村上春樹『海辺のカフカ』解説|メタフォリックに、運命を生きる

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もうひとつの予言「母親と交わる」についてどうなったのかと、最後に、作品の伝えたかったメッセージを考えてみます。

佐伯さんの空虚な魂

<入り口の石>が開いたことは、ナカタさんだけではなく、佐伯さんにも影響を及ぼします。

図書館の館長、佐伯さんについての話が前後しましたが・・・

佐伯さんには、幼いころから許嫁がいて、お互い良家で美男美女、一心同体で、誰の侵入も許さない完璧な円の内側のような幸福な関係でした。

彼女は19歳のときに東京で暮らしていた恋人の甲村青年を思い、歌をつくります。曲のタイトルは「海辺のカフカ」。この楽曲が大ヒットした20歳の時に、突然、不幸が訪れます。

恋人が大学紛争に巻き込まれて死んでしまうのです。

佐伯さんは絶望の中、人々の前から姿を消します。25年後に、ふらり高松に戻り、甲村家と話がもたれ、甲村図書館の責任者となるのでした。

図書館は、佐伯さんの記憶のすべてです。 なぜか?

それは、この場所が甲村青年の書庫であり部屋だったからです。佐伯さんは毎日のように甲村青年に会いに来ていました。ここは二人にとって楽園でした。

カフカが寝泊まりしている部屋に、ある夜、幽霊がやってきます。それは現在の佐伯さんの生き霊が15歳の美しい少女に憑依したものでした。

源氏物語や雨月物語などでは、生き霊はあたりまえと大島さんは説明してくれます。

カフカは、<あちら側>の異界からきた15歳の少女に恋をします。それは15歳の佐伯さんです。カフカにとって、初めての恋の感情でした。

佐伯さんは、死んだ恋人から贈られた絵に描かれた海辺に佇む少年を、孤独な作家 カフカに見立て歌をつくりました。その絵が飾られた部屋。そこは、かつて佐伯さんの恋人が使っていた部屋で、現在、カフカ少年が暮らしています。

佐伯さんには子供を捨てた過去があるようです。

カフカが佐伯さんを母と思うこと、佐伯さんがカフカを我が子と思うことは、ある種の共感や共鳴に近い感情です。

何回目かの夜に、今度は、現在の佐伯さんの生き霊があらわれ、カフカ少年と 交わります。

佐伯さんにとっては、恋人の甲村少年の霊が、カフカ少年に憑依している状態です。カフカを息子として、そして恋人として愛したのです。

カフカは、佐伯さんへの恋を告白し、佐伯さんが、この街で死のうとしているのではないかと質(ただ)します。

佐伯さんは、死を待っていて、「その時刻はだいたいわかっている」とカフカに答えます。

佐伯さんはカフカを誘って海辺に生き、語らい、部屋に戻り、ベッドで抱き合う。 終わったあとで佐伯さんは泣く。そして帰っていった。

この部分が、「母親と交わる」という予言が果たされたことになります。これは、現実の出来事です。しかし夢の中のような描かれ方です。

カフカは佐伯さんを母と考えています。しかし、佐伯さん自身が、カフカの仮説を否定しています。きっと本当の母親ではないのでしょう。しかし、ここもメタフォリックに解釈すべきだと思います。

佐伯さんは時間を取り戻し始めています。

「私のまわりで何かが変わりはじめている気がする」と言い、カフカは、自分も佐伯さんも「失われた時間を埋めようとしている」のだと言います。

これは、ナカタさんが「入り口の石」を開いたタイミングと同じころです。佐伯さんもまた魂を再生させ始めたようです。

星野さんはレンタカーを借り、ナカタさんとあてどなく高松市内を走ります。辿り着いた場所、そこは“甲村図書館”でした。

ナカタさんは佐伯さんと面会します。佐伯さんは言います。

「もし思い違いでなければ、たぶん私は、あなたがいいらっしゃるのを待っていた のだと思います」

「はい。たぶんそうであろうとナカタも考えます」(42章P353)とナカタさんも答えます。

甲村図書館は、この物語の中核となるトポスであり大きな磁場だと先に述べました。

「時間がかかりました。お待たせしたのでは」というナカタさんに対して、佐伯さんは、「今がいちばん正しい時間です」と答え、二人は<入り口の石>のことを話します。

ナカタさんはそれを開けなくてはならなかったことを告げると、

「わかっています。いろんなものをあるべきかたちに戻すためですね

と佐伯さんは言い、ナカタさんはうなずきます。

ナカタさんは、15歳の少年のかわりに、ひとりの人を殺したと言います。

ここではっきりと、ナカタさんは、カフカのかわりに殺したと告白しています。ジョニー・ウォーカー(外部)≒田村浩一(肉体)の証明です。

佐伯さんは遠い昔に、愛していたものが失われたときに、<入り口の石>を開けてしまい、自分を傷つけ、他人を傷つけ、あちこちに歪(ひず)みをつくり出した、今、その報いを受けている。呪いといってもいいと言います。

