人格ある個として生きる
私はあなたがたが自由にあらん事を切望するものであります。同時にあなたがたが義務というものを納得せられん事を願ってやまないのであります。こういう意味において、私は個人主義だと公言して憚らないつもりです。
自由を求め、義務を受け入れること、それが私の個人主義だと漱石は言います
個人の自由は個性の発展のために極めて必要で、その個性の発展が幸福に非常な関係を及ぼすのだから、他に影響のない限り、自分でも把持し、他人にも附与しなくてはなるまいかと考えられます。それがとりも直さず私のいう個人主義なのです
権力も金力も同じである。いろいろな弊害は、道義上の個人主義を理解し得ないから起る。権力や金力で、自分のことだけを推し広めるのは「個人主義」ではなく、それはただの「わがまま」つまり「利己主義」である。
だから個人主義、私の述べる個人主義とは、けっして俗人の考えているように国家に危険を及ぼすものでも何でもないので、他の存在を尊敬すると同時に自分の存在を尊敬するというのが私の解釈なのですから、立派な主義だろうと私は考えているのです。
それは党派心がなく理非がある主義だとし、権力や金力のために分別を欠いた行動はしないということ、ゆえに人に知られない淋しさも潜んでいると言う。
我は我の行くべき道を勝手に行くだけで、そうして同時に、他人の行くべき道を妨げない、だから、ある時ある場合には人間がばらばらにならなければなりません。そこが淋しいと説きます。
これは、自由や民主という考え方、つまりは専制や封建からの解放は、人間をばらばらにすることであり、そこに淋しさもあるということです。
小説『こころ』のなかの最も有名な言葉のひとつでもある「自由と独立と己とに充ちた現代に生まれた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう」ということですね。
個人主義は人を目標として向背を決する前に、まず理非を明らめて、去就を定めるのだから、ある場合にはたった一人ぼっちになって、淋しい心持がするのです。
つまり相手の地位や所属する集団に対して従うか否かではなく、倫理や道徳というまさに人の道にかなっているか否かで判断することなので、時として、ひとり孤独を味わうことがあるというのです。
個人主義と国家の関係
最後に漱石は個人主義と国家主義について論じます。
当時の日本は、個人よりも国家が優先される時代だったと言えるかもしれません。しかし漱石は、個人主義は国家主義の反対のように取られるが、そんな理窟の立たないものではないとします。
個人主義と国家主義は対立概念ではないとしています。
漱石はもともと何々主義というのを好まず、人間はそう一つ主義に片づけられないとします。要するに、何々主義というものに縛られることはできないというのです。私共は国家主義でもあり、世界主義でもあり、同時にまた個人主義でもあるといいます。そして、
個人の幸福の基礎となるべき個人主義は個人の自由がその内容になっているには相違ありませんが、各人の享有するその自由というものは国家の安危に従って、寒暖計のように上ったり下ったりするのです 。
個人の幸福は、個人の自由の上に成立するが、その前提には国家があることはいうまでもない。国家、つまり日本という国が危くなれば個人の自由が狭められ、日本という国が泰平の時には個人の自由が膨脹して来る、それが当然ではないかとします。さらに漱石は続けます。
国家は大切かも知れないが、そう朝から晩まで国家国家と云ってあたかも国家に取りつかれたような真似はとうてい我々にできる話でない。
いったい国家というものが危くなれば誰だって国家の安否を考えないものは一人もない。国が強く戦争の憂が少なく、そうして他から犯される憂がなければないほど、国家的観念は少なくなってしかるべき訳で、その空虚を充たすために個人主義が這入ってくるのは理の当然と申すよりほかに仕方がないのです。
これは日本人が日本国に帰属するかぎり、自然の成り行きだと思います。
だからこの個人主義と国家主義という二つの主義は、矛盾して撲殺し合うという厄介なものではないと漱石は信じているのです。その通りですよね。さらに漱石は、こう明言します。
国家的道徳というものは個人的道徳に比べると、ずっと段の低いもののように見える事です。 元来国と国とは辞令はいくらやかましくっても、徳義心はそんなにありゃしません。詐欺をやる、ごまかしをやる、ペテンにかける、めちゃくちゃなものであります。
この講演の時点で、すでに欧州戦争、後に命名された第一次世界大戦は始まっています。四年にも亘る世界規模の戦争となりました。日英同盟を結んでいた日本は、熟議の末、参戦を決めます。各国の利害がぶつかりあい、さまざまな謀略が渦巻いていたはずです。国と国の間では、お互いの国益のための権謀術数があり、徳義心などそんなにない。
そのうえで求められるのはタフな為政者であるはずです、それが世界の常識であり現実なのでしょう。
だから国家を標準とする以上、国家を一団と見る以上、よほど低級な道徳に甘んじて平気でいなければならないのに、個人主義の基礎から考えると、それが大変高くなって来るのですから考えなければなりません。
だから国家の平穏な時には、徳義心の高い個人主義にやはり重きをおく方が、私にはどうしても当然のように思われます。
講演の時間切れで漱石の話はここで終わりますが、最後のこの部分も含蓄のある話だと思います。個人と国家の関係について語っています。
話がそれますが、世界価値観調査という意識調査で「戦争があったら戦いますか?」という質問に「はい」と答えた率は、調査対象国の中で日本は最低の13.2%であることや、「わからない」と答えた率は日本は最高の38.1%だったとのこと。
現代の日本人の感覚は、漱石の生きた明治・大正の頃とずいぶん違うようです、この問題は、きちんと考える必要がありそうです。何より、漱石は国家よりも個人のほうが上等、人格が上であることを信じ、人々が高い徳義心を持つことを願っているようです。