エンデ『モモ』解説|時間とは何か?それは生命である

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時間どろぼうと、ぬすまれた時間を人間にとりかえしてくれた女の子の不思議な物語-そうはじめに記されている。時間とは何かを問う。それは貨幣の代替(だいたい)ではなく、命そのものであるとする。形而上的な<時間>の概念を説いており、近代以降の物質主義や科学万能主義に対する文明批判でもあり、心の精神世界の素晴らしさを訴える。その先には、生きるとは何か? 死ぬとは何か?という命題となる。時間を質として感じることができるのは人間だけである。その意味において、人間は永遠を生きている。もう手遅れだと考えるのか、いや取り戻そうと考えるのか。その選択はあなたに委ねられている。あなたの時間は、ほんとうに輝いていますか?

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解説

ローマの古代遺跡を思わせる廃墟となった円形劇場が、大都会のはずれに在ります。それは現在にあって過去に繋がる時空の象徴です。

都会で忙しく働き、成功した人々とは異なり、この辺りの人々は、お金はあまりなく、仕事もそこそこですが、楽しく語らったり、笑いあったり、ささやかな喧嘩をしたり、生きる活力に漲っています。

この円形劇場に、身なりの薄汚れた子供が棲みついています。

彼女の名前はモモ。どこから来たのか、名前はほんとうなのか、なぜここにいるのかは分かりません。

この設定は、いったい何を意味するのでしょう。モモは、人間の魂の象徴であり、古代から現代に続く<あなた自身>であり、<あなたの心>は宇宙のひとつで、満天の星と悠久の時間に繋がっていることを暗示します。

親切な人々は、モモに食べ物をあげたり、ねぐらを整えたりとしてくれる。やがて、なぜかモモの周りにはいろんな人が集まっていろいろな話をするようになります。

何か特別の能力があるかといえば、そんなものは何もありません。ただ・・・・

モモは、透き通った大きな瞳で、耳を澄まして、相手の話をじっと聞くのです。

すると、迷っていた人は意志がはっきりし、引っ込み思案の人は勇気が出て、悩みがある人は希望が湧いてきます。モモは、相手の話をじっと聞くことで、その人に<ほんとうの心>を気づかせるという不思議なチカラを持っています。

まるで円形劇場は、宇宙の声や音楽を聴くための耳のようであり、その中核に不思議なモモがいる。モモの聞く力(傾聴)は、自然や人々の心の震えを感じることができるのです。

さぁあなたも、内なるモモを呼び起こし、この物語に参加してください!という導入部になっています。

時間=お金という近代文明

モモの正反対の存在が「灰色の男たち」です。身に纏(まと)う全てが灰色。いつも葉巻を吸っています。この灰色は“死”をイメージさせます。

彼らは人間ではありません。きっとモモと敵対する近代社会の象徴です。

都市からやって来たのか、未来から来たのか不明ですが、この町を侵食していきます。

男たちは時間貯蓄銀行を運営しているようです。「時は金なり!」―人々に時間の節約をすすめます。無駄な時間を、預けて蓄える。利子もつけて返すので、後でたっぷりと時間が使えると囁きます。

だから “もっと効率的” に、“もっと生産的” に、“感情” を棄て、“無駄” を省き、パフォーマンスを上げるように説得していきます。

例えば、それは単調な日々の繰り返しに、ふと虚無に陥った理髪店のフージー氏の心に忍び寄ります。

彼は42歳、自分の半生を振り返っていました。ハサミとおしゃべりと石鹸の泡に縛られた人生は、何だったのか、もっと時間があれば・・・と自問自答していました。

そこに、灰色の紳士が現れます。男は時間貯蓄銀行からやってきた外交員(XYQ/384/bという認識番号)です。

時間の節約をフージー氏に説明し、時間を秒に換算して示します。

フージー氏がこれまでに消費した仕事時間、睡眠時間、食事時間、耳の遠い母親の世話、恋人との語らい、趣味のひととき、小鳥の飼育などの時間を見直させ、いかに浪費が多いかを証明し、効率を追求し、余った時間を貯蓄させます。

