川端康成『バッタと鈴虫/掌の小説』解説|少年の知慧と、青年の感傷。

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叢で虫を探す子供たちの一人、不二夫。提燈の灯のなか、鈴虫を手渡され眼を輝かせるキヨ子。少年時代の少女への憧れと会心の微笑み、やがて大人になり現実の中で心傷き、提灯に映し出された名前の美しさに気づくことの難しさを語る。

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戯れではない、永遠の美しさとは?

あらすじ

秋の叢のなか子供達は、五色の提燈を灯し虫捕りをしている。

大学の塀に沿って高校の前にさしかかると、校庭の黒い葉桜の下の仄暗ほのくらくさむらから、虫の声が聞こえて来る。足を緩め耳を傾け行くと、土手が始まる。

土手の裾に提燈のあかりの一団がいて、くさむらで虫をっている。提灯は、紅桃色、藍、緑、紫、黄の五色のをともしている。それは子供達が工夫を凝らして作った可愛らしい四角の提燈だった。

紙箱の表と裏を切り抜き紙を貼り、底に蝋燭ろうそくをつけ頭にひもがついている。明り取りに貼る紙を色どり絵を描き、まるく、三角に、菱形に、木の葉形に、それぞれの紋様がある。

そして、「我が提燈よ!最も珍しく美しかれ!」と虫りにでかける。

提燈には「ヨシヒコ」とか「アヤ子」とか名前が刻み抜かれている。こうして二十ほどの灯がくさむらに射し照らされて、子供達は一心に虫の声を頼りに土手にしゃがんでいる。

「誰かバッタ欲しい者はいないか。バッタ!」と一人だけ離れたところで草を覗いている男の子が伸びあがり言った。「おくれ!おくれ!」と六七人の子供が駆け寄る。また別の子供達に向かって叫んだ。「おくれ!おくれ!」と別の四五人が走ってきた。

男の子は三度、叫んだ。「バッタ欲しい者いないか。」新たに二三人が近寄った。

「頂戴な。頂戴。」女の子が言った。

バッタと偽り鈴虫を女の子に手渡す、男の子の所作の理由と微笑み。

「バッタだよ。」「いいから頂戴!」男の子は、それ!と渡す。

あら!鈴虫だわ。バッタじゃなくってよ。」と女の子は眼を輝かせた。女の子は虫籠に虫を放し、他の子供達は、羨ましそう。

「ああ、鈴虫だよ。」男の子はつぶやき、女の子の顔を見た。

そうか!初めてこの時、さっきからの男の子の所作が読めた。

さらに、あっ!と私は驚いた。提灯の灯りで、女の子の胸に男の子の名前の「不二夫」が映り、男の子の腰に女の子の名前の「キヨ子」が映っていた。

そして鈴虫をやったこと、もらったことは、不二夫とキヨ子はいつまでも覚えていても、お互いの名前が、胸と腰に映ったことは知らないだろう。

不二夫少年よ!君が青年になった時に、女に「バッタだよ」と言って「鈴虫」を与え喜ぶのを見て、あるいは「鈴虫だよ」と言って「バッタ」を与え悲しむのを見て、会心の笑いを漏らしたまえ。

そしてきみ自身も、バッタのような女を鈴虫と思うことだろう。

心が傷つき、真の鈴虫までバッタに見え、バッタのみが世に満ちていると思われる日が来て、今宵の美しい提燈の灯りで、名前が映しだされたことを思い出す、そのすべがないことを残念に思う。

★動画もあります、こちらからどうぞ↓

解説

この僅かな文字数の掌編には、川端の若い頃の瑞々しい抒情性が漂うと同時に、鋭い観察眼と観念世界があります。それは二つの視点で描かれています。ひとつは、その童話のような世界、そしてもうひとつは所作からの寓意です。

①叢の子供達の虫り を「バッタと鈴虫」の童話の世界と見立てる。

語り手は、土手の上から子供達がくさむらで虫りをする様子を見ています。

二十人ほどの子供たちが提燈を手に手に集まっています。男の子も女の子もいます。提燈は、子供たちが工夫を凝らした自信作で、五色の灯をともし、それぞれ名前も切り抜かれています。語り手は、子供達を小さな美術家と称します。そしてその光の世界は幻想的です。

叢には、バッタなど秋の虫がいます。捕まえるのは、たいへんそうです。その中でも鈴虫は、鳴き声が奇麗なのか。男の子にも女の子にも、希少で価値が高く垂涎すいぜんまとのようです。鈴虫を捕まえた者は、きっと誇らしく人気者になれるのでしょう。そして、女の子の関心をより多く惹くことができます。

一人だけ他の子供達から四五間、離れたところで草むらを覗いている不二夫がいます。

不二夫は、バッタを捕まえて、「バッタ欲しいものいないか。バッタ!」と声をあげ注目を集めます。バッタでさえなかなか捕まらないようです。「おくれ!おくれ!」とあちらからもこちらからも男の子が集まってきます。三度、声をあげ女の子が来るまで繰り返します。

