映画『沈黙-サイレンス-』|自然の中に、神を見る日本人。

神が存在するのならば、なぜ救わない。禁教令下の長崎で棄教を迫られ、拷問に耐え殉教する信徒たちの苦悩に対して、宗教とは何か、祈りとは何か、救いとは何かという信仰の根源的な主題を解説する。遠藤周作のキリスト文学をマーティン・スコセッシが映画化。

解説

偶像を崇拝すること、心の中で祈り続けること、信仰心を持ち続けること。

国家にはその歴史や成立の過程がある。日本のような神話の国もあれば、ヨーロッパのようにユダヤ、イスラム、キリストなどの一神教の国もある。世界にはアニミズム的な宗教や祭祀の形も多数ある。

カトリック教会が海を渡り、新たな大陸へ布教を行っていた時代。

目的は信仰を広げることだろうし、侵略の先兵に使われることもあるだろう。布教される国にとっては、異教により政策の妨げや人心の混乱となり、その国に根づく宗教との軋轢もあるだろう。宗教と政治は「まつりごと」として密接な関係がある。そしてその背後には必ず武力がある。

日本では信長時代のキリスト教の擁護、秀吉時代のバテレン追放令、その後の本格的な弾圧、家康時代の変遷を経て江戸期のキリスト教禁止令と鎖国政策。一方で檀家制度を整備しキリスト教をあぶり出すため、踏み絵を踏ませる。

結果、密かにキリスト教信仰を行う隠れキリシタンとなる。その後も明治・大正・昭和と国策とも関係しながら変遷をたどる。

この映画『沈黙』は、宗教とは何か、祈りとは何か、救いとは何かという信仰の根源的な問題を問う。あらすじを追いながら解説をしてみたい。

なぜフェレイラ神父は棄教し、公然と神を非難したのか。

時代は江戸初期、キリシタン弾圧下の長崎。

熱水泉が噴き出す雲仙岳の火口付近にはりつけにされた神父と修道士たちが、熱湯を顔面や体に浴びせられ悲痛な叫びをあげている。

神父は「主イエス・キリストに栄光あれ」と祈る。

役人は「お前らの信じているゼウスはどうして助けに来ないのか?」と問う。そして神と福音を捨てろと迫り、彼らはそれを拒み続ける。それは信仰の強さと “内なる神” の存在を示し、その勇気は潜伏する神父たちに希望を与える。

そしてイエズス会に7年の歳月を経て、日本から1通の手紙が送られて来る。

「1633年、キリストの平安、神を讃えよ。我々にとって、この地に平安はない。光りの国、日本を知らないし、闇の国、日本も知らない。我々の布教は、新たなる迫害と圧迫、辛苦によりついえた」と綴られていた。ヴァリヤーノ院長は、ロドリゴ神父とガルペ神父に手紙を読み聞かせます。

フェレイラ神父は棄教し信仰を棄てたうえに、日本人として暮らしている。

二人の弟子のロドリゴとガルペは、師であるフェレイラが、日本に命懸けで布教に赴いたことを知っていて、にわかには信じられません。院長の許可を得て“最後の司祭”として日本に向かいます。

1640年5月25日

二人は香港で日本への密航船に乗り込み、外国語が話せるキチジローという日本人を伴なって、長崎の五島列島のひとつトモギ村に着きます。

そこは隠れキリシタンの村で、洞窟で密かに祈っています。司祭は存在せず、村の長のイチゾウが洗礼をします。弾圧は厳しく見つかれば処刑されると村人は話します。

長崎奉行の井上筑後守は宗門改役しゅうもんあらためやくで賞金をかけキリスト信徒をあぶりだします、村人は恐怖と密告の不信のなかで生活しています。

ロドリコとガルペはパードレ(神父)として迎えられ、信仰の深さに感銘します。二人は信徒たちに深い愛を感じます。村人たちはパードレが現れたことで、毎日、告解します。人々は罪を赦す司祭が現れたことをイエスさまの使いとして崇め感謝します。

しかしフェレイラ神父の情報は得られません。二人は、キチジローの出身である五島に向かいます。

キチジローは、かつて井上筑前守の前で神を否定した。踏み絵を行い彼は助かったが、行わなかった家族は全員殺されます。キチジローは、神を否定したが今も信じています。

そこではフェレイラ神父を知っているという信徒にも会います。

信徒たちは、“信仰のしるし”を欲しがり、ロドリコは形あるものを授けますが、信仰よりも形を崇めることに不安を感じます。五島では100人以上に洗礼を授け、多くの告解を聞きます。

