小林多喜二『蟹工船』あらすじ|地獄の虐使に、決起する人々。

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概要>「おい地獄さ行んだで!」人権を剥奪され蟹工船に従事する人々の非人間的な生活と、その苦悶の連続から次第に生まれた未組織労働者のストライキの過程を過酷な船内の描写とオホーツク海の荒涼たる漁場での死闘を通して伝えるプロレタリア文学の傑作

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登場人物

蟹工船で北洋漁業に向かう人々
主に東北や北海道の貧困層から募集された百姓、坑夫、漁師、土方、学生、貧民街の少年。
蟹工船でストライキを先導する代表たち
学生あがりが二人、吃りの漁夫、「威張んな」の漁夫、芝浦、火夫、水夫などの面々。
監督
浅川という名前で、会社側の人間として非情なまでに蟹工船の漁夫たちを酷使する。
船長
船を運航する責任ある立場だが、会社の意向を剥き出しの浅川に逆らえず不満がある。
会社側の人々
監督、船長、雑夫長、工場長など会社側の人間で、蟹工船に乗り込み指図する。
駆逐艦の人々
オホーツク海での蟹工船の操業を護衛し、国策最優先でストライキを鎮圧する。

あらすじ(ネタバレあり)

国家の一大事業と鼓舞され、蟹工船には貧しい人々が乗り込んで来た。

「おい地獄さぐんだで!」蟹工船「博光丸」は出航しようとしていた。

この漁に乗り込む人々は、漁夫と雑夫たちである。皆、貧窮な人々だった。

雑夫は、十四、五の少年で、学校にいけない函館の貧民窟の子供たちや、南部岩手や秋田出身の母親に連れられた身分の貧しい百姓の子供たち。漁夫のなかには、秋田、青森、岩手から来た「百姓の漁夫」も多かった。皆、食えずに、追われてくる者たちだった。

彼らは「金を残して」内地くにに帰ることを考えているのだが、陸を踏むと函館や小樽で金を使い果たし、内地くにへ帰れなくなる。すると雪の北海道で「越年おつねん」するために自分の身体を安い値でまた売る。彼らはそれを何度も繰り返しているのだった。

また夕張炭鉱で七年も坑夫をした男は、ガス爆発事故で坑道の壁がふさがれ仲間が死に、自分も危うく死にそうになり鉱山から漁の仕事に流れてきたが、蟹漁の厳しさも同じようなものであった。

他に職工たちもいた。春になり仕事がなくなるとカムサッカへ出稼ぎに出た。どっちの仕事も「季節労働」だった。漁夫の仲間には、北海道の奥地の開墾地や、鉄道敷設の土工部屋、食いつめた「渡り者」や酒だけ飲めればいいというような者もいた。

こういうばらばらな者たちを集めることは、雇う側にとって都合が良かった。当時、函館の労働組合は、共産主義運動のため蟹工船、カムサッカ行きの漁夫のなかに組織者をいれることに死に物狂いであった。

「サロン」には、「会社のオッかない人、船長、監督、警備にあたる駆逐艦の御大、水上警察の署長さん、海員組合の人間」がいた。

漁夫たちの居場所は船底の薄暗い悪臭がただよう「糞壺くそつぼ」の穴だった。区切られた寝床にゴロゴロと人間が蛆虫うじむしのようにうごめいて見えた。

漁業監督を先頭に、船長、工場代表、雑夫長がハッチを下りて入って来る。

監督の浅川が、口を切った。「この蟹工船の事業は、国家の一大事業で、日本帝国人民と露助の一騎打ちの戦いであり、日本国内の行き詰った人口問題、食糧問題に対して重大な使命を持っている。この大きな使命のために帝国の軍艦も守ってくれる。今流行りの露助の真似をして、共産主義運動を真似するものは日本帝国を売るものだ。よく覚えておくように」と。