こうしてフージー氏は客と会話する時間を削り、母親は養老院に入れ、恋人とも疎遠になり、小鳥は捨てて、目まぐるしく働き、お金を貯めていきました。

灰色の男は、フージー氏に「これであなたは、現代的、進歩的な人間の仲間になれました」と褒めたたえます。

しかしどうしたことでしょう。フージー氏は怒りっぽく、落ち着きがなくなり、仕事への誇りは完全に失せてしまい不機嫌になっていきます。

この灰色の男たちが病原菌のように伝染することで、安酒で気のおけない仲間たちが集っていたニノの店はファストフードに変貌し、大忙しで心を失う。丁寧な仕事に誇りを持っていた佐官屋のニコラは、卑劣なインチキ工事を金のために甘んじて受け、倫理観を失いました。

時間を金として考え、その最大化を目論むと、短い時間で儲けるという発想になる。このことが、大切な人間性を失うことに警鐘を鳴らしています。

人々に心の潤いをもたらすモモは、灰色の男たちにとっては都合の悪い存在です。そこで、何とかしてモモを取り込もうとします。 

灰色の男のひとり(XYQ/384/b)は、モモにBB人形という高価なおもちゃを与えます。

豪華な着せ替え人形で、次々とモノを繰り出します。たくさんのモノが、これでもか、これでもか、というように登場します。これは現代人と、モノ(物質文明)の生活を表しています。

灰色の男は自慢気に言います。

「人生で大事なことはひとつしかない」それは「成功し、偉くなり、金持ちになること」そうなれば、友情も愛も名誉もついてくる。

限りない欲望に答える消費文明の象徴です。しかしモモには退屈なだけのようです。

モノ・モノ・モノ・・・、溢れるモノに蹲るモモは、何も感じることができずに、心が 楽しくありません。

そしてモモの聞く力は、逆に、灰色の男から内心の声を吐き出させてしまいます、灰色の男は、なぜか耐えきれず、自分たちの企みを告白してしまうのです。

彼らはこっそりと人間に忍びより、潤いのある時間(=生命)を奪っていきます。その奪った時間を消費することで生きながらえており、決して素性を知られてはいけない存在です。灰色の男たちは人間に寄生して病原菌のように広がっていくのです。

この「灰色の男たち」や「時間貯蓄銀行」は、何を意味しているのか?

エンデは芸術だけでなく、政治や経済についても自身の思想を持つ人でした。現代の強欲な資本主義のシステムのあり方、特に金が金を産むというメカニズムを否定します。

結果として、トップ1%の人々の富が、残り99%の富の総計を上回るような社会は本当に正しいのか。

加速する株主優先の会社組織、効率主義の先にある人間性の喪失、投機を中心に歯止めの利かないマネー経済。心の潤いを失くし、死んだ時間で生きている人々。

この作品は、危機を警鐘する近代文明批評でもあるのです。

モモは仲良しのジジやベッポと相談し、ジジの発案で「時間泥棒に時間を盗まれないように気をつけよう!」と町の子どもたちによるデモ行進を行います。シュピレヒコールを叫び、歌をうたい、大人に呼びかけました。

でも大人たちは集会にひとりも現われませんでした。すべて無駄でした。灰色の男たちは、子どもたちの親に時間を与えず、計画された集会を潰したのでした。

仲良しの二人、掃除夫のベッポは特別勤務を理由に立ち去りました。観光ガイドのジジもアルバイトのかけもちで夜警の仕事に行きました。彼らも時間泥棒に時間を盗まれていたのです。

日本語訳は大島かおり氏で、岩波少年文庫より刊行されています。そこには<対象が●小学5・6年以上>となっています。

正直なところ、現代の多くの大人たちには手遅れのような気がします。さらに物語では、危険は子供たちにも迫ってきます。時間を奪われた大人たちの価値観で子供たちも育てられ、当然、子供たちも変化しはじめます。

