映画『愛を読むひと』|ナチスの迫害、もうひとつの記憶。

なぜハンナは突然、マイケルの前から姿を消したのか? なぜハンナは突然、不利な証言をしたのか? 隠し通さなければならない、もうひとつのアウシュビッツの迫害の記憶。ハンナ演じるケイト・ウィンスレットが、ひとり罪を負い死を選ぶ理由。その真実を知る朗読者。

解説

彼女の名前はハンナ、マイケルは彼女に多くの本を朗読する。

1958年、西ドイツ、ノイシュタット。

15歳のマイケルは学校から帰る途中に気分が悪くなり、女性に介添えされて何とか我が家に戻ることができる。やがて回復したマイケルは女性のアパートへお礼に行く。

女性は路面電車の車掌の仕事をしていた。やがてマイケルは、彼女と肉体関係を持つ。それはマイケルにとって初めての経験であり、彼は21歳年上の女性に恋に落ちた。

名を告げることを少しためらい、女性は答えた。名前は「ハンナ」。

ハンナはマイケルの語学の勉強に興味を持ちます。ラテン語やギリシア語、いろいろな言葉を勉強しているマイケルは、ドイツ語で物語の一節をハンナに話してきかせます。

ハンナはマイケルに「あなたは朗読が上手だ」と言います。

ハンナはマイケルに朗読させます。最初の一冊は、ホメロスの「オデュッセイア」。それから「犬を連れた奥さん」そして「ハックルベリー・フィンの冒険」と次々に。物語に涙したり、大笑いしたり、怒ったり、無邪気にじゃれあったり。マイケルとハンナは朗読を通じてお互いの思いを深めていきます。

それから毎日のようにマイケルはハンナと共に過ごすようになります。

ある日ハンナは勤務態度を評価されて、事務職に昇進との話を上司から言い渡されます。ところがハンナは、部屋の荷物をまとめアパートを出て行ってしまいました。何も告げられずに、理由も分からず、突然、一人残されたマイケルは途方にくれます。

季節は流れて1966年、ハイデルベルグ大学法科に入学したマイケルは22歳になっています。

学校の授業で「オデュッセイア」の一節を紹介するシーン。

西洋文学の核となるのは “秘密性” だ。登場人物がどういう人間か、作者はある時は意地悪く、ある時は深い目的のために、情報を明かさない。読者は行間を読み取り登場人物をイメージせねばならない。

そして

何も怖くない、何も。苦しみが増せば、愛も増す。危険は愛を一層強め、感覚を研ぎ、人を寛容にする。私はあなたの天使、生の時より美しくこの世を去り、天国はあなたを見て言うだろう。人間を完全にするもの、それこそが “愛” だと。

ハンナはただ役割として、SS親衛隊の任務を全うしただけだった。

ある日マイケルはゼミの研究でナチス戦犯の裁判、フランクフルト・アウシュビッツ裁判を傍聴します。

そしてその被告席に、ハンナの姿を見つけます。

裁判官が被告人を読み上げます。ハンナ・シュミッツ1922年10月21日生まれ。出身はハーマンシュタット、現在の年齢は43歳。1943年にナチ親衛隊(SS)に入隊。

裁判官は、ハンナに事実の確認をし、ハンナはそれに答えます。

ゼミの講義でロール教授は「社会を動かしているのは道徳ではなく“法”だと説きます。そしてアウシュビッツで働いたというだけでは罪にならない。アウシュビッツでは8000人が働き、有罪判決を受けたものは19人、そのうち殺人罪は6人。殺人罪は意図を実証しなければならない」と言います。

法廷では、アウシュビッツ収容所の元囚人のひとりイラーナ・マーサーが書いた本が紹介されます。その本には<選別プロセス>のことが記されています。それは毎月60人の囚人が選別されてアウシュビッツに送り返されたのでした。

裁判官が「他の5人の被告人たちは、その選別に無関係だったと話す。あなたは関わったのか?」と訊ねると、ハンナは「はい」と答えます。

「その基準は?」と問われ「看守は6人なので1人が10人選びました」と続けます。

ところが他の看守5人は、全員が関与したことを否定をします。裁判官は「選ばれた囚人が、殺されることをわかっていたはずだ」と問うと、ハンナは「新しい囚人が次々に送られてきて、古い囚人を送り出さねば収容しきれません」と答えます。

<選別プロセス>では、働けなくなった囚人をアウシュビッツに送り返す。証人のマーサーが法廷の被告席にいる当時の看守たちを、ひとりひとり6名を指さしていきます。

そしてハンナだけは気に入った若い娘に食べ物とベッドを与えて、朗読をさせたと証言を加えます。

そして<死の行進>の話に移ります。44年の冬に収容所が閉鎖され移動することになり、雪の中で半数が死にます。ある日、教会で泊まることになるが、夜中に空襲があって教会が被爆。教会が燃えはじめ、皆は叫びながら外へ向かったが、外から鍵がかけられ中にいた者は、マーサー親子以外は全員、焼け死んだのでした。

裁判官は被告人全員に「なぜ、鍵を開けなかった」と訊ねます。ハンナは「簡単な答えです、私たちは看守で囚人を監視するのが仕事なのに彼らを逃がすなんて」と答えます。

「逃がしたら処罰を受けるから」と確認する裁判官に、ハンナは「秩序を守るためです、村に囚人を放ったらどうなるでしょうか?」と答えます。

「あなたは囚人を逃がすよりも殺すほうが良い」と判断したのですねと裁判官は言います。

そして他の看守5人は、鍵を開けないことの判断はハンナが一人でやったと口を揃えます。皆、少しでも心象を良くしようと罪をハンナひとりに被せようとしました。「報告書は皆で書いた」というハンナに対して、他の被告たちは「報告書はハンナひとりが書いた」と口を揃えて嘘をつきます。