秩父丸を救助せず乗員を見殺し、学生上がりは他人事ではないと思った。

ずっと遠い右手に祝津の燈台が見えた。留萌の沖あたりから雨が降り出してきた。

稚内に近くなりうねりが出て来て、せわしなくなった。宗谷海峡に入った時はギク、シャクした。風は益々強くなり、マストは釣竿のようにたわみ、波は船に暴れこんできた。

オホーツク海へ出ると、海の色はもっと灰色がかり、寒さが刺し込んできた。函館から出帆した他の蟹工船は離れ離れになっていた。

蟹工船は母船で、川崎船を八隻のせていた。この船で蟹漁をする。船員も漁夫も、川崎船が波に取られぬように縛りつけるためには自分等の命を「安々」と賭けねばならなかった。カムサッカの海は、よくも来やがった、と待ちかまえているように見えた。

仕事が終わると、皆は「糞壺くそつぼ」の中に順々に入り込んできた。

今朝の二時頃だった。秩父丸からのSOSに船長が助けようとすると、監督の浅川が「この船は会社の船だ。あんな船にかかわりあっていると一週間もフイになる。一日も遅れられない。秩父丸には保険がかけてある。沈んだって、かえって得するんだ」と云った。

船長は、何も言えず立ちすくんでいるだけだった。

「乗務員四百二十五人。最後なり。救助される見込みなし。SOS、SOS」 無電室の受信機の音が切れてしまった。

学生上がりは、同じように見殺しにされる自分たちのことが脳裏によぎった。

蟹工船はどれもボロ船だった。労働者が北オホーツク海で死ぬことなどは、丸ビルの重役には、どうでもいい事だった。資本主義は金がダブつくと、どんな事でもする。船一艘いっそうでまんまと何十万円が入る蟹工船、彼等が夢中になるのは無理がなかった。

蟹工船は、「工船(工場船)」であって「航船」ではない。航海法は適用されなかった。日露戦争で使われた病院船や輸送船など老朽化で沈没させるしかないようなボロ船であった。そして蟹工船は純然たる「工場」だった。だが工場法の適用は受けていない。これほど都合良く勝手にできることはなかった。

学生上がりは「他人事ひとごとではないぞ」と思った。

行方不明になった雑夫に、監督の浅川は “雑夫、宮口を発見せるものには、バット二つ、手拭一本を、賞与としてくれるべし。” と煙草ほどの懸賞をかけた。

監督の浅川のやり方に、漁夫たちは次第に殺意を募らせていった。

沖合四カイリのところに博光丸はいかりを下した。三浬までロシアの領海なので、それ以内に入ることは出来ない「ことになっていた」・・・。違法操業である。

何時いつからでも蟹漁が出来るように準備が出来た。

周旋屋に騙されて、連れてこられた東京の学生上りは、「秩父丸が沈没したとの無電が入ってきた」という監督に対して、「自分が手をかけて殺した四、五百人の労働者の生命のことを平気な顔で云う、海にタタキ込んでやっても足りない奴だ」と思った。

その後、行方の分からなかった雑夫は発見されて、便所へ押し込まれ酷い折檻を受けた。

「兎が飛ぶどォ、兎が!」カムサッカの「突風」の前ブレだった。漁に出ている川崎船が、時化しけのなかを戻って来る。

監督の浅川は、××丸から「突風」の警戒報を知っておきながら、川崎船を出したのだった。「人間のいのちを何だって思ってやがるんだ!」と漁夫が云った。

興奮した漁夫のいろいろな顔が、瞬間々々、浮き出て、消えた。「浅川の野郎ば、なぐり殺すんだ!」

「浅川はお前達をどだい人間だなんて思っていないよ」と漁夫のひとりが云った。皆は暗い顔に、然しどうすることもできずにジリジリ興奮をうかべて立ちつくしていた。

二艘の川崎船が帰ってこなかった。翌日、捜索方々、本船が移動することになった。

川崎船が、なかなか見つからないなかで、監督の浅川は、第一号ではないもっと新しい第36号と番号を打たれた××丸のものを引いていき、第36号の「3」をカンナで削り「第六号川崎船」として哄笑こうしょうした。

