映画『沈黙-サイレンス-』あらすじと解説/ここが見どころ!

概要>神が存在するのならば、なぜ救わない。禁教令下の長崎で棄教を迫られ拷問に耐え殉教する信徒の苦悩に対して、宗教とは何か、祈りとは何か、救いとは何かという信仰の根源的な問題をテーマとする。遠藤周作の原作をマーティン・スコセッシが映画化。

  1. 登場人物
  2. あらすじ(ネタバレあり)
    1. キリスト教は弾圧され、信仰する人々は迫害にあい死んでいきます。
    2. ロドリコとガルペは恩師フェレイラの消息を尋ね、日本に向かいます。
    3. 二人は、香港で密航しマカオで棄教したキチジローを紹介されます。
    4. パードレとして迎えられた二人は、村人の信仰の深さに感銘します。
    5. 五島では100人に洗礼を授けますが、信徒への激しい弾圧を知ります。
    6. キリシタンは棄教を迫られ、拒否をして磔刑に処せられ死んでいきます。
    7. ロドリコは五島に赴き、キチジローの裏切りで奉行に捕らえられます。
    8. ロドリコは、キリストの沈黙が信徒を死に追いやることに苦悩します。
    9. ロドリコに棄教を促し、信仰を放棄すれば信徒が救われると説きます。
    10. 井上筑前守は、キリスト教は日本の風土に浸透しないことを説得します。
    11. ロドリコはフェレイラと会い、棄教の理由と日本人の宗教観を聞きます。
    12. ロドリコはイエスの声を聞き、踏み絵をふみキリシタンを救います。
    13. ロドリコは、内なる宗教心を持ち続けて日本人としての生涯を終えます。
  3. 解説/ここが見どころ!
      1. ●偶像を崇拝すること、心の中で祈り続けること、信仰心を持ち続けること。
      2. ●神がいるのならば、神はなぜ救いを求めるキリシタンに沈黙するのか。

登場人物

セバスチャン・ロドリコ神父(アンドリュー・ガーフィールド)
イエズス会の最後の宣教師としてフェレイラの棄教の真相を確かめに日本に派遣される。
フランシス・ガルペ神父(アダム・ドライヴァー)
ロドリコと伴にフェレイラ神父の消息と尋ねる、棄教を迫られ信徒とともに殉教する。
キチジロー(窪塚洋介)
棄教してもなお信仰心を持ち告解を重ね、人間の弱さやみじめさ、卑しさを持っている。
井上筑後守(イッセー尾形)
長崎奉行の禁教政策の中心人物、元はキリシタンだが今は厳しい弾圧政策を指揮している。
通辞(浅野忠信)
ロドリコに棄教を迫る通訳、仏教とキリスト教の比較と日本人の価値観を説得する。
イチゾウ(笈田ヨシ)
トモギ村のキリシタンで洗礼の儀式ができる指導者的な立場で、棄教せずに磔刑で死ぬ。
モキチ(塚本晋也)
トモギ村の信仰心の強いキリシタンで、イチゾウとともに棄教せずに磔刑で死ぬ。
モニカ(小松菜奈)
洗礼によりモニカとなり、死ねば天国に行けると考え、死ぬことを恐れていない。
ジュリアン(加瀬亮)
洗礼によりジュアンとなり、踏み絵を拒み首を跳ねられて死んでしまう。
クリストヴァン・フェレイラ神父(リーアム・ニーソン)
イエズス会の神学者であり赴いた日本で、棄教を強制され日本名を名乗り仏教を学ぶ。
ヴァリニャーノ院長(キーラン・ハインズ)
イエズス会の司祭としてマカオに赴任。ロドリコとガルペの日本行きを許可する。

あらすじ(ネタバレあり)

キリスト教は弾圧され、信仰する人々は迫害にあい死んでいきます。

江戸初期、キリシタン弾圧下の長崎。

辺り一面に熱水泉が噴き出す雲仙岳の火口付近で、磔にされた神父と修道士たちが、熱湯を顔面や体に浴びせられ悲痛な叫びをあげています。

神父は「主イエス・キリストに栄光あれ」と祈ります。

役人は「お前らの信じているゼウスはどうして助けに来ないのか」と問います。

長崎奉行の役人は、修道士4人とイエズス会の神父1人に向かって神と福音を捨てろと迫り、彼らはそれを拒み続けます。それは、信仰の強さと“内なる神”の存在を示すためでした。彼らの勇気は、潜伏する神父たちに希望を与えます。