キリスト教弾圧に苦しむ熱心な信徒を、なぜ神は救わない。

トモギ村に戻りイチゾウが捕らわれの身になったことを聞きます。

モキチはパードレに「もし我々がイエス様の踏み絵をしろと言われたら・・・」と訊ねます。ガルペは「神に勇気を祈るのだ」と言いますが、それではモキチたち4人は殺されてしまいます。

ロドリコは「踏め、踏んでいい」と涙ながらに言います。

そして「神は我々に試練を与える、それは善きことです。私も御子のような試練を覚悟しています。でもなぜこれほど苦しませるのです?なぜ私が彼らに与える答えはあまりにも弱々しく思えるのでしょう?」と問いかけます。

4人は、イエス様の画を踏みますが、役人はさらに十字架に唾を吐けと言います。

キチジローは唾を吐きかけますが、他の3人にはできずにキリシタンと見破られます。3人は海岸で磔刑にされ海の水に飲みこまれ2人は絶命し、若いモキチは4日を耐え聖歌をうたいながら果てます。遺体はキリスト教の埋葬ができないように火で焼かれ、遺灰は海に捨てられました。

ロドリコは「神は死にゆく彼らの祈りを聞いたのなら、叫びは聞こえたか?これほど苦しむ彼らに神の沈黙をどう説明する?我々が去れば、彼らは死なずに済んだ」と深く悲しみます。

ロドリコは、我々こそが、災いをもたらす異教人ではないかと考えます。

自分は、主のために何をした、何をしている、何をする。あなたの沈黙が恐ろしい。

無に祈ってるのか、あなたはいないのか。ロドリコは、迷い苦しみます。

ロドリコはキチジローの密告で役人に取り囲まれて捕らえられます。連れていかれた場所には信徒たちがいました。洗礼名をモニカと名乗る女性に食べ物をもらい、ジュアンと名乗る男性とも出会います。

モニカは死ねば天国に行けると信じています。そこは、誰も飢えず、病気も、年貢も、苦役もないところで、モニカは死を恐れてはいません。

神の沈黙が信徒を死に追いやり、ロドリコは苦悩する。

井上筑前守はロドリコに棄教を強要します。信徒たちは殉教すれば天国に行き、神とともにあると信じており、死を恐れず信仰心を高めていることに困り果てています。

ロドリコは「自分のみを罰すること」を井上に願い出ますが、「お前が人の心を持つ誠の司祭であるならば、死にゆくキリシタンどもを憐れむべきだ」と返答し、そして「お前の栄光の代償は、彼らの苦しみだ」と言います。

ロドリコに通辞が与えられます。通辞は「過去、カブラル神父は、長年教えても何も学ばなかった。日本の言葉、食べ物、習慣を軽蔑していた。気がつかぬようだが日本には日本の宗教がある」と言う。

ロドリコは「仏陀は人間なので死ぬ、創造主ではない。そしてあまりに無知」と言います。通辞は「神父、そう考えるのはキリスト教徒だけ、仏は人が到達できる存在だ。煩悩を捨て去り悟りを得て到達する」それなのに「あなた方は迷妄に縛られ、それを“信仰”と呼ぶ」と言います。

そして「転ぶ(降伏する)」ことを薦めます。「あなたが棄教しないとキリシタンが殺される」と言う。

さらに「フェレイラ神父は、日本名を持ち、日本の妻を持っている」と言います。

ロドリコには、あれほど強い信仰心のフェレイラがそんな筈は無いと信じられません。

ロドリコは投獄されます。死を予感しながらもイエスのように静かな気持ちで過ごします。まるで自身がイエスに近づいていくような気持になります。奉行の役人は、「キリスト教はイスパニアやポルトガルでは素晴らしいものであろうが、今の日本では無益で無価値で危険な教えである」と言います。

ロドリコは「真理は不変である、日本でもキリスト教は30万人まで増えた。それを遮ったのは貴方たちだ、自分の意志は変わらず、もっと困難な試練を」と言います。

次の日、井上筑前守はロドリコを茶でもてなします。そして喩え話として、ある殿様と4人の側室の話をします。4人の側室の争いが絶えないので殿様は、平穏のために4人とも追い出してしまったという話でした。

異国であるイスパニア、ポルトガル、オランダ、イギリスが日本を狙っており、日本はそれを排除しなければならないと説きます。ロドリコは国ではなくキリスト教の考え方を国に入れることを説きます。

