私は孤児根性の憂鬱に耐えきれず、一人、伊豆を旅する。知り合った旅芸人一行と心から語らい、家族のような感情を知り、無垢な踊子の純情に淡い恋心を抱きながら別れる。そして私は心を感じあえる人間に生まれ変われたことを素直に受け入れることができた。
登場人物
私
一校生で二十歳、孤児で憂鬱な気持ちから一人、伊豆の旅に出て旅芸人一行と伴にする。
踊子(薫)
旅芸人一行の踊子で十七歳に装うが、まだ十四歳の無垢で天真爛漫な美しい子ども。
男(栄吉)
旅芸人一行の座長で薫の実兄で二十四歳、実家は兄が継ぎ事情があって芸人となる。
千代子(上の娘)
旅芸人一行で栄吉の女房で十九歳、旅の途中で流産と早産で二度、子を亡くしている。
四十女(おふくろ)
旅芸人一行で千代子の実母で栄吉にとって義母、薫に芸を教えながら厳しく育てている。
百合子(中の娘)
旅芸人一行でただ一人家族ではない娘、大島育ちの雇われた芸者ではにかみ盛りの年頃。
あらすじ
孤児根性の憂鬱から一人、伊豆の旅に出て旅芸人の一行と出会う。
私は二十歳、高等学校の帽子をかぶり、紺がすりの着物に袴をはき、学生カバンを肩にかけ、一人伊豆の旅に出かけた。
道がつづら折りになり天城峠に近づいたと思う頃、雨脚が強くなってきた。天城峠の北口の茶屋に辿り着いて、期待通りに旅芸人の一行に追いついた。
茶屋の入口に突っ立っていた私に、旅芸人のひとりの踊子が座布団を勧めてくれた。煙草を取り出すと、煙草の盆を引き寄せてくれた。踊子は古風な不思議な髪を結っていて、卵形の凛々しい顔を小さく見せながら美しく調和していた。
私はそれまでにこの踊子たちを二度見ている。湯ヶ島へ来る途中、湯川橋の近くで会い旅情が自分の身についた。それから湯ヶ島に流して来た。そこで明日は天城を南に越えて湯ケ野温泉へ行くのだろうと想像し、天城七里の山道の茶屋でぴったりと落ち合ったのだった。
旅芸人の一行と伴にすることを決め、その日の踊子の一夜が心配になる。
小一時間経つと旅芸人たちは先にいで立った。天城トンネルの出口から峠道の裾の方に芸人一行が見えた。私は追いつき、追い越して、先を歩く男と並んで歩き始めた。後ろから女たちが走り寄ってきた。
私と男はすっかり親しくなって、私は旅芸人の一行と一緒に行くことにした。
木賃宿に着き二階に上がって荷物をほどいた。踊子がお茶を運んでくれたが、真赤になり手が震えてお茶がこぼれた。私はあまりにひどいはにかみように驚いたが、四十女は「まあ、いやらしい。この子は色気づいたんだよ。あれあれ」と言って手ぬぐいをなげて、踊子はそれを拾い畳を拭いた。
それから男は別の温泉宿に私を案内をしてくれた、私は芸人たちとは別々の宿だった。そこの内湯につかっていると、後から男が入ってきた。
夕方からひどい雨になった。こんな雨では流しに来ないと思ったが、太鼓の響きがして三味線が聞こえた。芸人たちは向かい合った料理屋の座敷に呼ばれていた。
酒宴は馬鹿騒ぎになり女の金切り声が闇夜に通る。太鼓の音が聞こえるときは胸が明るんだが、音が止むとたまらなかった。静けさが続くと、踊子の今夜が汚されているのであろうかと悩ましかった。
私は誤解をしていた、踊子は十四歳 無垢で天真爛漫な子どもだった。
あくる朝、起きたばかりの私は宿に来た男を誘い湯に行った。
私は昨日の夜のことを男に聞いた。男は「昨日の客はこの土地の人で、馬鹿騒ぎするのでおもしろくありません」と言った、そして「向こうのお湯にあいつらが来ています」と言われ、私は向こうの共同湯を見た。
突然、裸の女が走り出してきたかと思うと、両手をいっぱいに伸ばして何か叫んでいる。真っ裸だ。それが踊子だった。若桐のような足のよく伸びた白い裸身を眺めて、私は心に清水を感じ、ほうっと深い息を吐き、喜びでことこと笑った。「子供なんだ」
踊子が娘盛りのように装わせてあるので十七、八に見えていたが、とんでもない思い違いをしていた。
私は部屋で客の行商人と碁を打っていると流しがやってきた。私は手招きで呼んだ。 芸人たちは今夜の仕事はもう終わりにして、五目並べなどしながら部屋で遊んで行った。
一行の身の上話を聞き信頼しあい、私も家族のように受け入れられた。
その次の朝八時に出立し下田に行く約束だったが、今晩、お座敷が入ったので芸人たちは出立を一日伸ばすことになっていた。
明日は必ず立つし、明後日は、旅で死んだ赤子の四十九日なので、下田でこころばかりの供養をしてやりたい。そして不思議な御縁なのでよかったら一緒に拝んでやってくださいと言われた。私も旅芸人にあわせて出立を伸ばした。
