「謎解き草枕」その2

スポンサーリンク

②ゆれる椿

 ごうと音がして山の樹がことごとく鳴る。思わず顔を見合わす途端とたんに、机の上の一輪挿いちりんざしけた、椿つばきがふらふらと揺れる。「地震!」と小声で叫んだ女は、ひざくずして余の机にりかかる。御互おたがい身躯からだがすれすれに動く。キキーとするどい羽摶はばたきをして一羽の雉子きじやぶの中から飛び出す。
「雉子が」と余は窓の外を見て云う。
「どこに」と女は崩した、からだを擦寄すりよせる。余の顔と女の顔が触れぬばかりに近づく。細い鼻の穴から出る女の呼吸いきが余のひげにさわった。
「非人情ですよ」と女はたちまち坐住居いずまいを正しながらきっと云う。
無論むろん」と言下ごんかに余は答えた。

『草枕』9章

9章 地震のはずみで、二人の身体が思わず口づけしそうなほどに近寄ってしまう、ドキドキするシーンです。が、そんな演出のためだけに、作者がここで地震を起こしてくれた訳ではありません。注目ポイントは、地震が起きた時、机の上の「一輪挿いちりんざしけた椿」が揺れている点です。
 「一輪挿の椿」は『虞美人草』にも、意味深な感じで登場します。『それから』の冒頭では、八重の椿が落ちます。漱石作品の「椿」は何を表しているか?。色々な見方があると思いますが、「自我」を象徴しているのではないでしょうか。「地震によって揺れる椿」は、明治維新が起きて、封建社会が崩れはじめ、西洋の思想が入ってきたこと、それによって日本人の「自我」が揺り起こされたことを表現しています。次の10章で、椿の花が次々と散る描写があります。「椿」が、画工の絵の重要なモチーフになるのです。

 地震の後、二人は揺れる池の水面と、曲がりくねりながらも水面に映る山桜を眺めて、人間もこんな風に穏やかに動いて変化していれば大丈夫だ、と意見が一致します。「動」を卑しい、と言っていた画工ですが、動くこと、変化することの面白さも分かってきたでしょうか。
 9章の最後、絵を描くために鏡が池に行きたい、と画工が言います。

「その鏡の池へ、わたしも行きたいんだが……」
「行って御覧なさい」
にかくに好い所ですか」
「身を投げるに好い所です」
「身はまだなかなか投げないつもりです」
私は近々投げるかも知れません
余りに女としては思い切った冗談じょうだんだから、余はふと顔を上げた。女は存外たしかである。
「私が身を投げて浮いているところを――苦しんで浮いてるところじゃないんです――やすやすと往生して浮いているところを――奇麗な画にかいて下さい」
「え?」
「驚ろいた、驚ろいた、驚ろいたでしょう」

『草枕』9章

 身投げをするかも、という那美さんの衝撃発言に画工は驚きます。この発言は、10章で上演される「那美の人情」の観客に、芝居をきちんと理解させるため、用意周到に彼女が打った布石です。しかも、彼が描こうとしている絵についても、彼女はちゃんと知っています。鎮魂のために「風流な土座衛門」を完成させることは、無言の内に行われる二人の共同作業です。

10章 画工は、鏡が池にやって来ました。池の向こう岸に椿がたくさん咲いているのを見つけて、眼を奪われます。椿の花の眼を醒ますような派手な鮮やかさ、その奥にある沈んだ調子、黒ずんだ、毒気のある恐ろし味。さりげなく愛らしい海棠かいどうなしの花と違って、周囲の風景に溶け込まない椿。彼はこの花が嫌いなのですが、どうしてもその魔力に魅かれてしまいます。その椿が、ぽたりぽたりと落ちていく、印象的でなんとなく不気味な描写が延々と続きます。

 見ていると、ぽたり赤い奴が水の上に落ちた。静かな春に動いたものはただこの一輪である。しばらくするとまたぽたり落ちた。あの花は決して散らない。くずれるよりも、かたまったまま枝を離れる。枝を離れるときは一度に離れるから、未練のないように見えるが、落ちてもかたまっているところは、何となく毒々しい。またぽたり落ちる。ああやって落ちているうちに、池の水が赤くなるだろうと考えた。花が静かに浮いているあたりは今でも少々赤いような気がする。また落ちた。地の上へ落ちたのか、水の上へ落ちたのか、区別がつかぬくらい静かに浮く。また落ちる。あれが沈む事があるだろうかと思う。年々ねんねん落ち尽す幾万輪の椿は、水につかって、色が溶け出して、腐って泥になって、ようやく底に沈むのかしらん。幾千年の後にはこの古池が、人の知らぬに、落ちた椿のために、うずもれて、元の平地ひらちに戻るかも知れぬ。また一つ大きいのが血を塗った、人魂ひとだまのように落ちる。また落ちる。ぽたりぽたりと落ちる。際限なく落ちる。