イエズス会に7年の歳月を経て、日本から1通の手紙が送られ次のように記されていました。

「1633年、キリストの平安、神を讃えよ。我々にとって、この地に平安はない。光りの国、日本を知らないし、闇の国、日本も知らない。我々の布教は、新たなる迫害と圧迫、辛苦により潰(つい)えた。」

ロドリコとガルペは恩師フェレイラの消息を尋ね、日本に向かいます。

ヴァリヤーノ院長は、ロドリゴ神父とガルペ神父に手紙を読み聞かせます。

そして信じられないことを伝えます。それは、フェレイラ神父が棄教したというのです。公然と神を非難し、信仰を棄てたうえに日本人として暮らしていると言います。

ポルトガルから来たフェレイラの弟子のロドリゴ神父とガルペ神父は、師であるフェレイラ神父が、強い意志の持ち主であり、日本に命懸けで布教に赴いたことを知っていて、俄かには信じられません。

ヴァリニャーノ院長は、「我々の布教が原因で数千人が殺され、多くが信仰を棄てた」と言います。

信じられず、またその消息が気にかかるロドリコとガルペの二人は、院長の許可を得て、危険を承知のうえでイエズス会が日本へ渡る最後の宣教師として旅立ちます。

二人は、香港で密航しマカオで棄教したキチジローを紹介されます。

1640年5月25日

ロドリコとガルペの二人は、香港で、日本への密航船に乗り込むことができ、マカオで英語ができる日本人を紹介されます。日本人の名前は、キチジロー。長崎で漁師をしていたという酒浸りで信用ならない男でした。中国の案内人は、キチジローをキリシタンと呼びますが、キチジローは、自分はキリシタンではないといい、キリシタンは殺されるといいます。

キチジローは、かってはキリスト教徒だったのですが、今は違うようでした。彼は、キリストを嫌い、長崎で人が死んでいることを憂いていました。キチジローは金のためではなく、日本に家族がいるので帰りたいのだと言います。

ロドリコとガルペの二人は、うさんくさいキチジローですが、外国語を話せ案内役がでるので、伴にすることにしました。

ロドリコとガルペの二人とキチジローは夜、長崎の五島列島の一つトモギ村に着きます。陸に上がるとすぐにキチジローは姿を消してしまいます。二人が洞窟に隠れていると、信者たちが現れます、彼らは隠れて密かに祈り暮らしています。司祭は存在せず、村の長のイチゾウが洗礼をしています。弾圧はさらに厳しく、見つかれば処刑されると村人は話します。

パードレとして迎えられた二人は、村人の信仰の深さに感銘します。

長崎奉行の井上筑後守は、キリシタンの弾圧に信徒の密告で銀100枚、修道士で200枚、司祭で300枚と賞金をかけており、村々の人々は恐怖とお互いが密告者かもしれないとの不信のなか生活しています。

信徒たちはロドリコとガルペの二人をパードレ(神父)として迎えます。

二人は、トモギ村の信徒たちに深い愛を感じます。昼は炭焼き小屋で姿を忍ばせ、真夜中、ミサをあげます。村人たちはパードレが現れたことで、毎日、告解をはじめます。人々は罪を赦す司祭が現れたことをイエスさまの使いとして崇め感謝します。

貧しい村人たちの信仰は熱烈ですが、厳しい迫害のために他の地域のキリシタンとの交流はなくフェレイラ神父の情報は得られませんでした。

ある日、パードレを訪ねて、二人の信徒がやってきます。自分たちの住む五島にも来てほしい、信仰が揺らいでいてミサも告解もないと言います。

二人の信徒はキチジローに教えられて小屋を訪ねてきたと言います、不審がるロドリコとガルペに対して、キチジローは五島の出身で信徒だと言います。

二人の信徒はキチジローについて説明をします。

「キチジローは、かつて井上筑前守の前で神を否定した。踏み絵を行い彼は助かったが、行わなかった家族は全員殺された。キチジローは、神を否定したが今も信じている。」と言うのです。