私は男に散歩に誘われて外に出ると男は身の上話を始めた。東京で役者を少しやっていて今でも時々、大島の港で芝居をするという。自分の名は栄吉といい、女房が千代子、妹が薫、もうひとり百合子だけが大島育ちの雇いだという。そして四十女はおふくろという。
栄吉は身を誤った果てに落ちぶれてしまったことや、妹だけはこんなことをさせたくないと思いつめており、いろいろな事情があることなどひどく感傷的になっていた。
それから私は踊子と五目を並べた。彼女は不思議に強かった。だんだん我を忘れて一心に基盤におおいかぶさり、不自然なほどに美しい黒髪が私の胸に触れそうになった。
突然、ぱっと紅くなって「御免なさい、叱られる」と碁石を投げだして飛び出していった。
夜、私が木賃宿に出向いていくと踊子は三味線を習っているところだった。
踊子は美しく一行は野の匂いをさせ、私の好意は彼らに染み込んでいく。
木賃宿を借りて鳥屋を営む四十前後の男がご馳走するといって娘たちを呼んだ。鳥屋が踊子の肩を軽く叩くと、「こら。この子に触っておくれでないよ。生娘なんだからね」と四十女が恐ろしい顔をした。
踊子に「水戸黄門漫遊記」を読んであげると、果たして踊子がするする近寄ってきた。
私が読みだすと踊子は私の肩に触るほどに顔を寄せて、真剣な表情をしながら眼をきらきら輝かせて、一心に私の顔をみつめ瞬き一つしなかった。
この美しく光る黒眼がちの大きな瞳は、踊子の一番美しい持ちものだった。二重瞼の線が言いようなく奇麗だった。そして彼女は花のように笑うのだった。
好奇心もなく、軽蔑も含まない、彼らが旅芸人と言う種類の人間であることを忘れて、私の好意は彼らの胸に染み込んでいくのであった。
彼らの旅心は野の匂いを失わない、のんきなものであることが分かってきた。親子兄姉妹であるだけに肉親らしい愛情で繋がっていた。
下田の港で私は踊子を思い、遠くに太鼓の音を聞きながら涙を流す。
湯ケ野を出外れるとまた山の中に入った、海の上の朝日の方に大島が見えた。
下田の港は伊豆相模の温泉場を流して歩く旅芸人が、旅の空で故郷とするような町であった。
甲州屋に着き、私は学校の都合があるので明日帰ることを旅芸人に告げ、供養にと僅かばかりの包金を渡した。学校の都合があると言ったので芸人たちはしいて止めることができなかったが、私は旅費がもうなくなっていたのだ。
一緒に鳥鍋を囲みながら明日は赤坊の四十九日だからと出立を伸ばすようお願いされたが、私は学校を盾に断った。映画を見に行こうという約束だったが、千代子も百合子も無理で踊子と二人だけで行くことは、おふくろがどうしても許さなかった。楽しみにしていた踊子は、言葉もかけかねるほどよそよそしい風だった。
私は一人で映画を見に行きすぐに出て、宿へ帰った。窓から暗い夜の町を眺めていた。 遠くから絶えずかすかに太鼓の音が聞こえて来るような気がした。わけもなく涙がぽたぽたと落ちた。
踊子と旅芸人一行と過ごし、私は人の気持ちを受け容れることができた。
出立の朝、栄吉が黒紋付きの羽織で正装して私を見送りにきてくれた。皆は昨夜は遅くなり来れないので、冬はお待ちしていますとの言づてだった。栄吉は敷島四箱と柿とカオールという口中清涼剤を買ってくれた。私は鳥打帽を栄吉にかぶせ、カバンの中から学校の制帽を出して皺を伸ばし二人で笑った。
乗船場に近づくと踊子の姿が私の胸に飛び込んだ。昨夜のままの化粧が私を一層、感情的にした。
栄吉が切符とはしけ券を買いに行った間に、いろいろと話しかけたが踊子は一言も話さなかった。
そこへ土方風の男が近づいてきて、息子も嫁も死んで三人の孫をつれた不憫な婆さんを、国に返してやりたく途中まで付き添ってやってほしいと頼まれる。私は快く引き受けた。
はしけは大きく揺れ、踊子は唇をきっと閉じたまま一方を見つめていた。私は縄梯子につかまり振り返った時、踊子はうなずいて見せた。はしけに乗った踊子は、離れていった。栄吉は鳥打帽を大きく振り、ずっと遠ざかってから踊子が白いものを振り始めた。
私は下田の海を出て伊豆半島が見えなくなるまで大島を一心に眺めていた。踊子と別れたのは、遠い昔であるような気持だった。
私はカバンを枕にした、涙がぽろぽろカバンに流れた。私の横に少年が寝ていた、彼は入学準備で学校に行くというので一高の帽子をかぶった私に好意を感じているようだった。
私は泣いているのを見られても平気だった、私はどんなに親切にされても自然に受け入れられるような美しい空虚な気持ちだった。