映画『羅生門』|芥川の名作の先に、黒澤が伝えたかったこと。

多襄丸、夫の金沢、妻の真砂。三人三様の嘘をつく。嘘をつく理由はそれぞれの虚栄心とエゴイズム。芥川の小説「藪の中」に、小説「羅生門」の下人を登場させ、ふたつを融合させ映画『羅生門』を完成させた。杣売りと旅法師に僅かな救いを余韻に残す。世界の黒澤が究極における人間の本質を暴く。

解説

人間の虚言、狡猾さ、虚栄心。すべてを肯定した上で生き抜くこの社会。

原作である芥川龍之介の小説「藪の中」を下敷きに、その上に小説「羅生門」をいただく。人間のエゴイズムとカオスを二段重ねにした映画である。

小説「羅生門」の最後は、「外には、ただ、黒洞々こくとうとうたる夜があるばかりである。下人の行方は、誰も知らない」という余韻ある名文で閉じられる。そこには極限の中で、老婆の着物を奪い生きていくために悪事を正当化する下人の心情が描かれる。

黒澤の映画『羅生門』では三人三様のエゴイズムに満ちた、まさに “藪の中” の証言に対して、目の前で赤子の着物を剥ぎ取る下人、そして短刀を盗んだそま売りがみせる不確かな赤子への愛情という人間の不信と僅かな善意への期待の中で物語は終わる。あらすじを追いながら黒澤の主題を解説してみたい。

芥川自身が初期の作品では『今昔物語』や『宇治拾遺物語』を現代に置き換えることで名作を多く残しているが、黒澤は芥川の名作2つを合体して脚本化したのである。

栄華を極めた平安の終わり、末世の救いようのない天変と人心の乱れ、まさにカオスの世界が描かれており、善悪の基準すらも持てないエゴイズムの中に人間はいる。

人間の嘘は自身の美化や虚栄心の上に多様である、下人が達観した言葉を放つ。

いったい正しい人間なんているのかい、みんな自分でそう思っているだけじゃないのか。人間って奴は都合の悪いことを忘れ、都合のいいことをほんとうと思っている。そのほうが、楽だからな。

都では、戦さ、地震、竜巻、火事、飢饉と災いが続き、夜になれば洛中には盗賊の群れが荒らしまわっている。ここ羅生門もすでに廃墟となりそこで雨宿りをする男がいた。そま売り (山で木を伐り売る人) と旅法師 (お坊さん) で、藪の中での奇妙な殺しの事件の参考人として検非違使の庭で取り調べを受けての帰りだった。

そこへ下人が駆け込んできて三人で不思議な話を始める。杣売りは「こんな話は聞いたことがない」と言い、旅法師は「人の心が信じられない」と言う。杣売りは下人に検非違使の庭でのそれぞれの証言を話して聞かせる。

“藪の中”の三人の言い分は、ここでは割愛する。そこで三人がついた嘘の背景を明確にしておく。それは下記のように自身を美化したい思いがある。

多襄丸は都にとどろく猛者ぶりが誇らしく、真砂に頭を下げ妻になるように願ったことや、金沢とのへっぴり腰の決闘の事実で臆病者には思われたくない一そんな見栄が働いている。

真砂はあくまで自分は最大の被害者という同情を集めることと、夫の保身の情けなさに対し武士の妻であり恥辱を受けて自害しようとする潔さを印象づけ、気がついたら短刀が夫に刺さっていたとして、自らの殺害も否定している。

金沢は目の前で妻のはずかしめに会い、そして真砂に決闘を迫られて及び腰で戦い多襄丸に負けたことを恥じ、真砂が手籠てごめにされたあとあろうことか多襄丸と連れ添うと言ったことに、自分は苦しみながらすべてに絶望し、そして自ら命を絶ったのだという。

三人三様このように自身の虚栄心を強く持っている。

しかし実際は、多襄丸はただの女好きの臆病で、真砂は生きるために恥知らずであり、金沢は死を賭して妻を守るような勇ましさは無い。そこを見破られることが、それぞれに最も恥ずかしいのである。

最後に残る僅かばかりの人間の善を信じて、諦めず繋がりあうこの社会。

そこに小説とは異なり、映画の強さとして役者の演技や映像、音楽の要素で楽しませてくれる。

モノクロームの映像は、太陽と影の陰陽を強調し、蝉時雨が激しくぎらぎらとした光の中で、多襄丸、金沢、真砂の三人が繰り広げる出来事。三人三様の主張にそれぞれのエゴイズムが潜んでいる。巨大な羅生門の造作が映画ならではのスケール感を出している。そして一部始終を見ていたいうそま売りの話、この話すらも真実か否かは分からない。

奏でるボレロは、この平安朝の物語をモダンな展開に運んでいく。

小説「羅生門」では下人の心理変容を追いながら、老婆の着物を剥ぐ悪事は、肯定はできずとも、生きるために仕方のないことと諦観して読者は読み進んだ。

映画「羅生門」では杣売りの話が終わると、羅生門の片隅から赤子の泣く声が聞こえる。

下人はすばやく赤子を見つけ、着物を剥ぎ取ってしまう。畜生にも劣る下人の行為をとがめる杣売りに対して、この平安の末世にまともに生きるものなどいないと下人は話し、杣売りの偽善をなじる。

そして「お前こそ嘘をついている、短刀はどうなった、お前が盗んだんだろう」と、杣売りが真砂が持っていた高価な螺鈿らでん小刀さすがを盗んだことを暴き立てて殴りつけ、着物を持って立ち去っていった。

旅法師は赤子を抱えこの末世を嘆く。その時、杣売りは罪の意識からか赤子を自分の家で引き取って育てるという。六人育てるも七人育てるのも同じだというのだ。

旅法師はまだほんの少しなりとも残っている人間の良心に感謝して物語が終わる。

映画「羅生門」での下人は既に悪を正当化している下人で、黒澤の提示する事件の真実は、そま売りの証言であり、その杣売りもまた盗人である。

冒頭に、杣売りが「わからねぇ」と連発しながら、かたや一部始終を見ていたとあり、なぜ検非違使に言わなかったかは「関わり合いになりたくなかった」とされている。

映画「羅生門」では真実を語るのは杣売りである。この「わからねぇ」は、真実が分からないのではなく、かくも人間が嘘をつく理由、つまり人間というものが分からないと言っているのである。

しかし同時に杣売りは小刀を盗んでいるから盗人である。三人の証言のエゴイズムを歎きながらも、自身も小刀さすがを盗んだことをごまかしていた。その意味では引き受け手がないとはいえ、旅法師の手を離れた赤子が、杣売りにきちんと育てられるかどうかの保証など何も無い。

芥川の小説「藪の中」には最後にそま売り(小説のほうは木樵きこりだが)が語るシーンは無い、これは映画「羅生門」で、黒澤と橋本の脚本で加えられたものである。

しかしそれが偽善であれ、すさんだ世の中で行き先が決まった赤子へ、旅法師が人間の行いとして安堵の表情をみせる。殺伐とした世の中での僅かな光明である。

栄華を極めた平安の終わり、末世の救いようのない天変と人心の乱れ、まさにカオスの世界が描かれ、人間は善悪の基準すら持てないエゴイズムの中にいる。

最後の杣売りの言葉と態度こそが、黒澤が考えるほんの僅かなこの世界の救いなのか。

芥川の漠然とした不安が、小説『羅生門』になり、『藪の中』を下敷きにした黒澤が、映画『羅生門』を制作した。世界はこの日本の芸術に称賛をおくった。

人間のエゴイズムとカオスをテーマとした不朽の名作である。


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