行方不明になった川崎船は帰ってこなかった。

「浅川のせいだ。死んだとわかったら、弔い合戦をやるんだ」図体の大きい、北海道の奥地からやってきた男だった。「奴、一人くらいタタキ落とせるべよ」若い、肩のもり上がった漁夫が云った。

「うっかりしていれば、俺達だって奴にやられたんだで。他人ごとでねえんだど」最初の男が云った。「万事、俺にまかせれ、その時ァ!あの野郎一人グイとやってしまうから」すると皆はだまった。

難破した人々は、ロシアのプロレタリアの団結の話を興味深く聞いた。

三日して突然、行方不明の川崎船が、元気よく帰ってきた。

カムサッカの岸に打ち上げられていたところを、ロシア人に救われたのであった。

ロシアの家族に親切にされ、帰る日に四五人のロシア人が話し、その中に支那人が一人交っていて片言かたことの日本語でしゃべりだした。

ロシア人の話を支那人が身振り手振りで話す、話は以下のような内容であった。

・日本人の貴方たちは、貧乏人だ。だから貴方たちは、プロレタリアである。

・日本人の金持ち、だんだん大きくなっていき、貴方たちは、どうしても貧乏人のまま。

・日本の国は、働く人が病人のようで、働かない人が、偉そうにしている。

若い漁夫は「そうだ」と云って、笑い出した。

・ロシア人働く人が、偉そうにして、働かない人が、乞食のような格好をする。

・ロシアの国は、働く人ばかりで、働かない人はいない。

・ロシアは、ずるい人いない。人の首しめる人いない。

漁夫たちは、これが恐ろしい「赤化」ではないかと考えた。が、馬鹿に「当たり前」のことであるような気が一方でした。

支那人はさらにロシア人同志の言葉を、日本語にして話した。

働かないで、お金儲ける人いる。プロレタリア、いつでも首をしめられる。プロレタリア、貴方たち。一人、二人、三人、百人、千人、五万人、十万人団結して強くなる。

プロレタリアいない、みんな、パン無い。みんな死ぬ。日本、働く人、やる。

船頭は、これが「赤化」だと思っていた。皆は、その話をもっともっとと興味深くうながした。

蟹工船で働く人々は皆貧しく、資本家の虐使は思いのままを極めた。

本船が他の船に負けていると、監督や雑夫長は「船員」と「漁夫、雑夫」との間で、仕事の上で競争させるように仕組んだ。お互いは競争意識を持ち、監督はそれを喜んだ。しばらくして仕事の効率が落ちると監督は、なぐりつけた。

今度は、勝った組には「賞品」を出し、一番少ないものに「焼き」を入れることにした。鉄棒を真赤に焼いて、身体にあてるのだった。監督は、人間の身体の限界をよく知っていた。

彼等は、ふと「よく、まだ生きているな」と自分で自分の生身の身体にささやいた。

学生上がりは、一番こたえていて「ドストエフスキーの死人の家だって、ここから見れば大したことでない気がする」と思った。

「何だか、理屈は分からなども、殺されたくねえで」皆の気持ちがそこに雪崩なだれて行く。

「お、俺たちの。も、ものにもならないのに、く、糞、こッ殺されてたまるもんか!」どもりの漁夫が、急に、大きな声を出した。

船頭が、「おいおい叛逆てむかいなんかしないでけれよ」と云った。

「国道開拓工事」「灌漑工事」「鉄道敷設」「築港埋立」「新鉱発掘」「開墾」「積取人夫」「にしん取り」・・・ほとんどの漁夫が、いずれかをやってきた。

内地では市場も大体開拓されつくして、資本家は「北海道・樺太へ!」進出した。そこは、朝鮮や台湾と同じように資本家たちによる「虐使」ができた。堪えられなくなり逃亡すると虐待されて殺される。

北海道の開発は、鉄道も築港も鉱山でも、こうした「死骸」や「人柱」によるもので、「国家的」富源の開発という言葉で合理化していた。

また「入地百姓」という北海道には移民百姓がいて、内地の貧農を煽動して移民を奨励しておきながら、普通の畑になると資本家のものになって、百姓は「小作人」になる。そこで始めて騙されたことを知る。

