「謎解き草枕」その4

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②サロメのように!

 基督キリストは最高度に芸術家の態度を具足したるものなりとは、オスカー・ワイルドの説と記憶している

『草枕』12章

12章「那美の不人情」いよいよ最後の芝居、最難問です。
 「オスカー・ワイルド」これがヒントです。(上記の引用文の説明は後回しにします)
ワイルドといえば、戯曲『サロメ』。女が意地でもって男を殺す物語、簡単に説明します。

 美しいユダヤの王女サロメは、王である継父けいふに、いやらしい目でジロジロと視られるのが嫌でたまらない。継父はサロメの叔父だったのだが、実兄を殺し、サロメの母である王妃と結婚することによって、王位に就いたのだ。この結婚をけがれていると非難した預言者ヨカナーンは、牢に入れられている。サロメはこの預言者に興味をもつ。固く禁じられているが、自分を崇拝している奴隷”シリアの青年”を利用してろうを開けさせ、ヨカナーンに会った。彼女は美しいヨカナーンにひとめで恋をし、それを見た”シリアの青年”は、なんとその場で自殺してしまう。そんなことには気にも留めずサロメはヨカナーンに「口づけさせておくれ」と語り続けるが、彼はサロメをけがれた娘だと一瞥いちべつもくれなかった。
 王の宴の席で、踊るように命じられてもかたくなに拒むサロメに、王は褒美ほうびとして何でも望みのものを与えると約束。サロメは見事な踊りを披露し、ヨカナーンの首を要求した。ヨカナーンを真の預言者かもしれないと怖れる王は、彼を殺すことをためらうも、サロメは約束を守るよう王に迫り、仕方なく王はヨカナーンの首をねた。盆に乗せたヨカナーンの首に、うっとりと口づけをするサロメを見た王は、即座にサロメを殺すように命じた。

 聖書を下敷きにしているのに不人情どころか、なんだか不道徳な妖しい物語です。
男達が皆、月になぞらえる処女サロメの妖気漂う美しさ。しかし彼女は決して男達に支配されない。王の持つ世俗の権力も、ヨカナーンの信じる神も、お構いなしに暴れる危険な存在です。
 だから、生かしてはおけませんでした。意地でヨカナーンを殺したサロメもまた、支配者の意地で殺されるのです。 道徳や宗教なんかに制御されない、まるで自然の脅威のように、美しくて危険な女の恋の悲劇。これが「那美の不人情」です。
「二人とも男妾にするばかりですわ」と言っていた那美さんですが、妾にするどころか、サロメが「シリア人の若者」と「ヨカナーン」を殺したのを真似て、二人の男に刃物を向ける場面を演じます。

 その緊迫する瞬間のために、今回も準備が必要です。もしかして!と、画工にひやりとしてもらうために(彼女は刃物を持っている)ということをあらかじめ認識してもらいます。余韻に浸る画工に対して、前準備が入念な那美さんです。

ふすまをあけて、椽側えんがわへ出ると、向う二階の障子しょうじに身をたして、那美さんが立っている。あごえりのなかへうずめて、横顔だけしか見えぬ。余が挨拶あいさつをしようと思う途端とたんに、女は、左の手を落としたまま、右の手を風のごとく動かした。ひらめくは稲妻いなずまか、二折ふたお三折みおれ胸のあたりを、するりと走るやいなや、かちりと音がして、閃めきはすぐ消えた。女の左り手には九すん白鞘しらさやがある。姿はたちまち障子の影に隠れた。余は朝っぱらから歌舞伎座かぶきざのぞいた気で宿を出る。

『草枕』12章

 「九寸五分の白鞘」というのは、刃渡り29センチの短刀です。出征するの従弟いとこの久一さんに餞別せんべつとして渡すために用意しているのですが、画工が見ているのを意識して大袈裟に短刀を振り回し、ひらめかせ、持ち出すところを見せつけました。画工のほうでも、この様子を歌舞伎座でも覗いた気分で見ているのですから、那美さんのお芝居にも慣れたようです。

 散歩に出かけた画工が、草むらに寝ころんで漢詩を練っているところへ、髭面ひげづらの野武士のような男が通りかかりました。実はこの男、那美さんと離婚した元夫です。勤め先の銀行が倒産して、経済的に苦しい彼は、この日那美さんと会って、お金を貰う約束をしていたようです。彼女は、村の人々から(金回りが悪くなったから離婚するなんて、不人情な女だ)と噂されていますが、実際は彼にお金を出してあげるのです。
 このお金を受け取りに来た夫を巻き込んで、「那美の不人情」の芝居が始まります。狙い通り、那美さんの姿を見て画工はすぐに、今朝懐に収めた短刀を思い出し、固唾かたずをのんで見守っています。

男のとまったのは、呼び留められたのか。振り向く瞬間に女の右手めては帯の間へ落ちた。あぶない!
 するりと抜け出たのは、九寸五分かと思いのほか、財布さいふのような包み物である。差し出した白い手の下から、長いひもがふらふらと春風しゅんぷうに揺れる。
 片足を前に、腰から上を少しそらして、差し出した、白い手頸てくびに、紫の包。これだけの姿勢で充分にはなろう。