五島では100人に洗礼を授けますが、信徒への激しい弾圧を知ります。

トモギの村人はパードレ二人が五島に行くことを拒み、どちらか一人は残ってほしいと願います。同じ信徒の苦しみに向かうためにロドリコが五島に向かうことになります。

ロドリコは、五島の信徒に迎えられます、そこにはキチジローの姿もありました。また新たな気持ちでミサを行います。五島だけでなく山を越えよその村からも信徒がやってきます。そして五島ではフェレイラ神父を知っているという信徒にも会います。

信徒たちは、“信仰の微(しるし)”を欲しがるので、ロドリコはできるだけ形あるものを授けますが、信仰よりも形あるものを崇めることに不安を感じています。ロドリコは、五島では100人以上に洗礼を授け多くの告解を聞きます。

ロドリコは、ロザリオを受け取らなかったキチジローに質問をすると、やはりキチジローは、かって井上筑前守が、家族全員の棄教を迫った時にイエスの聖画を足で踏めと言われ、家族は踏まなかったが、キチジローは踏んだ。そして、家族が殺されるのをただ見届けた。以来、キチジローの脳裏には、燃える炎と肉の焼ける臭いが甦ります。

キチジローはロドリコに告解して信仰への再開を誓います。

キリシタンは棄教を迫られ、拒否をして磔刑に処せられ死んでいきます。

トモギ村に戻ったロドリコは、イチゾウが捕らわれの身になったことを聞きます。

役人は、賞金を遣わすゆえキリシタンをつきだすように命じますが、モキチは自分たちは仏教徒で念仏以外は唱えたことがないと言います。井上筑後守は3日の猶予を与え、それまでにイチゾウとモキチを含む4人を長崎奉行に引っ立てると言って去ります。

ロドリコとガルペは、自分たちがいると村が危険なので出て行くと言います。村人は、パードレをイエスの教えを伝える人として匿おうとする人たちと、出て行って貰おうとする人たちで考えが分かれてしまいます。

イチゾウは、パードレを匿うことを決め、自分とモキチとあと2名、ゼウスさまに奉ずるものはいないかと村人に確かめます。しかし、村人は死を恐れるなか一人は名乗り出ますが、もう一人は言い争いの中、よそ者のキチジローが良いということになります。

モキチは、パードレに「もし、我々がイエス様の踏み絵をしろと言われたら・・・」と訊ねます。ガルペは「神に勇気を祈るのだ」と言いますが、それでは村人たちは危険にさらされ、モキチたちも殺されてしまいます。ロドリコは「踏め、踏んでいい」と涙ながらに言います。

ロドリコは、「神は我々に試練を与える、それは善きことです。私も御子のような試練を覚悟しています。でもなぜこれほど苦しませるのです?」そして「なぜ私が彼らに与える答えは、あまりにも弱々しく思えるのでしょう?」と問いかけます。

4人は、イエス様の画を踏みますが、役人はさらに十字架に唾を吐けと言います。キチジローは唾を吐きかけますが、他の3人にはできずにキリシタンと見破られます。3人は海岸で磔刑にされ潮の満潮とともに海の水に飲みこまれ2人は絶命し、若いモキチは4日を耐え聖歌をうたいながら遂に果てます。遺体はキリスト教の埋葬ができないように火で焼かれ、遺灰は海に捨てられました。

ロドリコは「神は死にゆく彼らの祈りを聞いたのなら、叫びは聞こえたか?これほど苦しむ彼らに神の沈黙をどう説明する?我々が去れば、彼らは死なずに済んだ」と深い悲しみと疑問の中にありました。

ロドリコは五島に赴き、キチジローの裏切りで奉行に捕らえられます。

役人たちが山狩りをするといいます。二人は安全のため別々に行動することになります。カルベは平戸に、ロドリコは五島に船で向かいます。二人は、生き続けることを誓いあい別れます。

ロドリコは、我々こそが、災いをもたらす異教人ではないかと考えます。

そしてロドリコは五島で猫ばかり住みつき無人となってしまった廃村に辿り着きます。ザビエルが初めて日本を訪れて、その布教の可能性を報告した輝かしい過去はどこへいったのだろうか?自分は、主のために何をした、何をしている、何をする。あなたの沈黙が恐ろしい。無に祈ってるのか、あなたはいないのか。ロドリコは、迷い苦しみます。