蟹工船にはそういう自分の土地を「他人」に追い立てられた者が沢山いた。内地では労働者がひと固まりになって、資本家に反抗している。しかし「殖民地」の労働者は、完全に遮断されていた。

「どうなるかな?」「殺されるのさ」「こ、こ、殺される前に、こっちから殺してやるんだ」吃りがブッ切ら棒にいった。

漁夫も船員も「サボリ」、その後、中積船が来てひとときくつろぐ。

漁夫たちは、何日も続く過労のために、だんだん朝起きられなくなってきた。監督が石油の空かんを寝ている耳元にたたいて歩いた。「いやしくも仕事が国家的である以上、戦争と同じなんだ。死ぬ覚悟で働け!馬鹿野郎」と怒鳴った。

学生が倒れると、監督は水を浴びせかけた、次の朝、旋盤の鉄柱に縛りつけられていた。

そこには監督により「此者ハ不忠ナル偽病者ニツキ、麻縄ヲ解クコト禁ズ」と書かれていた。

蟹漁が忙しくなると、苛立ってくる。漁夫たちは、前歯を折られたり、過労で作業中に卒倒したり、眼から血を出したり、平手で滅茶苦茶に叩かれて耳が聞こえなくなったりした。

漁夫たちは、雑巾切れのようにクタクタになって糞壺に帰ってくると、皆はただ「畜生!」と怒鳴った。

朝になり、「俺ァ仕事サボるんだ炭山やまが云った。皆も黙ったまま頷いた。

一人、二人ではなく殆ど全部なので、監督はイライラ歩き廻ることしか出来なかった。

仕事が、通りの悪い下水道のようにドンドンつまっていった。「監督の棍棒」が何の役にもたたない。

仕事が終わって、皆「糞壺」に帰ってきて、思わず大笑いした。それが船員にも移っていった。競わされていたことに、いい加減に馬鹿を見せられていたことが分かると彼らも時々「サボリ」出した。

中積船がやってきた。漁夫や船員たちを夢中にした。函館から手紙、シャツ、下着、雑誌などが送り届けられた。出来上がっただけの罐詰を中積船に移し終えた晩、船で活動写真を映すことになった。

弁士は、「この会社が此処へこうやって6ヵ月で5百万円、一年で千万円。株主へ二割二分五厘の滅法もない配当をする」と云った。活動写真は、西洋物と日本物をやった。西洋物は「西部開発史」で、野蛮人の襲撃や自然の暴虐にあいながら鉄道を延ばして行く。その先に街が出来る。さまざまな苦難が、一工夫と会社の重役の娘との「恋物語」ともつれあって描かれていた。

日本物の方は、貧乏な一人の少年が「納豆売り」「夕刊売り」から「靴磨き」をやり、工場に入り、模範職工になり、取り立てられ一大富豪になる映画だった。弁士は「げに勤勉こそ成功の母ならずして、何ぞや!」と云った。

そして皆は、「一万箱祝い」の酒で酔払った。

反抗的な気持ちが充満し、その中から三、四人の代表者が生まれてきた。

柔らかい雨曇り、午過ひるすぎに駆逐艦がやってきた。

士官連が本船へやって来て、船長工場代表監督雑夫長が迎えた。給士は仕事の関係で、漁夫や船員がうかがい知ることのできない船長や監督、工場代表などのムキ出しの生活をよく知っていた。公平に云って、上の人間はゴウマンで、恐ろしいことを儲けのために「平気」でたくらんだ。漁夫や船員たちはそれにウマウマ落ち込んで行った。

「今度、ロシアの領地へこっそり潜入して漁をするそうだ。それで駆逐艦が、側にいて番をしてくれるそうだ」「そして大目的は北樺太、千島の附近まで測量したり気候を調べたりして、端の島に大砲を運んだり、重油を運んだりしてるそうだ」

前から寝たきりになっていた脚気の漁夫が死んでしまった、二十七歳だった。

仕事に出ていない「病気のものだけ」で「お通夜」をさせることにした。「カムサッカでは死にたくない」彼は死ぬときにそう言った。湯灌ゆかんに使うお湯を貰いに行くと、監督は「ぜいたくに使うな」と言いたげだった。八時頃になって線香や蝋燭をつけ皆が座った。お経の文句を覚えていた漁夫がお経をあげた。