ユダヤのホロコーストに隠された、ロマの人々の悲しい運命。

裁判官は、筆跡鑑定を求めます。するとハンナは、以外にも報告書は自分が書いたことを認めます。

傍聴するマイケルは思い出します。ハンナの部屋でいつも朗読をさせられたこと、サイクリング旅行のときにカフェでメニューを見なかったこと、そして車掌から事務職に昇進した時に突然姿を消したこと、すべてがこの理由からだとわかりました。

マイケルはロール教授に「被告のある事実を知っていて、それは有利な事実であり、そのことで判決が変わる。ただし問題は、被告はそれを明かされたくないことだ」と相談します。

「なぜか?と問うロール教授に、マイケルは「恥だから」と言います。

それでもロール教授はマイケルにハンナに会って確認することを薦めます。マイケルはハンナに面会に行きますが、結局は会わずに帰ってしまいます。マイケルにはハンナに真実を語ることを薦めることはできませんでした。

判決の日、被告の5人は共犯と幇助の罪で4年と3か月の懲役刑、そしてハンナには殺人罪が言い渡され無期懲役となります。

アウシュビッツ収容所の裁判をめぐり、未必の故意によってハンナは裁かれたのです。

ナチス親衛隊の5人がその命に従っただけと主張し、そして最後は罪をハンナひとりに押し付ける醜さに対して、最後にハンナが署名を拒否したのは、彼女が文盲であったためでした。

それはロマの人々もまた、ナチスの迫害を強いられているもう一つの悲劇でした。

まさに、ヨーロッパの秘密性、ロマへの民族差別でした。

文盲のハンナは、自分がロマであることの秘密を隠して生きてきました。それはナチス親衛隊としての犯罪を引き受けること以上に、認めてはならないことだったのです。

裁かれるべき法の精神を超えて、ハンナが秘密を守りたかった真実だったのです。

嘘をつくことと、秘密を持つことは本質的に違います。この物語は秘密を隠し守って生きなければならない人間や、人間がつくった歴史や差別、そこに苦しめられる人々の運命を感じさせます。

ハンナは署名を拒否し、殺人罪で終身懲役に処せられます。他の5人の被告の刑量に比べれば途方もなく大きな差にも関わらず。事実を明かすことは、何よりも「恥ずかしい」ことなのです。

マイケルはハンナの命を救えなかったが、尊厳を守り通した。

1976年、西ドイツ、ノイシュタット。

マイケルは妻との離婚を決心し、部屋で“オデュッセイア” を見つけ懐かしさにふけりながら朗読をしてみます。テープに録音してハンナに送ることを考えます。収容所でハンナはマイケルが朗読した“オデュッセイア”を聞きます。

ハンナはやがてマイケルの朗読テープから独学で文字を学びます。来る日も来る日も、マイケルは朗読をしたテープを送ります。来る日も来る日もハンナはテープを聞きます。

1980年、西ベルリン。

ある日、マイケルがアパートに戻ると手紙が届いていました。そこには「Thanks for latest kid, I really liked it」と初めてハンナが書いた文字がありました。

1988年、西ベルリン。

収容所からハンナ・シュミットがもうすぐ釈放される予定だとの連絡が入ります。収監されてもう20年以上が経っていました。

しかしハンナは、面会に来たマイケルが帰った後で、独房に戻り、テーブルの上に本を重ね、その上から首を吊り自殺します。

ハンナはナチスドイツの行ったユダヤ人へのホロコーストの事実を知ります。すでに20年の収監を迎えたころには、ハンナは自身に気を使わなくなっています。加害者であり、ロマである自分に生きる望みはもうなかったのかもしれません。

ただひとつ、ハンナにはマイケルへの感謝が残りました。

マイケルは15歳の切ない初恋の思い出を引きずり大人になっても心を閉ざし、離婚を経験します。そしてハンナの遺志でニューヨークにイラーナを訪ねます。イラーナ・マーサーはアウシュビッツの生存者として名を成しています、彼女こそは、まさにナチスの被害者です。

彼女は心を見抜きます。マイケルの人生がハンナと伴にあったことを。イラーナは「彼女はあなたの人生を変えたことを知っていたの?」と訊ねます。そしてその事実もまたどうしようもないという表情をします。

アウシュビッツの大量なユダヤ人に対するホロコーストと同時に、ロマ族もナチスだけでなくヨーロッパの歴史において迫害された民族でした。定住が難しく移動の生活を続ける流浪の民族です。

少数民族に生まれ虐げられたロマの出自。文盲となり、さらなる不幸な罪へ向かう悲しさ、その中で朗読によって救われた愛を表現した物語です。

ハンナは、その出自を静かに受け入れ、プライドを持って死んでいきました。

マイケルはハンナの残した7000マルクを識字率を上げる団体への寄付を申し出ます。イラーナはユダヤ人の識字率は高いけれども、それは良い考えだと許諾します。

1995年1月。

マイケルは娘を連れ立ってハンナが眠る墓を案内します。そこは遠い日、ハンナと一緒にサイクリングで訪れた河畔の森の教会でした。そしてマイケルは娘にハンナとの15歳の思い出を語ります。

悲運のハンナを演じるケイト・ウィンスレットの野卑な中にも気品ある高潔さは、彼女をこの年のアカデミー主演女優賞に輝かせました。