新しく近寄った二三人。「頂戴な。頂戴。」と言う女の子に、「バッタだよ。」と、わざわざバッタだと念を押します。そうして男の子の握ったこぶしを女の子が両手で包む。男の子の拳が静かに開かれて、女の子の親指と人差し指の間に移る。それは、男の子の手から女の子の手へ絡まる手のひらと指の隙間の交流です。

女の子は「あら!鈴虫だわ。バッタじゃなくってよ。」と眼を輝かせます。

「鈴虫だ!鈴虫だ!」他の子供達は羨ましそうにはしゃぎ声をあげ、「鈴虫よ。鈴虫よ。」と手にした女の子は、明るい知恵の眼を男の子に注ぎます。驚きとともに、いっそう喜びは大きくなります。

鈴虫を入れた虫籠を眺めている女の子に自分の五色の美しい提燈の灯りを与えながら、ちらちらと女の子の顔を見る。男の子にとっては、期待通りの成行きなのでしょう

子供たちはくさむらの中で提燈を掲げ、自分の名前を灯しながら虫を探す。語り手は、不二夫がバッタでなく鈴虫を捕まえておいて、周囲の羨望の中、女の子に手渡し、気を惹き、尊敬の視線を浴び、会心の笑みを浮かべる所作をずっと見ています。

そんな男の子と女の子の子供達の一団、提燈のあかりと虫、秋の叢を、童話の世界のように感じます。

②「バッタと鈴虫」を寓意とし、不二夫少年と大人の自分を重ね想います。

男の子の名前は「不二夫」。女の子の名前は「キヨ子」。そして「バッタと鈴虫」の童話は、さらに大人の世界の寓意を含みます。

名前が切り抜かれた提灯。キヨ子が真近になったため、白い浴衣の胸に緑の色を貼った形と色が「不二夫」と映し出されます。不二夫の腰のあたりには「キヨ子」と紅の色がほのかに映し出されます。

二人は、お互いの名前が映し出されたことを気づかない。だから、不二夫は<鈴虫をやったこと>を、キヨ子は<鈴虫をもらったこと>をいつまでも覚えていても、不二夫とキヨ子の名前が光でしるされたことを知らないのです。

揺れる緑と紅の光の名前 、それは かすかではあるが、二人の心が惹きあうはじまりかもしれません。

語り手だけが見つけた「戯れではない永遠」を、気づかないでいる二人には、将来、思い出すことは当然できません。そして語り手は、不二夫に言います。やがて少年から青年になって、

女に「バッタだよ。」と言い鈴虫を与え、女が「あら!」と喜ぶのを見て期待通りの笑みをしなさい。

そして又「鈴虫だよ。」と言いバッタを与え、女が「あら!」と悲しむのを見て期待通りの笑みをしなさい。

そのような知恵をもってしても、大人の世界にはそう簡単に鈴虫はいるものじゃない。君もバッタのような女を捕まえて、鈴虫だと思い込んでいることになるだろう。

心が傷つき、ほんとうの鈴虫までバッタに見え、バッタが世の中に満ちているように思われる日が来ても、少女の胸に映った君の名前の灯りを、語り手は「戯れでない永遠」の美しさと想うことができる。そして不二夫には思い出す方法がないことを残念に思う。

どんなに知謀を尽くし会心の微笑みを得ても意味はなく、作為や言葉では尽くせないもの、そんな偶然を儚い美しさと感じることができなければ、多くの大人と同じように、きっと君もまた心の感受性を持たない一人の大人になっていくのであろう。

秋の寂しい夜の叢に五色の提燈が灯り、子供たちの虫捕りで、名前が映されたことを<永遠の美しさ>とし、戯れの中で見た永遠と、やがて彼らに訪れる大人の世界の残酷な現実の感傷として描きます。

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作品の背景

川端は、「大半は二十代に書かれている。多くの文学者が若い頃に詩を書くが、私は詩の代わりに掌の小説を書いたのだろう、若い日の詩精神はかなり生きていると思う」と述べている。大正末期に超短編の流行があったが永続はせず、川端のみが洗練された技法を必要とするこの形式によって、奇術師と呼ばれるほどの才能を花開かせた。

大正十二年から昭和四、五年に至る新感覚派時代で作品の大半はこの時期に書かれている。内容は、自伝的な作品で老祖父と初恋の少女をテーマにしたもの、伊豆をテーマにしたもの、浅草をテーマにしたもの、新感覚派としての作品、写生風の作品、さらに夢や幻想の中の作品など幅広い。

発表時期

1971年(昭和46年)、『新潮文庫』より刊行される。「掌の小説」(たなごころのしょうせつ)あるいは(てのひらのしょうせつ)とルビがふられる場合もある。川端が20代のころから40年余りに亘って書き続けてきた掌編小説を収録した作品集。短いもので2ページ程度、長いもので10ページに満たないものが111編収録される。改版され全総数は127編になる。若い頃の川端の瑞々しい感受性に触れることのできる珠玉の掌編集です。