どもりの漁夫が「山田君は、どんなに死にたくなかったべか。イヤ、どんなに殺されたくなかったか、と。山田君は殺されたのです。」と云った。そして「僕らは、山田君を殺したものの仇をとることによって、山田君を慰めてやることが出来るのだ。このことを僕らは、誓わなければならないと思う」と云った。

船員たちがいちばん先に「そうだ」と云った。翌朝、カムサッカの海に投げられた。

表には何も出さない。気づかれないように手をゆるめていく。それを一日置きに繰り返す。そういうふうに「サボ」を続けた。水葬のことがあって、さらに足並みがそろってきた。

仕事の高は眼の前でみるみる減っていった。今まで「屈従」しか知らなかった漁夫にも、なるほど出来るんだと思った。そうなると今度は不思議な魅力になって反抗的な気持ちが皆の心に喰い込んでいった。

威張んな、この野郎」この言葉が皆の間で流行り出した。

漁夫たちの中からいつでも表に押し出される三、四人が出来てきた。学生上がりが二名吃りの漁夫、「威張んな」の漁夫などであった。

労働者が働かなきゃ、ビタ一文だって金持ちの懐には入らないんだ。

学生が、何か問題が起こればすばやく全体に共有できる連絡系統をつくった。これでぬかりなく「全体の問題」にすることができる。「殺されたくないものは来たれ!」学生上がりの得意の宣伝文句だった。

あっちは、船長から何からを皆いれて十人にならない。こちらは四百人に近い。発動電機の修繕のために雑夫長が四、五人の漁夫と一緒に陸へ行った時に「赤化宣伝」のパンフレットやビラを沢山持ってきた。

自分達の賃金や、労働時間の長さ、会社の金もうけのこと、ストライキのことなどが書かれ皆は面白がって、お互い読んだり、ワケを聞き合ったりした。

漁夫たちは、その「赤化運動」に好奇心を持ち出していた。

何時でも会社は漁夫を雇うときに、労働組合などに関心のない、云いなりになる労働者を選ぶ。しかし、蟹工船の「仕事」は、逆に、それらの労働者を団結させようとしていた。

監督は周章あわてだした。蟹の高はハッキリ減っていた。二千ばこは遅れている。

監督は、他の船の網でもかまわずドンドン上げさせた。仕事が尻上がりに忙しくなった。

“監督に対し、少しの犯行を示すときは銃殺されるものと思うべし”というビラが貼られた。監督は銃を「示威行動」のようにかもめや船の何処かに見当をつけて撃った。

芝浦の漁夫が「彼奴等はな、上手なんだ。ピストルは今にも打つように何時でも持っているがそんなヘマはしないんだ。あれは「手」なんだ。俺たちを殺せば、自分達の方で損をするんだ。目的は俺たちをウンと働かせて、しこたま儲けることなんだ」

「俺たちが働かなかったら、一匹の蟹だって金持ちの懐に入っていくか。この船、一艘で純手取り四、五十万って金をせしめるんだ。その金の出所は、皆んな俺達の力さ。水夫と火夫がいなかったら、船は動かないんだ。労働者が働かねば、ビタ一文だって金持ちの懐にゃ入らないんだ」

九人を代表にストライキを行うが、駆逐艦に制圧され再起を期す。

二時で、もう夜が明けていた。カムサッカの連峰が金紫色に輝き地平線を長く走っていた。

「あ、兎が飛んでる。これは大暴風おおしけになるな」カムサッカの海に慣れた漁夫には、それが直ぐ分かる。「やめたやめた!」誰かキッカケにそういうのを皆待っていた。

雪だるまのように、漁夫たちのかたまりが、大きくなっていった。「よオし、さ、仕事なんてやめるんだ!」「非道ひでえ奴だ。大暴風おおしけになることが分かっていて、それで船を出させるんだからな。人殺しだべ」「あったら奴に殺されて、たまるけァ!」殆ど一人も残らず、糞壺に引き上げてきた。