さまよい歩きながらキチジローに再会します。キチジローは、イチゾウとモキチに対して自身が軽々と踏み絵をしたことを告解し、喉が渇くというロドリコを湧き水のもとに連れていきます。ロドリコは、疲労困憊し水面に映る自分がイエスと重なってしまい幻覚をみます。そのとき、キチジローの密告で、ロドリコは役人に取り囲まれて捕らえられてしまいます。

ロドリコが、連れていかれた場所には信徒たちがいました。洗礼名をモニカと名乗る女性に食べ物をもらい、洗礼名をジュアンと名乗る男性とも出会います。死への恐怖を感じるロドリコですが、モニカは死ねば天国に行けると信じています。そこは、誰も飢えず、病気も、年貢も、苦役もないところ。モニカは死を恐れてはいません。

ロドリコは、キリストの沈黙が信徒を死に追いやることに苦悩します。

長崎奉行の井上筑前守は、指導者のロドリコに棄教をすることを強要します。井上は、信徒たちは殉教すれば天国に行き、神とともにあると信じており、死を恐れずさらなる信仰心を高めていることに困り果てています。

ロドリコは、「自分のみを罰すること」を井上に願い出ますが、井上は「お前が人の心を持つ誠の司祭であるならば、死にゆくキリシタンどもを憐れむべきだ」と返答し、そして「お前の栄光の代償は、彼らの苦しみだ」と言います。

そして公平な裁定のために、ロドリコに通辞が与えられます。通辞は、ロドリコに「過去、カブラル神父は、長年教えても何も学ばなかった。日本の言葉、食べ物、習慣を軽蔑していた。気がつかぬようだが、日本には日本の宗教がある」と言います。

ロドリコは「仏陀は人間なので死ぬ、創造主ではない、そしてあまりに無知だ。」と言います。通辞は「神父、そう考えるのはキリスト教徒だけ、仏は人が到達できる存在だ。煩悩を捨て去り、そして悟りを得て到達する」それなのに「あなた方は迷妄に縛られ、それを“信仰”と呼ぶ」と言います。

ロドリコに棄教を促し、信仰を放棄すれば信徒が救われると説きます。

そして通辞は、ロドリコに「転ぶ(降伏する)」ことを薦めます。信仰を放棄し棄教を促します。あなたが棄教しないとキリシタンが殺されるといいます。幾日も苦しみ、そして耐えられず死んでいくといいます。ポルロ神父とカッソラ神父も吊るされたのだといいます。

そして通辞は「フェレイラ神父は、日本名を持ち、日本の妻を持っている」と言います。

ロドリコには、あれほど強い信仰心のフェレイラがそんな筈は無いと信じられません。

ロドリコは奉行所に連れられ投獄されます。キリシタンとともにロドリコは死を予感しながらも、イエスのように静かな気持ちで過ごします。まるで自身がイエスに近づいていくような気持になります。

奉行の役人は、「キリスト教はイスパニアやポルトガルでは素晴らしいものであろうが、今の日本では無益で無価値で危険な教えである。」と言います。

ロドリコは「真理は不変である、日本でもキリスト教は30万人まで増えた。それを遮ったのは貴方たちだ。」と言い、「自分の意志は変わらず、もっと困難な試練を。」と言います。ロドリコの前に、キチジローが現れ、密告したことの告解を求めます。ロドリコは、憐れなキチジローに赦しを与えます。

奉行の役人は、キリシタン5人に踏み絵を命じます。「そっとでよい軽く踏むだけだ、それだけで自由の身になれる」と棄教を迫ります。しかし、全員が、踏み絵を拒絶します、すると、ひとりジュアンを残し4人は牢へ入れられます。その瞬間、ジュアンは一刀に首をはねられます。信徒の悲鳴と嗚咽の中で、ロドリコは悲しみます。

そして「手本を見せよ」とキチジローが呼ばれ、踏み絵を命じられ、これに応えます。

井上筑前守は、キリスト教は日本の風土に浸透しないことを説得します。

次の日、ロドリコは僧侶の着る十徳を着せられ、井上筑前守は、ロドリコを茶でもてなします。そして喩え話として、ある殿様と4人の側室の話をします。4人の側室の争いが絶えないので殿様は、平穏のために4人とも追い出してしまったという話でした。