ここで<入り口の石>が二つの物語を接続することになりました。

佐伯さんは、あるべき姿に戻るためには、<入り口の石>を閉じなければならないと言い、ナカタさんは、そうなれば「佐伯さんはここには残ることはできない」と言うと、佐伯さんは「けっこうです」と答え、

佐伯さんは、「それは長いあいだ求めていたことでした」という。

佐伯さんもまた半分しか影が無いのです。佐伯さんもナカタさんも、<こちら側>の世界から<あちら側>の世界に行かなければなりません。

それは、元の自分を取り戻すことです。

佐伯さんの人生は、恋人が亡くなった20歳の時点で停止しました。

以降は、過去に生きる抜け殻です。空虚なままに多くの間違った恋愛を重ね、その後は自分で自身を貶め、損なった傷跡が残されただけだといいます。

そんな人生の記憶の全てを綴った三冊のノートは、佐伯さんの願いで、ナカタさんは星野青年に手伝ってもらい、完全に灰にします。煙は空に昇っていきました。

ナカタさんが帰ったあと、佐伯さんは図書館の二階のいつもの書斎で死んでいました。発見者は、大島さんでした。

役割を終えたナカタさんもまた、深い眠りの中で静かに息をひきとります。その死に顔は穏やかでした。

死を彷徨うカフカ

警察の捜索が近づき、大島さんはカフカを山中のキャビンに隠します。

カフカは、母親に愛されなかったこと、自分が捨てられたことで、自分は生きる価値がないと考えます。

カラスと呼ばれる少年が言います。

起こったことは仕方がないんだ。君は若い。彼女のことは許さなければならない。それが君の唯一の救いになる。と・・・

森は異界です。そこに入ることは、潜在意識の深層を訪ねることです。死に向かう危険な行為です。カフカは苦しんでいます。

「佐伯さんは僕のほんとうの母親なんだろうか?」

ずいぶんと森を進み、深く入ったところで、異界に棲む旧日本軍の兵隊が二人、現れて、さらに奥へとカフカを誘い、平たい地に辿り着きます。

そこには、また部屋がありました。部屋には、電気があり水道もありテレビもあり、食糧も充分にありました。この部屋は、カフカの深層意識に映る光景です。

眠りから目を覚します。台所では15歳の少女(佐伯さん)が料理を作っています。ここは時間も名前も無い。無意識の世界。

彼女は言う。

「つまりあなたが森の中にいるとき、あなたはすきまなく森の一部になる(中略) あなたが私の前にいるとき、あなたは私の一部になる」

すべてが融合した、ひとつの世界。ここは世界の終わりです。

そこに大人の佐伯さんがやって来ます。まるで15歳の佐伯さんが、瞬間に50代になったように・・・

「今ここに来るのも、ほんとうのことをいえば、そんなに簡単じゃなかった。 でもどうしてもあなたに会って話をしたかったの」

と佐伯さんも時空を超えて、カフカに会うために異界に入ってきます。

佐伯さんの肉体はすでに無くなった(死んだ)状態なので、ここに来たのは魂です。

佐伯さんは、入り口は閉じてしまうから、森を抜けてもとの生活に戻るようにと約束させます。

このときのカフカの魂は、生と死の間にある状況で、森にいつづけることは肉体の死を意味します。

『もとの生活』なんて何の意味もないと、カフカは言います。誰かに本当に愛されたことがない。誰も自分を求めていない。佐伯さんも、もういないことをカフカは知っています。

