②野々宮宗八が見た里見美禰子
美禰子の本命が野々宮であった、という事は、物語が始まる前から決められた設定です。最初に述べたとおり『三四郎』は、『草枕』の逆さま世界だからです。
『草枕』では、泰安という僧侶がヒロイン那美にラブレターを書いて、一悶着おきました。その反対の『三四郎』では、ヒロイン美禰子のほうからラブレターを書くことになる訳です。さらに言えば、泰安の手紙は、不真面目な戯れの恋文だったので、那美から叱られてしまいました。美禰子の手紙は、結婚を願う真剣なものだったに違いありません。
三四郎がまだ夏休み中に、大学に野々宮を訪ねた日、野々宮のポケットから女文字の封筒が半分覗いているのを見つけました。これは美禰子の字であったことに、後日気付きます。三四郎だって彼女から2度手紙を貰いますが、封書ではなくハガキでした。野々宮が貰った封書こそ、美禰子からの熱烈なアプローチでしょう。
野々宮がどう返事を書いたかは不明ですが、彼女に蝉の羽のようなリボンを贈りました。夏が過ぎて季節外れになってしまったのも構わずに、入院中のよし子を見舞いに行った日、美禰子はそれを身に着けていました。野々宮に出くわす可能性を期待して、リボンを着けたのでしょう。
野々宮の美禰子に対する感情というのは、ほとんど描かれていません。ただ野々宮に関しては、住宅事情が悪化していく様子が描かれています。この薄給の研究者は、数ヵ月の間に2度も引越をしているのです。
女学校に通う妹よし子と二人で住んでいたのですが、まず大久保に引っ越しました。以前に住んでいた所より大学から遠いのですが、家賃が安いからです。三四郎は、その原因をよし子の入院費がかかったせいで経済的に苦しいのだと推察しています。せっかく引越したのに、退院して来たよし子が苦情を訴えます。兄の帰宅はいつも深夜になるのに、大久保は寂しくて不安だと言うのです。そこで、仕方なく、よし子を美禰子の家に預け、自分は藁ぶきの汚い家に下宿生活をする事になります。
そんな野々村を美禰子は、
野々宮の様な外国にまで聞こえる程の仕事をする人が、普通の学生同様な下宿に這入って居るのも必竟野々宮が偉いからの事で、下宿が汚なければ汚ない程尊敬しなくってはならない。
夏目漱石『三四郎』6章
と讃美し、彼を尊敬しきっていました。
彼女はどんなに貧乏しても、野々宮と結婚する覚悟があったろうと思います。きれいな着物が汚れるのも気にせずに、平気で汚ない縁側や草の上に腰を降ろす美禰子ですから、逞しい面だってありそうです。
けれど野々宮のほうで、無理を押してまで結婚しようという気が起きませんでした。二人の気持ちのすれ違いを暗喩するような会話を三四郎が盗み聞きしていました。
菊人形展に向かいながら、なぜか飛行機実験の話をする美禰子と野々宮です。
「死んでも、そのほうがいいと思います」と無謀でも飛んでみようという美禰子に対して、
「・・・高く飛ぼうというには、飛べるだけの装置を考えたうえでなければできないにきまっている。頭のほうがさきに要るに違いないじゃありませんか」と飛ぶ前に、しっかり計算しなければいけない、と慎重な野々宮。結婚も、経済的に計算してみて無茶なものは止めておこうと言うつもりです。ロマンチックな美禰子を「女には詩人が多いですね」と笑う野々宮でした。
残念ながら、彼はそれほど美禰子に関心が無いのです。美しい美禰子をただ心地よく眺める程度の気持ちしか無い。美禰子の心の内にまで興味がありません。
そういうわけで、野々宮の「森の女」の感想は、
「色の出し方がなかなか洒落ていますね。むしろ意気な絵だ」と野々宮さんが評した。
『三四郎』13章
「お洒落で粋」と褒めています。野々宮の担当は【美の理想】
東京帝国大学の建築の美しさを熱心に語っていた野々宮ですから、下駄の鼻緒も左右で違う色の(おそらく水引花緒と呼ばれているもの)お洒落な美禰子の装いにも、目を留めていたでしょう。
さて、2度も引越した野々宮でしたが、美禰子の結婚を受けて3度目の引越をすることになりました。美禰子のところに居候させていた妹よし子と再び一緒に住むためです。
よし子は、美禰子の結婚が決まった時
「私をもらうと言ったかたなの。ほほほおかしいでしょう。美禰子さんのお兄いさんのお友だちよ。私近いうちにまた兄といっしょに家を持ちますの。美禰子さんが行ってしまうと、もうご厄介になってるわけにゆかないから」
夏目漱石『三四郎』12章
と、なんだか美禰子に勝ち誇ったように、笑っていました。無邪気に兄を振り回す妹よし子はまだ女学校に通っているのですから、二十歳にもなっていないでしょう。当分、お嫁に行く気は無いようです。おそらく兄は、この妹が片付くまで結婚しないでしょう。美禰子の兄と違って、ずいぶん妹思いです。いつも「愚物」「ばか」と言いながらも、体の弱い妹を気遣っています。
この兄妹、まるで夫婦のように感じられませんか?どうしても、野々宮のモデル寺田寅彦と若くして病死した妻、夏子の姿を重ねて見てしまいますよね。