異国であるイスパニア、ポルトガル、オランダ、イギリスが日本を狙っており、日本はそれを排除しなければならないと説きます。ロドリコは国ではなくキリスト教の考え方を国に入れることを説きます。

井上筑前守は異国のキリスト教が日本の宗教になることは無いと言います。

翌日、ロドリコは海岸へ連れていかれます。海岸線の向こうから踏み絵を拒絶した4人のキリシタンが連れられます。そしてガルペの姿もありました。役人は、キリシタンの4人はその後、踏み絵をしたにもかかわらず簀巻きにして小舟に乗せ海に放り投げようとします。さらに役人はガルペに、すでにロドリコは棄教したと偽りの報告をしてあります。

ガルペは、最後の宣教師として自分を身代わりに4人を守るため沖に泳ぎだし信徒を助けようとしますが、結局、役人に溺れさせられ死んでしまいます。

一部始終を見せられるロドリコは嗚咽し絶望します。

月夜にロドリコは、ジュアンやガルペの死を思い神に問いかけますが、神は答えません。

ロドリコはフェレイラと会い、棄教の理由と日本人の宗教観を聞きます。

数日後、ロドリコは仏寺に連れていかれます。そこは“南無阿弥陀仏”を唱える浄土宗の寺でした。そこでロドリコは、フェレイラ神父に再会します。

棄教したフェレイラは、“沢野忠庵”という日本名になり仏教を学んでいます。さらに井上の命で医学と天文学を学び日本に紹介しています。そして自らキリスト教を批判する「顕偽録(けんぎろく)」を記していました。“欺瞞の開示あるいは暴露”という内容の書でした。

フェレイラは、ロドリコを棄教させるため呼ばれました。フェレイラは、穴吊りの刑で逆さにさせられ、少しづつ死んでいく恐怖を味わいました。そして信徒たちを救うために踏み絵を迫られ、行いました。

フェレイラは「私は15年間、この国で布教をしたがこの国には根付かない、この国は沼地だからだ。」そして「日本人は、自然の中にしか神を見いだせない、人間を超えるものはないのだ。キリスト教の神の概念を持てない。」と言います。

ロドリコは、恩師であったフェレイラを“裏切り”とし「悪魔よ去れ」と困惑します。

その夜ロドリコは、5人の信徒が穴吊りの刑に処され苦痛に喘ぐ声を聞きます。フェレイラは、「自分の苦しみをキリストになぞらえることはできても、信徒たちはただ苦しむだけだ。そんなことをさせる権利があるのか?」と、そして「私も神に祈ったが役には立たなかった」とロドリコを説得します。

ロドリコはイエスの声を聞き、踏み絵をふみキリシタンを救います。

奉行は、信徒ではなく司教が棄教することが目的です、そのことで多くの信徒がほんとうに棄教をすると考えています。フェレイラは、「信徒が棄教しても命は救われない、本当に愛するなら司祭が棄教をする必要がある。沈黙する神の代わりに救える命がある、本当の愛を見せるのだ」とロドリコに迫ります。

ロドリコの前に銅板のイエスの踏み絵が置かれます。

その時、ロドリコは苦悶の中で「それでよい、踏みなさい、お前の痛みを知っている」そして「私は人々の痛みを分かつためこの世に生まれ十字架を背負ったのだ、お前の命は私とともにある」というイエスの声を聞きます。

ロドリコは、ついにキリストの顔を踏み、その場にひれ伏し泪します。

棄教をしたロドリコはフェレイラとともに、長崎の出島貿易でオランダからの輸入品の中にキリスト教に関する禁制のものを仕分ける仕事をします。十字架の模様が入った焼き物やマリアをかたどった像や絵などです。袋に十字架を隠し持った商人が連行されていきます。

ロドリコは、やがて岡田三衛門と言う日本人が死んだ後に、彼の名前を名乗るようにと井上筑後守に仰せつかります。そして、岡田三衛門としてその妻子とともに残りの人生を江戸の切支丹屋敷で過ごします。背教司祭として転び証文を幾度も書かせられ切支丹の根絶やしに尽力させられます。

ロドリコは、内なる宗教心を持ち続けて日本人としての生涯を終えます。

「主よ、私はあなたの沈黙とともに戦いました。」ロドリコは静かに思います。

ロドリコの召使となったキチジローは、度重なる棄教にもかかわらず切支丹としての信仰を棄てきれず、棄教したロドリコに告解を頼んできます。ロドリコは棄教司祭ゆえにただ告解を聞くのではなく受け入れるだけです。