雑夫達は全部、漁夫のところに連れ込まれた。火夫と水夫も加わってきた。

「要求事項」は、吃り学生芝浦威張んなが集まってきめた。監督達は、漁夫たちが騒ぎ出したことを知ると、ちらっとも姿を見せなかった。

吃りの漁夫が「諸君、とうとう来た!まず第一に、力を合わせ仲間を裏切らないこと。第二にも、力を合わせ一人の裏切り者もださないこと。俺たちの交渉が彼奴等をタタキのめせるかは団結の力に依るのだ」。続いて、火夫の代表水夫の代表が立った。

そして壇には、十五、六歳の雑夫が立って話した。それは嵐のような拍手をき起こした。

「要求事項」「誓約書」をもって、船長室に出かけ、その時に示威運動をすることが決まった。三百人は吃りの音頭で、一斉に「ストライキ万歳」を三度叫んだ。

船長室へ押しかけると、監督は片手にピストルを持ったまま代表を迎えた。船長雑夫長工場長が何かを相談していたらしかった。

監督は「後悔しないか」と云い「明日の朝にならないうちに、色よい返事をしてやるから」云ったが、それよりも早く芝浦がピストルをタタキ落とすと、拳骨で頬をなぐりつけた。吃り円椅子で横なぐりに足をさらった。

「色よい返事だ?この野郎、フザけるな!生命にかけての問題なんだ」その瞬間、「殺しちまい!」「打ッ殺せ!」「のせ!のしちまえ!」外からの叫び声が大きくなった。

ドアーを壊して、漁夫や、水、火夫が雪崩れ込んできた。

「監督をたたきのめす!」自分たちの手でやってのけたことで皆はウキウキとはしゃいだ。

薄暗くなった頃だった。駆逐艦がやってきた。

「しまったッ!!」学生の一人が跳ね上がった。「感違いするなよ」吃りが笑い出し、「俺たちの状態や立場、要求など説明して援助を受けたらストライキが有利に解決する」と云った。

皆はドヤドヤと「帝国軍艦万歳」を叫んだ。

駆逐艦が横付けになり、十五、六人の水兵が着剣つけけんをしてタラップを上ってきた。さらに十五、六人。その次からも十五、六人。「不届者」「不忠者」「露助の真似する売国奴」そう罵倒されて、代表の九人が駆逐艦に護送されてしまった。

俺達には、俺達しか見方が無えんだ」それは皆の心の奥底へ入り込んでいった。

仕事は、今までの過酷に、監督の復仇的ふっきゅうてきな過酷さが加わった。今では仕事はもう堪え難いところまでいっていた。

次は、代表をつくらず、全部が一緒になってやらなければならなかった。

「ん、もう1回だ!」そして、彼らは、立ち上った。もう一度。

附記>

  • 二度目の、完全な「サボ」は、マンマと成功した。
  • 「サボ」をやった船は博光丸だけではなかった。二三の船から「赤化宣伝」のパンフレットが出た
  • 監督や雑夫長は不祥事を起こさせたこと、製品高に影響を与えたことで首を斬られた(その時、監督は俺は今までだまされていたと叫んだらしい)
  • そして「組織」「闘争」の偉大な経験を担って、漁夫、年若い雑夫等が、いろいろな労働の層へ、入り込んでいったこと。

解説(ここを読み解く!)

●下積みの労働者階級への非人道的な酷使と自然成長的な闘争を描く。

ソヴィエト領のカムチャッカの領海まで侵入して蟹を獲り、これをすぐに加工して罐詰かんづめにするための<工船>は、<航船>でないために航海法を適用されない。

そこに季節労働者として雇い入れられる人々は、主に東北や北海道の貧困層から募集され百姓、坑夫、漁師、土方、学生、貧民街の少年などで、人間的な最低の権利すら剥奪されて、会社の利潤のために酷使される。劣悪な労働環境に集う貧しい人々だ。