モモの前で、企みを告白させられた灰色の男(XYQ/384/b)は、幹部たちによる裁判にかけられ、素性を明かした罪として、彼らが生き延びることのできる葉巻を取り上げられて消えてなくなってしまいます。

そしてモモこそが灰色の男たちにとって、最も存在することが都合の悪いターゲットとなります。

モモは灰色の男たちを恐れます。そこにカシオペイアという30分だけ未来が予知できるという不思議なカメが現れます。

カシオペイアは<ツイテオイデ>と甲羅に光る文字を表し、モモを連れ立ってゆっくりと歩き、時間の境界の圏外に出てしまいます。

外側を見るとモモを追いかける灰色の男たちの車が見えますが、こちら側には入れません。

曲がり角の先にガラスの宮殿のような建物があります。そこまで<さかさま小路>という逆向きなると進める道を歩き、<どこにもない家>に辿り着きます。

ドアの名札には<マイスター・ゼクンドゥス・ミヌティウス・ホラ>とありました。

そこには幾種類もの時計があり、チクチク、タクタク、カチカチ、ブンブンという時計の音が聞こえます、ここは<時間の国>です。

全部の時計が別々の時間を指していますが、音全体は不愉快な騒音ではなく、夏の森で聞こえるような気持の良いざわめきです。

マイスター・ホラは<星の時間を表わす時計>を持ち、宇宙の時間を司っています。

モモは「灰色の男たちがなぜあんなに灰色の顔をしているの」とホラに尋ねます。

マイスター・ホラは答えます。

「死んだもので、いのちをつないでいるからだよ。彼らは人間の時間をぬすんで生きている。人間は一人ひとりが自分の時間を持っていて、この時間は自分のものである間だけ、生きた時間でいられるのだよ」

そして

「灰色の男たちは人間ではない。ほんとうはいないはずのもので、人間が発生を許す条件を作りだし、今では、彼らに支配させるすきまで与えている」

さらに

「彼らを肥らせているのは、ほかならぬ私たち自身」であり、「人間は自分の時間は、自分でどうするかを決めなければならない」

と言います。

人間は時間を感じるために心がある。心が時間を感じとらないときは、時間は無いのも同じなのです。

「時間とは生命(いのち)」なのです。

心臓はちゃんと生きて鼓動しているのに、何も感じとれない心をもった人がいる。それは灰色の男たちに時間を、生活を、生命を奪われているのです。

「あなたは死なの?」とモモは訊ねます。

マイスター・ホラは「時間を知れば、人々は死を恐れない」と答えます。

「人間が死とは何かを知っていたら、こわいとは思わないだろう」とホラは言います。そう、これは魂の捉え方です。まるで般若心経の“色即是空 空即是色”のようです。エンデの『モモ』の物語は、日本人の宗教感覚に近い精神世界なのです。

死への恐れが、生への執着を生む。この執着が、不老を願い、金やモノで満たされた暮らしを求めていく。

そうしてマイスター・ホラは、モモに時間の源である<時間の花>を見せます。

金色に輝くなかで、大きな振り子が池の暗い水面から蕾をもたげて膨らみはじめ、美しい花が咲きました。振子が遠ざかると、花は萎れはじめ、散っていきます。するとまた違う蕾から、さらに美しい花が咲きました。