定期的に、この後も、棄教した者にも踏み絵は続けられました。ある時、キチジローは踏み絵のあと、懐にイエスの札を持っていいた咎で連れ去られます。それからロドリコに対しての監視はさらに厳しくなりました。

1682年、ロドリコは亡くなります。彼の40余年の日本での長い旅のなかで、人々は岡田三衛門についてこう言います。“最後の司祭”は、二度と神を認めなかった。言葉でも徴でも、神の名を口にせず、祈りも唱えなかった。死に際しても。ロドリコの信仰はとうの昔に消え去っていました。

遺体は棺桶に入れられ妻は涙も見せずに守り刀をロドリコの懐に持たせます、仏教の習わしで火葬され、戒名も与えられました。彼は背教者として葬られましたが、彼の手にはモキチから譲られた小さな十字架が握られていました。

解説/ここが見どころ!

●偶像を崇拝すること、心の中で祈り続けること、信仰心を持ち続けること。

国家や民族には、その歴史や成立の過程がある。国であれば、日本のような神話の国もあればヨーロッパであれば、ユダヤ、イスラム、キリストなどの一神教の宗教がある。

世界には土俗的、アニミズム的な宗教も祭祀のかたちも多数ある。

この映画「沈黙」は、カトリック教会が海を渡り新たな大陸へ布教を行っていた時代。

その布教には、名実ともに神への祈りとしての布教もあるだろうし、布教する側の宗教や国家の、政治や覇権の先兵に使われることもあっただろう。布教される側の国にとっても異教徒による治政の妨げや人心の混乱にもなる場合も多く、すでにその国や地方に根づいていた宗教との軋轢もあるだろう。宗教と政治は「まつりごと」として密接な関係がある。そしてその背後に経済や武力がある場合も多い。

さらにキリスト教でもカトリックとプロテスタントや他の宗派の違いによる勢力の争いという宗派間、ありはイスラムなどの宗教間など、神への祈りの名のもとに、醜い争いとなる場合もある。

日本では信長時代のキリスト教の擁護、秀吉時代のバテレン追放令から、その後の本格的な弾圧、家康時代の変遷を経て江戸期のキリスト教禁止令と鎖国政策。一方で檀家制度を整備しキリスト教をあぶり出すため、踏み絵を踏ませる。

結果、一部の信者たちは密かにキリスト教信仰を伝えていくことになり隠れキリシタンとなる。その後も明治・大正・昭和と国策とも関係しながら変遷をたどる。

●神がいるのならば、神はなぜ救いを求めるキリシタンに沈黙するのか。

守るべきは、おのれの大いなる信念か、眼前の虐げられ奪われようとするキリシタンたちの命なのか。
宗教のもつ救いとはいったい何なのか、ロドリコは苦悩する。

長崎奉行の井上筑後守はただ転ぶ(棄教)ことをすすめる。悩み、苦悶しながら、自身の転びと引き換えにたくさんの命が救われることを選択するロドリコはついにキリストの画を踏む。

自身の信仰心の中で最も尊く、美しく、聖なるものを踏む。人間が神へ誓う理想や夢を自ら踏みにじる。

ところが踏み絵のなかのイエスはロドリコに言う。

踏むがいい、お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに
踏まれるために、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。

もし、救いの方法として権力なり武力を備えることで解決するとすれば、一見、解決されたかに見えてもそれはまた武力の争いの連鎖を起こす。古くはローマ帝国の歴史でも近現代の異宗教あるいは、宗派間の争いが、終わりのないことを私たちは日常のニュースで知っている。

神はなぜ救わないのか、神の救いとは何なのか。権力や暴力を用いないのであれば、阻止する力は無い。しかし、その痛みを分かち合うということが宗教の祈りであると信じる。そしてその信仰心は内なる心にこそ宿り生き続ける。信仰と救い、大きな永遠のテーマである。

マーティン・スコセッシ監督
映画『沈黙』2016年公開のアメリカ映画
2017年 第89回アカデミー賞 撮影賞ノミネート
スコセッシが遠藤周作の小説「沈黙」を原作としキリストの救いをテーマにした名作。

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