日露戦争の頃に活躍したボロ船の蟹工船と数隻の漁を行う川崎船。劣悪な環境のなかで、組織化を恐れ、ばらばらに集められた季節労働者の乗船理由や人生。そして蟹漁での高揚感や気分が優先し、会社や国家の意のままに酷使されていく日々。

難破した川崎船をロシア人が救出し、ロシア人たちのプロレタリアの思想を聞き、「当たり前」の考え方だと思う。しかしそれは、当時として都合の悪い「赤化運動」として牽制されていた。

しかし抑圧されたひとりひとりの感情が群衆のちからに結集し、次第にその虐使に忍耐が沸点に達し、いくつかの非人道的な仕打ちによる発火点から自然成長的に「サボ」から「ストライキ」に発展していく。

物語は、非人道的な過酷な労働の中で増大する反抗の兆し、儲ける資本家への憤懣と抑圧された人々の爆発に達するまでの過酷な日々の連続を描写する。

変化していく細やかな心理を緻密な船内の状況や海の自然描写と、陸の別世界として国家と財閥と軍隊の関係、天皇制の問題など当時の時代を示しながら“国策”としての帝国主義の一断面をえぐる。

●貪欲な資本主義のなかで如何に社会主義が生まれるかを訴えた文学。

労働者の団結という形態は、今では古めかしい言葉だが、当時の日本の時勢、あるいは内地ではなく北海道開拓の名目で虐使され、さらに蟹工船に従事した人々には、容赦ない虐待のなかでさえ未組織からの組織化は困難であることが分かる。

当時、隆盛したマルキシズムや共産主義運動だったが、現在では、日本では共産主義は選択されずに、資本主義である。また労働組合もきちんと組織され労働者の声は反映されるし、労使も同じ目標下、協調しているように見える。

しかし非正規の派遣社員や、外国人労働者も一定存在するし入管法も改正された。またグローバルの名のもと労働力を日本人の視界に入らない東南アジアやアフリカなど現地での賃金の低い国に依存し、搾取している部分も少なくない。

蟹工船の時代ほどではないにせよ、虐げられる人々がいて、そのためのプロレタリア文学に人生を捧げた作家、小林多喜二。最後は特高警察の拷問に近い行為で死んだ享年二九歳の強い問題意識をもった文学があったことを歴史は刻んでいる。

より構造化された社会は硬直し、政治家も不信のなかにあり一人ひとりの力では改善することは難しい。それでも哲学や文学で自身の軸足を盤石にしながら、どのように社会の声として反映させるかを、考え続けて行かなければならない。

作品の背景

小林多喜二の「蟹工船」は、日本の革命的プロレタリア文学の代表作となる。この小説は、1920年代の国策として進められる蟹漁が舞台となっている。国から委託されたとする雇用者に対して蟹工船で酷使される貧しい労働者の群像で、船のなかの生活や海と立ち向かい蟹をとる漁の様子などが細やかに描かれている。モデルとなった船は、実際に北洋工船蟹漁に従事した博愛丸である。特に主人公はなく、多くの労働者の群像劇となっていることも特筆すべきである。作中の献上品となるカニ缶詰めに対して「石ころでも入れておけ!かまうもんか!」という記述が対象となり小林多喜二は不敬罪となる。最後は、拷問死であった。現代の若い世代における非正規雇用の増大と働く貧困層の拡大などの社会的背景のなか、本作品は再評価されている。

発表時期

1929年(昭和4年)、文芸誌『戦旗』にて発表。当時、25歳。この作品で、プロレタリア文学の旗手として注目を集める。前年にマルクス主義の実践として国体を変革するとする共産主義運動者の逮捕・投獄を可能にする治安維持法成立の背景となった三・一五事件を題材にした「一九二八年三月十五日」を発表。作品中の特高警察の拷問の描写が怒りを買い、この「蟹工船」で不敬罪を受ける。そして治安維持法で起訴され、刑務所に収容、その後、保釈出獄したが、引き続き共産主義運動に関わり1933年2月2日に特高警察に逮捕され、その日のうちに虐殺された。時に29歳4ヵ月であった。