『草枕』10章

 「こんな所へ美しい女の浮いているところをかいたら、どうだろう」と画工は、絵の構想を練り始めます。――女が水に浮いているところに幾輪も椿を落とす。女の表情について、那美さんが出した注文は「やすやすと往生おうじょうして浮いているところ」とのことでしたが、画工は「無暗むやみに気楽ではなお困る」といろいろと考えた末「憐れ」がふさわしい、と決めました。

 女の顔に「憐れ」の表情がふさわしいのは、何故でしょう?
 次々落ちる椿の様子が、これほどまでに印象的に描写されるのは、何か意味があるのでしょうか?
 画工が嫌いな、鮮やかに主張する椿を「自我」であるとすると、いったい誰の「自我」がこれほど幾多に散っているのか?
 『草枕』の時代背景を併せて考えると、自然と答えが出てきます。この絵のもうひとつの意図、それは当時、多くの死傷者を出した日露戦争で戦い、散った兵士たちへの鎮魂です。

 画工が、鏡が池で絵の図案を考えているところへ、馬子の源兵衛がやって来ました。
例の「鏡が池の嬢様」の伝説を話します。

鏡が池の嬢様
  1. 主人公は、何代か前の志保田家の嬢様(那美さんのご先祖様)
  2. 庄屋しょうやである志保田家の美しい嬢様が、家に逗留とうりゅうしている僧侶を見染めて、一緒になりたいと言って泣くが、親が反対し、僧侶を追い出した。彼女は僧侶を追いかけて池まで来たところで、池に身を投げて自死する。
  3. 嬢様は池に身投げするときに、ふところに一枚のかがみを持っていた。これが「鏡が池」の名前の由来になった。
  4. この嬢様の家(志保田家)には、代々気狂(きちが)いができる。

 源兵衛が立ち去った後も、絵について考えながら、鏡が池を眺めていた画工が、ふと目を上げると、なんと向こう岸の高いいわおの上に那美さんが立っています。

 余が視線は、蒼白あおじろき女の顔の真中まんなかにぐさと釘付くぎづけにされたぎり動かない。女もしなやかなる体躯たいくせるだけ伸して、高いいわおの上に一指も動かさずに立っている。この一刹那いっせつな! 
 余は覚えず飛び上った。女はひらりと身をひねる。帯の間に椿の花の如く赤いものが、ちらついたと思ったら、すでに向うへ飛び下りた。夕日は樹梢じゅしょうかすめて、かすかに松の幹を染むる。熊笹はいよいよ青い。
 また驚かされた。

『草枕』10章

 「私は近々投げるかも知れません」の予告がよく効きました。予告どおり本当に身投げをするんじゃないかと驚いた画工は、思わず飛び上がってしまいました。実際には、池に飛び込みそうなフリをしてみせただけで、身をひねって池とは反対側のほうに飛び降りたのです。那美さんは「鏡が池の嬢様」を演じていた訳です。注目ポイントは、帯の間の「椿の花の如く赤いもの」。「鏡が池の嬢様」は、ふところに一枚の鏡を抱いていましたが、那美さんは、鏡を「椿の花の如く赤いもの」で代用しました。これは「椿」だと考えてよいでしょう。

ふところに「鏡」を抱いて身を投げた嬢様、これが「鏡が池」の由来である、という物語ですから、この点を重視して、よく考えましょう。虚無僧と一緒になることを許さなかった親の「不人情」もあったとはいえ、「鏡」を抱いて身投げした嬢様の胸中にあったものは、恋した虚無僧への想いよりも「悲恋に死ぬ美しい私」「悲恋に死ぬという詩趣」だったでしょう。彼女は、自己を貫こうとする意志と共に死んだのです。結婚を許してくれない親に反抗する意志もあったでしょう。
 自己犠牲の「長良の乙女」に対して、女にだって「自我」があるのだ、どうせ死ぬなら「鏡が池の嬢様」のように、自己を貫いて死にたい。というのが、那美さんの主張です。

 しかし我の強い人間は、扱いに困る存在です。源兵衛は、嬢様の身投げに対して「まことにしからんことでござんす」とコメントしています。4番「この嬢様の家(志保田家)には、代々気狂きちがいができる」とされてしまっています。源兵衛が言うには、去年死んだ那美さんの母もすこし変であり、那美さんも近頃は少し変だと皆がはやす、とのことです。
 親に引き離されても僧侶を追って、身投げした「鏡が池の嬢様」は、封建的な親に従えない程に、気が強い。志保田家の人間は、代々気が強い。気が強くて、反抗的とも見える人間は、田舎の村では「気狂きちがい」と呼ばれてしまうのです。

 「人情」対決は「長良の乙女」vs.「鏡が池の嬢様」、村の伝説対決でした。
 水へ身を投げたという点が似ている二人の女ですが、その心の内は、全く違いました。
 あなたはどちらの死に共感できますか?(続く)

続きはこちら⇒謎解き『草枕』その3

猫枕読書会のおすすめ
芥川龍之介『藪の中』その真相に涙する「文芸的な、余りに文芸的な」嘘