すると、佐伯さんが言います。

「あなたに私のことを覚えていてほしいの。あなたさえ私のことを覚えていて くれれば、ほかのすべての人に忘れられたってかまわない」

そして、あの部屋にかかった絵を持っていてほしいという。

「海辺のカフカ」・・・佐伯さんにとって20歳のときに死んだ恋人であり、絵の中の海辺の少年であり、その少年は、現在、目の前にいるカフカなのです。

「あなたは僕のおかあさんなんですか?」とカフカは訊ねる。「その答えはあなたにはもうわかっているはずよ」と佐伯さんは言う。

そしてカフカは言う。

「佐伯さん、もし僕にそうする資格があるのなら、僕はあなたをゆるします」

このとき、カフカは自分を裏切った母親を赦(ゆる)します。このことで、佐伯さん自身も子供を捨てた過去を赦されるのです。

この部分は、夢を見ている感覚で読んでいくのがいいですよね。

カフカは入り口を目指して歩く。しかし、引き戻されようとする。そこには15歳の少女が待っている。佐伯さんが言う。

「それでもあなたは戻らなくっちゃいけないのよ」「私がそれを求めているのよ。あなたがそこにいることを」

そして生きる意味に迷うときは絵を見なさいと言い残して去っていく。呪縛が解ける。カフカは森の中を抜けることに集中する。

愛する人の記憶に生きる 

最後に<入り口の石>を閉じることが必要となります。

同じころ星野青年は、ナカタさんの口から出た、目もなく口もなく鼻もない、ぬるぬるした白く光っている根源的な<悪>を、<入り口の石>を閉じることで、退治しました。

これで晴れて、<入り口の石>を開き/閉じることで、ナカタさんは、あるべき姿に戻ることができました。

星野青年もまた、ナカタさんの記憶を抱き続けて生きていこうと思います。

一方、甲村図書館に戻ったカフカは、大島さんから佐伯さんが死んだことを聞きます。カフカは、すでにそのことを知っています。

佐伯さんの記憶がカフカの中に、カフカの記憶が佐伯さんの中に生き続けるのです。

佐伯さんもナカタさんも本来のあるべき姿を取り戻しました。そして、カフカ少年と星野青年には、愛する人が記憶され続けることになります。

大島さんはカフカに言う。

「僕らはみんな、いろんな大事なものをうしないつづける」(中略)「大事な機会や可能性や、取りかえしのつかない感情。それが生きることのひとつの意味だ。でも僕らの頭の中には、たぶん頭の中だと思うんだけど、そういうものをとどめておく ための小さな部屋がある」

それが、図書館の書架(しょか)みたいな部屋だろうと言います。

カフカのイマジナリーフレンドの「カラスと呼ばれる少年」は言います。

「君はいちばん正しいことをした。ほかの誰をもってしても、君ほどにはうまくできなかったはずだ。だって君はほんものの・・・・・世界でいちばんタフな 15歳の少年なんだからね」

それでも、まだ生きる意味がわからないというカフカに、「絵を眺めるんだ」そして「風の音を聞くんだ」と言います。

うつろな人間にならないように

最後に感想です。

大島さんがT・S・エリオットの<うつろな人間たち>になぞらえて話す場面

想像力を欠いた狭量さ、非寛容さ。ひとり歩きするテーゼ、 空疎な用語、簒奪された理想、硬直したシステム。

大島さんはそういうものを心から恐れ憎むことが、生きるための大切な約束事だとします。

うつろな人間とは、藁くずが詰まったような人間。藁くずとは、知識や観念だけで、常識を忘れ、倫理を忘れ、信仰を忘れている人たち。どんなに頭は良くても、藁くずと同じなのです。

カフカは、強くなるということの意味を述べます。それは決して勝ち負けのことではなくて・・・

僕が欲しいのは外からやって来る力を受けてそれに耐えるための強さです。不公平さや不運や悲しみや誤解や無理解―そういう物事に静かに耐えていくための強さです

と言います。

この作品は、2002年9月に発刊されました。

人々のミレニアムへの希望を打ち砕くように、2001年(11月)に、アメリカ同時多発テロ事件が起こり、2003年(3月)にはイラク戦争が開戦、2008年のリーマンショック(9月)に端を発し、世界は金融危機となります。

村上春樹は2009年、「社会における個人の自由」を作品で表現し広める作家に贈られるイスラエルの文学賞「エルサレム賞」(英語:Jerusalem Prize for the Freedom of the Individual in Society)を受賞します。

授賞式の直前にも、イスラエル軍はガザ地区に大規模な空爆や地上侵攻を行い、1000人を超える市民が犠牲になり、その1/3は子供たちでした。

授賞式に臨むかどうか、臨めば、イスラエルを擁護することになるとして、辞退を求める声があったとしながらも、村上は出席を決断し、印象的なスピーチを行います。

「高く強固な壁とそれに打ち砕かれる卵があるなら、私は常に卵の側に立つ」

さらに・・・、壁がどれだけ正しく、卵がどれだけ間違っていたとしても、私は卵の側に立ちます。と付け加えます。

そのメタファーは、「壁」とは体制やシステムであり、「卵」とは個人や市民です。

人間に襲いかかってくる不条理。国家であれ、宗教であれ、民族であれ、社会であれ・・・ 私たちは、突然に、日常を奪われ、不幸に見舞われることもあります。

呪われた運命、予期せぬ出来事、知らされた真実、癒されることのない苦悩。

この作品は、ギリシャ悲劇『オイディプス王』を下敷きにしています。人生はドラマ。このいい方もまたメタファーですよね。

世界はろくでもない悲劇がいっぱい。でも耐えて生き抜かなければなりません。

私たちは、けっしてうつろな人間になってはならないのです。

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