黒澤明『羅生門』解説|芥川の名作の先に、黒澤が伝えたかったこと。

芥川龍之介の名作短編の「藪の中」と「羅生門」を融合させて、黒澤明の映画『羅生門』がつくられる。藪の中で起こった強姦と殺人。検非違使の尋問に対して当事者の多襄丸、夫の金沢、妻の真砂は三人三様の嘘をつく。事件を目撃した杣売りと旅法師は、場所を羅生門に変えて人間の謎を語り合うが、そこに下人も加わり話の焦点は新たな方向に変わっていく。今から七十年以上前の作品の意図を脚本に思いを寄せて解説してみる。

解説

本歌取りの手法を映画に取り入れたような世界のクロサワの「羅生門」

書評ブログなので、もとより映画の書評などという言い方は無いが、脚本を想像しながら、この作品は何を言いたかったのか?を考えてみた。

伊丹万作(伊丹十三の父親)の弟子である橋本忍が、芥川龍之介「藪の中」にヒントを得て「雌雄」というシナリオを上げ、そこに黒澤明が「羅生門」の要素を加えたとの経緯らしい。本歌取りと言えば聞こえはいいが、芥川の「藪の中」と「羅生門」の作品世界を合体したわけである。

そしてタイトルが映画『羅生門』なので、さらにややこしい。安直と言えないこともないが、ふたつの作品は主題が全く異なるので一本の脚本にするためには、偉大な原作に泥を塗らないものに仕上げる苦労があったことだろう。

私たちは、小説の原作から脚本を経て映画になる場合に、無意識に出来不出来を<原作以下><原作とほぼ同じ><原作を超える>などとランク付け評価をしてしまう、原作者が生きていれば尚更であろう。しかし原作基準ではなく、全く別のものとして興行成績を上げることもある。

そもそも芥川龍之介の原作『藪の中』は、今昔物語の一説話、<巻二十九第二十三話「具妻行丹波国男 於大江山被縛語(妻を具して丹波国に行く男、大江山において縛らるること)>にあるとされているし、原作『羅生門』も<本朝世俗部巻二十九「羅城門登上層見死人盗人語第十八」を基に、巻三十一「太刀帯陣売魚姫語第三十一」>の内容を合体させて書かれたものである。

夏目漱石から絶賛された芥川の出世作『鼻』は今昔物語集の<「池尾禅珍内供鼻語」および宇治拾遺物語の「鼻長き僧の事」>を題材にしたものだし、続く『芋粥』も今昔物語集の<巻26第17話「利仁の将軍若き時京より敦賀に五位をきたること>を下敷きにしている。

芥川自身が、初期の作品では『今昔物語』や『宇治拾遺物語』を現代に置き換えるかたちで名作を多く残しており、黒澤と橋本は芥川の名作ふたつを融合させて脚本化したわけである。

明らかに日本映画を世界に届けるために、日本の近代小説の名作から発想を得たと考えて間違いないと思う。

人間は都合の悪いことを忘れ、都合のいいことだけを本当と思っている。

物語の舞台は平安時代。都では、戦さ、地震、竜巻、火事、飢饉と災いが続き、夜になれば洛中には盗賊の群れが荒らしまわっている。ここ羅生門もすでに廃墟となり、そこで雨宿りをする男がいた。

栄華を極めた世は終わり、末世の救いようのない天変と人心の乱れ、まさにカオスの世界が描かれており、人間の業は、すでに善悪の基準すら持てないエゴイズムの中にある。

人間の嘘は自身の美化や虚栄心の上に多様である、下人が達観した言葉を放つ。

いったい正しい人間なんているのかい、みんな自分でそう思っているだけじゃないのか。人間って奴は都合の悪いことを忘れ、都合のいいことをほんとうと思っている。そのほうが、楽だからな。

倫理や道徳観を失った時に、人間の本質が剥き出しになる。

そま売り(山で木を伐り売る人)と旅法師(お坊さん)で、藪の中での奇妙な殺しの事件の参考人として検非違使の庭で取り調べを受けての帰りだった。

そこへ下人が駆け込んできて三人で不思議な話を始める。杣売りは「こんな話は聞いたことがない」と奇想天外な感想を込め、旅法師は「人の心が信じられない」と絶望感に苛まれているようだ。

杣売りは、下人に検非違使の庭でのそれぞれの証言を話して聞かせる。

“藪の中”の三人の言い分は、ここでは割愛する。そこで三人がついた嘘の背景を明確にしておく。それは下記のように自身を美化したい思いがある。

多襄丸は、都にとどろ猛者ぶりが誇らしく、真砂に頭を下げ妻になるように願ったことや、金沢とのへっぴり腰の決闘の事実で臆病者には思われたくない一そんな見栄が働いている

真砂は、あくまで自分は最大の被害者という同情を集めることと、夫の保身の情けなさに対し武士の妻であり恥辱を受けて自害しようとする潔さを印象づけ、気がついたら短刀が夫に刺さっていたとして、自らの故意の殺害を否定している。

金沢は、目の前で妻のはずかしめに会い、そして真砂に決闘を迫られ、及び腰で戦い多襄丸に負けたことを恥じ、真砂が手籠てごめにされた後、あろうことか多襄丸と連れ添うと言ったことに、自分は苦しみながらすべてに絶望し、そして自ら命を絶ったのだという。

三者三様このように自身の虚栄心を強く持ち弁明している。

しかし実際は、多襄丸はただの女好きの臆病で、真砂は生きるために恥知らずであり、金沢は死を賭して妻を守るような勇ましさは無い。そこを見破られることが、最も恥ずかしいのである。