それは時間の誕生の瞬間であり、大きな宇宙であり、私たちの心の中心なのです。

ホラは、モモの見た時間は、モモだけに贈られた生命であることを伝え、皆にもそれぞれに、時間の花をホラは配っています。

花が咲き涸れるように、時間も生まれ消えます。生から死へ、死から生へと続く永遠の循環です。

<感じるという心>―それは愛すること、そして愛されるということ。金でもなく、物でもなく、心の震えを知覚すること。

モモは眠りにつきます。それは無から生命(いのち)を生むための熟成の時間です。

眠りから醒めると、そこは円形劇場でした。モモは星々のあの声をうたってみました。言葉がひとりで口をついて出てきます。

記憶のなかの声が、言葉を語っているのです。

モモは、微睡んだと思っていたのですが、すでに一年がたっていました。その間に、時間泥棒によって社会は大きく変わり果てていました。

仲良しのジジもベッポもいなくなっていました。

何とかジジと再会しますが、ジジはスターという仮面を被らされ、時間を管理され情報産業に操られ、すっかり変わり果てた姿になっていました。モモはジジが病気だということ、死の病いに蝕まれていることが、わかりました。

しかしジジ自らがそこから逃れようとしない限りモモにはどうすることもできませんでした。

掃除夫のベッポは、これまでの事情を交番で説明しますが頭のおかしな男として精神病院へ送られてしまい、そこに灰色の男たちが現れ、10万時間と引きかえにモモを開放するという嘘の約束を承諾させられ、病院から出されます。

退院後のベッポは人が変わったように仕事への愛情を棄て、時間節約のために夜も昼もただひたすらに死に物狂いで働くのでした。

子供たちはモモを付き合うことを禁じられ、高価なおもちゃを与えられ、子供たちだけの施設に入れられています。小さな時間貯蓄家となり、腹立ちまぎれの、とげとげしい騒ぎかたを始めました。

もう円形劇場跡にはだれも訪れませんでした。モモはただ一人孤独です。

灰色の男たちはモモを追いかけます。

逃げるモモですが疲れきって眠りにつきます。そこでジジやベッポの夢を見ます、それは悲惨な夢でした。
人の話を聞くだけの受動的なモモは、ここで灰色の男たちと闘うという能動的な意志を持ちます。

いなくなっていたカシオペイアが再び現れ、ホラのところへ行くことになります。

一方、灰色の男たちの幹部会議では、モモに手助けをしたのはマイスター・ホラだと結論づけます。議論の末、ホラを始末して全ての時間を奪い、世界を征服しようと考えます。

「私はここよ!」とモモが叫ぶと、灰色の男たちが集まってくる。

モモはカシオペイアとともにホラのところへ向かい、灰色の男たちは後を追いますが、「さかさま小路」は時間が逆流しており男たちは消えていきます。

モモはホラに町の窮状を伝えますが、ホラは、自分は時間を司るだけで、どう使うかは人間が判断することなのでどうしようもできないとしながらも、自分が一時間だけ眠ることで、すべての時間が止まるので、その間に時間貯蓄銀行の金庫を閉めて、時間の供給を止めることで、灰色の男たちを絶滅させることができるといいます。

しかし失敗すれば、マイスター・ホラは眠りから醒めることなく永遠に時間が止まります。

モモは灰色の男たちを恐れません、モモは友人達の時間を取り戻そうと決意します。

モモはホラから一時間だけの時間の花を授けられて、最後の闘いに挑みます。カシオペイアと共にモモは任務を遂行し灰色の男たちを自滅させ、再度、扉を開けて、時間の花を皆に開放します。

その瞬間に、時間は再び蘇り、あらゆるものが動き始めました。人間は、だれもかれも、急にたっぷりと時間があるようになったのです。

円形劇場跡には、モモ、掃除夫のベッポ、観光ガイドのジジ、子どもたち、居酒屋の二ノと赤ちゃんを抱いたおかみさん、左官屋のニコラなど近所の人々がいます。

お祝いが始まります。歓声、抱擁、握手と笑い。モモはあの星の声と時間の花に思いをこめて歌いました。
こうして楽しく賑やかに語らった時間に戻ることができたのです。

一方、<どこにもない家>では、マイスター・ホラが、何でも見える眼鏡でモモとその友達の様子を見ていました。カシオペイアの甲羅には、この物語を読んでくれた人にしか見えない文字が、ゆっくりと浮かび上がりました。<オ・ワ・リ>