川端康成『日向/掌の小説』解説|初恋と祖父の思い出。

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人の顔をじろじろと見る癖に嫌悪する私は、孤児ゆえに相手の顔色をうかがっていると思っていたが、実は盲目の祖父の顔をずっと見ていたのが理由だと気づく。祖父はいつも明るい南の方を向いていた。私はこれから生涯を伴にするであろう、この初恋の人と、今このとき、祖父の思い出と一緒に日向を歩きたいと思った。

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登場人物


人の顔を凝視するのが癖で、その悪い癖で恋人の顔もじっと見てしまっている。


初恋の相手で、顔を見られることを恥ずかしがりながらも優しく包んでくれる。

あらすじ

相手の顔をじろじろ見る癖は、顔色をうかがう孤児根性のせい。

二十四歳の秋、私はある娘と海辺の宿で会った、恋の初めであった。娘がたもとを持ち上げて顔を隠すので、また自分が悪い癖を出したのだと気づき、照れて苦しい顔をした。

「やっぱり顔をみるかね。」と言うと、「ええ。でも、そんなでもありませんわ。」と返してくる。

“そんなでもありませんわ” と言われたのがおかしかったので、少し助かった。私には傍にいる人の顔をじろじろと見て、相手を困らせてしまう癖がある。

私はこの癖を直そうと常々思っているが、この癖を出している時に、自己嫌悪を感じる。

この癖は幼いときに両親や家をくし他家にやっかいになっていたので、人の顔色ばかりを読んでいたからと思うからであった。

ある時、私はこの癖が人の家に引き取られてから出来たのか、その前に自分の家にいた時分からかを懸命に考えたが、明らかにしてくれるような記憶は浮かんでこなかった。

卑しい心の名残でないことを安堵し、初恋の人と結ばれる幸せを思う。

その時、娘を見まいとして目をやった海の砂浜は秋の日光に染まった日向ひなただった。この日向が、ふと埋もれていた古い記憶を呼び出してきた。

祖父は盲目で、いつも同じ部屋の同じ場所に長火鉢を前にして東を向いて座っていた。そして時々、首を動かしては南を向いた。私はある時、祖父のその癖に気がついて、度々、長い間、祖父の前に座ってじっと顔を見ていた。それでも首は南だけを向くのだった。

南は日向ひなただ。南だけが、盲目にもかすかに明るく感じられるのだと思った。

忘れていたこの日向ひなたのことを思い出し、相手が盲目なので自然に私の方からしげしげと見ていることが多かったのだ。この癖は卑しい心の名残ではないと分かった。

「慣れているけれど、少し恥ずかしいわ。」と言われ、私は明るい顔で娘を見た。

娘は少し赤くなり、ずるそうな眼をしてみせて「私の顔なんか、今に毎日毎晩で珍しくなくなるんですから、安心ね。」と幼いことを言った。

娘と祖父の記憶とを連れて、砂浜の日向ひなたへ出てみたくなった。

動画もあります、こちらからどうぞ↓

解説

これから毎日毎晩なので、珍しくなく安心すると言う初恋の女性。

川端は、幼い頃(二歳と三歳)に両親を失い孤児となり祖父と暮らします。

人の顔をじっと見る癖は、孤児ゆえに人の顔色を気にしているからと心配しますが、いよいよ結婚を前に、その初恋の相手と海辺で語らいながら、ふと視線を向けた日向から古い記憶が呼び出され、十年来、育ててくれた盲目の祖父の顔をじっと見続けていたことが理由だと安心します。

そしてこれから人生を共に歩もうとするこの初恋の女性は、じっと顔を見ている私に対して、

最初は「ええ。でも、そんなでもありませんわ。」と気遣う答えをして、私が悪いかねと訊ねると、

いいえ。いいにはいいんですけれど。いいですわ。」と視線を受けようとする。私の癖を何とか、傷つけることなく受け入れようとしてくれているのだ。

そして「慣れているんですけれど、少し恥ずかしいわ。」と恥じらいを装い、そして視線を自分の顔に向けることを認める。

最後には「私の顔なんか、今に毎日毎晩で珍しくなくなるのですから、安心ね。」と言います。

人の顔を見る癖が、卑しさの理由からではないことがわかった私の安堵と同時に、そのことを可愛らしい言葉で、受け止めてくれようとする伴侶となる女性。

盲目の祖父が、南を向いて明るさを探していたように、今の私はこの幼く優しい恋人をずっと見つめながら、生きていきたいと思う。そんな微笑ましい語らいです。

それは川端の初恋であり、日向にむかうような幸せなひととき。

一高時代に伊豆への一人旅を終え、その後、川端はカフェの女給、伊藤初代に恋をします。まだ十三歳でした。その思いは強く、川端が二十ニ歳、伊藤初代が十五歳で婚約をします。

この恋愛をモチーフに「日向ひなた」は書かれます。

この恋人に、孤独から解き放たれ暖かい日向にいるようなひととき、二人で生きていくことを夢見る初恋の思いが瑞々しく描かれています。

最後の会話で、赤くなりいたずらな眼をしてみせ「私の顔なんか、今に毎日毎晩で珍しくなくなるので、安心ね。」と幼いことを言うあたりは、じっと相手の顔を見ることに自己嫌悪していた私に対して、そんなことは、日常の生活では平気になるのだと、これから夫婦となり日々一緒にいることの幸せと安らぎを伝えます。

家族の暖かさを知らずに育った孤独な川端にとって、すべてを包み込んでくれる明るく暖かい日差しのようなかけがえのないひとときです。

この恋と一緒に、祖父との思い出を抱えて日向ひなたに歩きたい幸せな気持です。

この婚約は結局は破婚はこんとなります、その苦しみから抜け出すように、その前に伊豆を一人旅した思いと、この初恋の思いとを結晶して完成した作品が「伊豆の踊子」となります。

Bitly

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作品の背景

川端は「大半は二十代に書かれている。多くの文学者が若い頃に詩を書くが、私は詩の代わりに掌の小説を書いたのだろう、若い日の詩精神はかなり生きていると思う」と述べています。大正末期に超短編の流行があったが永続はせず、川端のみが洗練された技法を必要とするこの形式によって、奇術師と呼ばれるほどの才能を花開かせます。

大正十二年から昭和四、五年に至る新感覚派時代で作品の大半はこの時期に書かれています。内容は、自伝的な作品で老祖父と初恋の少女をテーマにしたもの、伊豆をテーマにしたもの、浅草をテーマにしたもの、新感覚派としての作品、写生風の作品、さらに夢や幻想の中の作品など幅広い。

発表時期

1971年(昭和46年)、『新潮文庫』より刊行される。「掌の小説」(たなごころのしょうせつ)あるいは(てのひらのしょうせつ)とルビがふられる場合もある。川端が20代のころから40年余りに亘って書き続けてきた掌編小説を収録した作品集。短いもので2ページ程度、長いもので10ページに満たないものが111編収録される。改版され全総数は127編になる。