末世に悪を肯定し去っていき、その後、捨てられた赤子を杣売りが引き取るところで物語は終わる。

●最後の杣売りの言葉は、クロサワが考えるほんの僅かな救いなのか。

映画「羅生門」では、クロサワの提示する事件の真相は、杣売りの証言になっている。

冒頭に、杣売りが「わからねぇ」と連発しながら、かたや一部始終を見ていたとなり、なぜ検非違使に言わなかったかは、「関わり合いになりたくなかった」とされている。

つまり、映画「羅生門」では、真実を語るのは杣売りである。この「わからねぇ」は、真実が分からないのではなく、かくも人間が嘘をつく理由、つまり人間というものが分からないと言っているのである。

芥川の小説「藪の中」には、最後に杣売り(小説のほうは木樵きこりだが)が語るシーンは無い、これは映画「羅生門」で、監督の黒澤と脚本家の橋本で加えられたものである。

さらに言えば、そま売りは小刀を盗んでいるから、盗人である。その意味では、引き受け手がないとはいえ、旅法師の手を離れた赤子がきちんと育てられるかどうかなど根拠もなければ保証もない。

しかし、例えそれが偽善であれ、荒んだ世の中で行き先が決まった赤子に対して、旅法師がささやかなりとも人間を信じる安堵として描かれている。

小説「羅生門」は極限の中で、生きていくために悪事を正当化する下人の心情の変化が描かれるが、映画「羅生門」では三人三様のエゴイズムに満ちた、まさに“藪の中”の証言となっている。

そして、目の前で赤子の着物を剥ぎ取る下人に対して、短刀を盗んだ杣売りがみせる不確かな善意という僅かばかりの良心で物語は終わる。

栄華を極めた平安の終わり、末世の救いようのない天変と人心の乱れ、まさにカオスの世界が描かれており、人間の業は善悪の基準すら無いエゴイズムの中にいる。

※芥川龍之介の羅生門を読む!

芥川龍之介『羅生門』あらすじ|悪を正当化するとき、人は真の悪人になる。

黒澤明監督、黒澤明・橋本忍脚本
映画『羅生門』1950年公開の日本映画
1951年 第24回アカデミー賞名誉賞
1951年 第12回ヴェネツィア国際映画祭 金獅子賞
世界のクロサワが贈る人間のエゴイズムとカオスをテーマとした不朽の名作。