『草枕』12章

 短刀を出すのか!と思わせておいて、出したのは財布でした。何も知らない夫に対して、まさか本当に刃物を突き付ける訳にはいきませんから。財布の色は、紫色です。でも、財布を突き付けているところなんて絵としては少しマヌケな感じがしませんか?
 この場面について、補足説明しているとも思える箇所が、『虞美人草』2章にあります。

「そよと吹く風の恋や、涙の恋や、嘆息ためいきの恋じゃありません。暴風雨あらしの恋、こよみにもっていない大暴雨おおあらしの恋。九すんの恋です」と小野さんが云う。
「九寸五分の恋が紫なんですか」
「九寸五分の恋が紫なんじゃない、紫の恋が九寸五分なんです」
「恋をると紫色の血が出るというのですか」
「恋がおこると九寸五分が紫色にひかると云うのです」

『虞美人草』2章

 ヒロイン藤尾と文学者小野さんがシェイクスピアの「アントニーとクレオパトラ」を読んで会話しています。ちょっと何を言っているか分からないシュールな会話ですが、クレオパトラのような激しい女の激しい恋を「暴風雨あらしの恋」「九すんの恋」だとしています。小野さん曰く「恋が怒ると九寸五分が紫色にひかる」
 小野さんの言葉を参考にすると、“ヨカナーンに無視されて怒ったサロメ”を演じる那美さんが、“ヨカナーンに見立てた元夫”に対して、紫色の財布を突き付けている状態というのは、「恋が怒って紫色にひかった短刀」を突き付けているのだと見ればよいのです。
 那美さんのポーズにも注目してください。「片足を前に、腰から上を少しそらして、差し出した、白い手頸」というのは、少し変わったポーズですが、こんな感じではないですか?

「出現」ギュスターヴ・モロー作 出典ウィキメディアコモンズ

 サロメを描いたモローの絵のような、演劇的な場面を意識して、那美さんはポーズをとっていたのでしょう。那美さんのポーズはこんな感じだとしても、このモローの絵では、残念ながらヨカナーンが首だけになってしまっています。画工が見た光景の元夫の体勢、「男はしりえに引かれた様子」と描写されているのですが。

 この後、画工と那美さんは志保田の本家を訪れます。本家の床の間に飾ってある掛け軸を見た画工は、「狩野派かのうは双幅そうふくむなしく春のとこを飾っている。」という感想を抱きました。
 双幅とは二幅で一対になった掛け軸です。狩野派と言っても色々ありますから、どんな掛け軸かは分かりません。ただ、それを「空しく」感じたということは、直前に彼が見た、双幅のような対立型構図の「絵」の迫力が凄かった、ということです。先程の元夫は、どんなポーズだったでしょうか?「男はしりえに引かれた様子」を頼りに、サロメに関係する絵画の中から発見しました。

「The Peacock Skirt」オーブリー・ビアズリー作 出典ウィキメディアコモンズ

 ビアズリーによる『サロメ』の挿絵です。
しかしこの絵の男はヨカナーンではなく、「若きシリア人」。彼は美しいサロメを崇拝する奴隷です。彼女に懇願されて断れずに、禁を犯しヨカナーンの居る地下牢にサロメを案内してしまいます。
サロメがヨカナーンに「お前の口に口づけするよ」と言うのを見た彼は、なんとその場で胸を刃物で刺して、自殺します。

 この「若きシリア人」に見立てられたのが、那美さんの従弟いとこ、久一さんです。
 那美さんと画工が本家にやって来たのは、出征する久一さんに例の九寸五分を餞別せんべつとして渡すためでした。が、餞別の渡し方が、一風変わっていました。

「久一さん」
納屋なやの方でようやく返事がする。足音がふすまむこうでとまって、からりと、開くが早いか、白鞘しらさやの短刀が畳の上へころがり出す。
「そら御伯父おじさんの餞別せんべつだよ」
 帯の間に、いつ手が這入はいったか、余は少しも知らなかった。短刀は二三度とんぼ返りを打って、静かな畳の上を、久一さんの足下あしもとへ走る。作りがゆる過ぎたと見えて、ぴかりと、寒いものが一すんばかり光った。

『草枕』12章

 生きて帰国できないかもしれない従弟に餞別を、しかも刃物を渡すのに、投げつけるなんて乱暴なこと、普通はしません。当然、意図があってのこと。那美さんの芝居です。この場面の大事なポイントは、“ぴかりと寒い光”を画工に見せること――これでもって、二人目の男にも刃物を向けて殺しました、という訳です。

 男の身勝手「長恨歌」vs.女の暴走「サロメ」の「不人情」対決でした。これで、二人の芝居合は終了しましたが、「憐れ」は浮かびませんでした。
 ミステリー的に面白いのは、ここからです。(続く)

続きはこちら⇒謎解き『草枕』その5

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