井上筑前守は「異国のキリスト教は日本の風土には浸透せず、日本の宗教になることは無い」と言う。

翌日、ロドリコは海岸へ連れていかれます。そこに踏み絵を拒絶した4人の切支丹とガルペの姿もありました。4人は簀巻きにして海に放り投げられます。ガルペは、信徒を助けようとしますが、結局、役人に溺れさせられます。

一部始終を見せられるロドリコは嗚咽し絶望します。月夜にロドリコは、ジュアンやガルペの死を思い、神に問いかけますが、神は答えません。

ロドリコはフェレイラと再会し、棄教の理由と日本人の宗教観を聞く。

数日後、仏寺に連れていかれます。“南無阿弥陀仏”を唱える浄土真宗の寺でした。そこでフェレイラ神父に再会します。

棄教したフェレイラは “沢野忠庵” という日本名で仏教を学んでいます。さらに井上の命で医学と天文学を学び日本に紹介しています。そして自らキリスト教を批判する「顕偽録けんぎろく」を記していました。“欺瞞の開示あるいは暴露”という内容の書でした。

フェレイラはロドリコを棄教させるために呼ばれました。彼は穴吊りの刑で逆さずりにさせられ、少しずつ死んでいく恐怖を味わいました。そして信徒たちを救うために踏み絵を迫られ行いました。

フェレイラは「私は15年間、この国で布教をしてきたがこの国には根付かない、この国は沼地だからだ。日本人は、自然の中にしか神を見いだせない。人間を超えるものはないのだ。キリスト教の神の概念を持てない」と言います。

ロドリコは恩師であったフェレイラを “裏切り” とし「悪魔よ去れ」と困惑します。

ロドリコはイエスの声を聞き、踏み絵をふみキリシタンを救う。

奉行は司教が棄教することが目的です、そのことで多くの信徒が棄教をすると考えます。フェレイラは「本当に愛するなら司祭が棄教をする必要がある。沈黙する神の代わりに救える命がある、本当の愛を見せるのだ」とロドリコに迫ります。

ロドリコの前に銅板のイエスの踏み絵が置かれます。その時、ロドリコは苦悶の中で、イエスの声を聞きます

ロドリコは、ついにキリストの顔を踏み、その場にひれ伏し泪します。

棄教したロドリコはフェレイラとともに、長崎の出島貿易で禁制品を仕分ける仕事をします。十字架の模様が入った焼き物やマリアの像や絵などです、袋に十字架を隠し持った商人が連行されていきます。

ロドリコはやがて岡田三衛門と言う名前を井上筑後守に仰せつかります。そして妻子とともに残りの人生を江戸の切支丹屋敷で過ごします。背教司祭として転び証文を幾度も書かせられ、切支丹の根絶やしに尽力させられます。

「主よ、私はあなたの沈黙とともに戦いました」ロドリコは静かに思います。

1682年、ロドリコは亡くなります。彼の40余年の日本での長い旅で、人々は岡田三衛門についてこう言います。“最後の司祭” は、二度と神を認めなかった。

神の名を口にせず、祈りも唱えなかった。ロドリコの信仰は消え去っていました。

遺体は棺桶に入れられ、妻は涙も見せずに守り刀をロドリコの懐に持たせます、仏教の習わしで火葬され戒名も与えられました。彼は背教者として葬られましたが、彼の手にはモキチから譲られた小さな十字架が握られていました。

神の沈黙を、原作を通してこの映画はどのように答えたのか。

守るべきは、おのれの大いなる信念か、目の前の虐げられて奪われようとするキリシタンたちの命なのか。宗教のもつ力とはいったい何なのか、ロドリコは苦悩します。

自身の信仰心の中で最も尊く、美しく、聖なるものを踏む。人間が神へ誓う理想や夢を自ら踏みにじる。ところが踏み絵のなかのイエスは、ロドリコにこう言います。

踏むがいい、お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるために、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。

もし救いの方法として権力なり武力を行使することで解決したとなれば、それは一見、解決されたかに見えても、次にまた武力の争いの連鎖を起こす。古くはローマ帝国の歴史でも、近現代の異宗教間あるいは宗派間の争いでも、終わりのないことを私たちは知っています。

神はなぜ救わないのか、神の救いとは何なのか。権力や暴力を用いなければ、阻止する力は無いのか。

しかし、その痛みを分かち合うことが宗教の祈りであると信じる。そしてその信仰心は内なる心にこそ宿り生き続ける。

ロドリコは内なる宗教心を持ち続けながら、日本人としての生涯を終えます。