夏目漱石『私の個人主義』解説|漱石の語る、個人主義とは何か。

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自己本位とは何か

そして漱石は、文芸に対する自己の立脚地りっきゃくちを新しく建設するために

一口でいうと、自己本位という四字をようやく考えて、その自己本位を立証するために、科学的な研究やら哲学的の思索にふけり出したのであります。

と言います。

神経症に陥るほど悩んでいた漱石ですが、「自己本位」という立場をとることで大変強くなったと言います。この場合の自己本位は、人真似や受け売りという「他人本位」とは反対の態度として、漱石が考えた四文字です。

「自己本位」という言葉によって、かれら何者ぞやという強い意志が出たというのです。今まで茫然自失していた自分を導いてくれたというのです。

私は多年の間、懊悩おうのうした結果ようやく自分の鶴嘴つるはしをがちりと鉱脈にり当てたような気がしたのです。

やっと見つけることができたのです。こうして漱石は自身の事業をやり上げようと意気揚々と帰国をします。そして、聴衆に語ります。

 何かに打ち当るまで行くという事は、学問をする人、教育を受ける人が、生涯の仕事としても、あるいは十年二十年の仕事としても、必要じゃないでしょうか。ああここにおれの進むべき道があった! ようやく掘り当てた! こういう感投詞を心の底から叫び出される時、あなたがたは始めて心を安んずる事ができるのでしょう。

何かに打ち当るまで進み続け、鉱脈を掘り当てたときに、強い自信が自分のものとなる。そうしないと、生涯不愉快で、始終中腰で世の中にまごまごしていなければならないといいます。

そして、その態度は、

必ずしも国家のためばかりだからというのではありません。またあなた方のご家族のために申し上げる次第でもありません。あなたがた自身の幸福のために、それが絶対に必要じゃないかと思うから申上げるのです

これこそが漱石のいう「自己本位」という意味なのです。

権力と金について

次に漱石は権力について語ります。

社会的地位のある人が集う学習院。あなた方が世に出れば、より多く権力が使える。そこで権力を使う者への心得を話します。

権力とは先刻さっきお話した自分の個性を他人の頭の上に無理矢理にしつける道具なのです。道具だと断然云い切ってわるければ、そんな道具に使い得る利器なのです

さらに続けて金力について語ります。

個性を拡張するために、他人の上に誘惑の道具として使用し得る至極重宝なものになるのです。

権力と金力とは、自分の個性を他人の頭の上にしつけたり、自分の方におびき寄せたりできる、大変、役に立つ道具とします。そして、

こういう力があるから、偉いようでいて、その実非常に危険なのです。

自分の個性を発展させようとして自他の区別を忘れて、あいつもおれの仲間にり込んでやろうという気になる。権力があると強引に相手に強いるし、金力があると、金の誘惑の力で自分に気に入るように変化させようとする。それは非常に危険なことだという。

ここでも小説『こころ』を取り上げてみます。先生はKを下宿に住まわせます。簡単に経緯を述べますと、先生とKは同郷で幼馴染み、大学でもお互い切磋琢磨してよい意味で競い合っています。

しかし次男のKは養子にやられて医者の跡を継ぐ条件を無視して宗教の道に進もうとします。これがばれて勘当されてしまうのです。学費に窮し精神的に病んでくるKに対して、先生はKへの友情で、見るに見かねて下宿代の面倒は先生が見て二人は同居するのです。

先生のKへの思いやりが前面に出ていますので、その後の展開は残酷な感じがします。権力や金に対して、漱石は義務や責任を問いたかったのでしょう。もちろん小説ですから「恋は罪悪で神聖なもの」として「恋」が「こころ」を捕らえて人間を惑わせることになってしまいます。

そこで漱石は、以下のように考えを整理します。

自分の個性が発展できるように邁進まいしんしなければ一生の不幸である。しかし自分がそれだけの個性を尊重し得るように、他人に対してもその個性を認めて、彼らを尊重しなければならない。つまり、

自分がひとから自由を享有きょうゆうしている限り、他にも同程度の自由を与えて、同等に取りあつかわなければならん事と信ずるよりほかに仕方がないのです。

自分の自由だって他者から許されているからこそ有しているわけだから、他者にも同じようにしなければならない。つまり他人の自由も認めなければならないとするのです。

近頃自我とか自覚とか唱えていくら自分の勝手な真似をしても構わないという符徴ふちょうに使うようですが、その中にははなはだ怪しいのがたくさんあります。彼らは自分の自我をあくまで尊重するような事を云いながら、他人の自我に至ってはごうも認めていないのです。

いやしくも公平の眼を具し正義の観念をもつ以上は、自分の幸福のために自分の個性を発展して行くと同時に、その自由を他にも与えなければすまん事だと私は信じて疑わないのです。

この部分はとても大事ですよね。自分勝手な自我や自覚は注意が必要だというのです。先生とKの出来事のように、最初の善意が、何かのきっかけで悪意に変わることだってあるのです。

自分の欲望が大きくなるほどに相手の立場に立つことは少なくなっていくことが、人間の常なのだと思うくらいの控えめさが必要だと思います。そして、

義務の附着しておらない権力というものが世の中にあろうはずがないのです

責任を解しない金力家は、世の中にあってならないものなのです。

漱石はさらに権力によって他人の自由を妨害してはならないといいます。「妨害」という言葉を使います。学習院に集う人々は、妨害し得る地位に将来立つ人が多いからだというのです。

そして金は人間の徳義心を買いめて、魂を堕落させる道具にもできる。金を所有している人が、徳義心をもって、道義上害のないように使いこなすよりほかに、人心の腐敗を防ぐ道はないというのです。 社会的地位、権力そして金力を持つ者は、義務と責任が伴うといっているのです。こうして、

第一に自己の個性の発展を仕遂しとげようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならないという事。

第二に自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに附随している義務というものを心得なければならないという事。

第三に自己の金力を示そうと願うなら、それに伴う責任をおもんじなければならないという事。

いやしくも倫理的に、ある程度の修養を積んだ人でなければ、個性を発展する価値もなし、権力を使う価値もなし、また金力を使う価値もないという事になるのです。

個性や権力や金力を謳歌するものは、その前提として倫理的に修養を積んだ人であること、つまりは人格者でなければならないとするのです。

人格のないものがむやみに個性を発展しようとすると、他を妨害する、権力を用いようとすると、濫用に流れる、金力を使おうとすれば、社会の腐敗をもたらす。ずいぶん危険な現象を呈するに至るのです。