サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ/ライ麦畑でつかまえて』解説|大人のインチキと闘う、ホールデンという魂。

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解説

学校の先生や仲間も皆インチキ、欺瞞にうんざりするホールデン。

ホールデンは退学処分となり学校を追い出されます。彼の通う学校は有名なプレップスクールで、裕福な家庭のホールデンですが、勉強の価値を見いだせず、何度警告を受けても勉学せず落第します。

何故そうなるのか?それは学校や社会が欺瞞と建前と嘘に満ちていて、価値がないと考えているからです。
作品の中で、ホールデンは幾度もphony(インチキ)という言葉を吐き捨てます。

人の会話も行動も取り決めも、何もかもがホールデンにはインチキの世界に映ります。

別れの挨拶に、担当の先生夫妻を訪れます。先生は七十歳ぐらいなのに、まだ人生を楽しみたい様子で、ホールデンは何のためにこんなに長く生きているのかと思います。

校長が言った「人生はゲーム」との言葉に同意する担当の先生に、優秀な奴らばかりならそれもいいが、優秀じゃなかったらどうするんだ。人生、何がゲームだ?とんでもないと考えます。目の前の自分は落第するわけですから・・・。

先生はホールデンの不勉強を一度ならず、二度も三度も繰り返し指摘し、拙い答案用紙を読み皮肉を言います。さらに答案用紙の下に書き添えたホールデンのふざけた不真面目な手紙まで読みあげます。

ホールデンは以前の学校でも問題を起こしていることを指摘され、あれは校長や先生のインチキに耐えられなかったと弁明します。担当の先生は取返しがつかなくなる前に分別を教え、助けたいと言います。挨拶をして出て行こうとするホールデンに、

「グッド・ラック!」(1章)

と告げます。ホールデンは気遣いや優しさのかけらもない「幸運を祈るよ!」なんて上部うわべだけのひどい言葉に、げんなりとします。

寮に戻り隣室のアックリーと無駄話をし、ニューヨ―クで買った「鹿撃ち」の赤いハンチング帽を「人間撃ち帽」だと言います。そして落第する自分に作文の宿題を頼み、デートの準備で洗面室でおめかしする無神経な同室のストラドレイターに同行して石の床でタップダンスを踊って見せてふざけます。

頼まれた作文の題材に、二歳違いの頭の良かった弟アリーが野球ミットに綴った詩のことを書きます。ホールデンはアリーを愛していました。彼が白血病で死んだ夜、素手でガレージの窓を壊します。弟の死に対してやり場のない思いを感じたのでした。

弟を偲んで書いた作文をけなされ、ジェーンとのデートに苛立つホールデンはストラドレイターと喧嘩になり、殴られて鼻血を出し床にのびてしまいます。

ホールデンは血だらけの自分にぎくっとしますが、同時にタフになったように見えうっとりもします。そして突然、このまま死んでしまいたい気がします。

それは別れのための思い出づくりの儀式に見えます。学校や先生や仲間にうんざりしたホールデンは、こうして退学の日を待たずに寮を出ていきます。

寮の階段から廊下を見渡し、赤いハンチング帽のひさしを後ろにして被り、声を限りに叫びます。

「ぐっする眠れ、うすのろども!」(7章)

そして物語は、ニューヨークのカオスのなかを彷徨うホールデンの魂を描きます。

ニューヨークの喧騒に晒され、彷徨うホールデンの魂。

ニューヨークのアンダーグラウンドを這うような3日間、ホールデンは反体制的な行動を加速させます。それでもホールデンの疑問や苦悩を無視するかのように平然と欺瞞は続きます。

少年から大人へと向かう思春期の金持ち息子で神経症のホールデンは、あらゆる場面で自らの対応は打ちのめされ、現実を知らされ、ますます暴走します。そして読者は、ホールデンの言葉に耳を傾け同じ思いを感じとります。

ホールデンは、ニューヨークの喧騒の中でさまざまな人と出会います。

列車では四十を越えた美しく魅力的なモロウ夫人が横に座ってくる。会話から子どもが同じペンシー校に通っていて過保護に溺愛する態度に呆れ、母親は息子に正気を失うものだと思いつつも早速、酒に誘おうとします。土曜の帰省に疑問を持つ夫人に、脳腫瘍の手術をすると嘘を言います。

子どもに扱われ、負け惜しみに女性たちの低能さにうんざりしてみせます。

ホテルのバーで映画スターとの出会いを求めシアトルからニューヨークに遊びに来た三十くらいの三人の女性達と出会う。一人の金髪の女性に目をつけます。酒を注文しますが未成年者と見破られたホールデンは、大人ぶって女性たちに話しかけますが子供扱いされ相手にされず結局、酒代を奢らされます。

アイビー・リーガーの偉そうな会話や社交に、悲惨な気持ちになります。

気分を変えて訪れたグリニッジ・ビレッジのピアノ弾きのアーニーの店では、アイビー・リーガーの悲惨な会話を聞きます。そこで兄のDBと一時期デートしたというリリアン・シモンズと会う。兄に伝わるのを意識したお世辞を言われ、そっけなく振舞うと彼女は嫌味を言って去ってしまう。せっかくの楽しみを台無しにされたうえに、一緒だった海軍士官のマッチョに対して、

「お会いできてよかったです」なんて・・・嬉しくもなく心にもないことを口にします。

上部うわべだけの社交辞令を言い、ホールデンは自分は臆病な奴だと思うが、そうじゃないとも思う。そして顔を殴り合うときに、相手の顔を見るのが嫌だと言って、

僕としてみれば、顎に一発くらわせるよりは、相手を窓から突き落としたり、斧で首をはねたりするほうがまだしも楽なんだ。(13章)

と思う。精神的にも危うい状況です。

ホテルのエレベーター係のモーリスから女を薦めらるが、結局は騙され、金を踏んだくられたうえに、腹まで殴られてしまう。

うらぶれた気持ちになり、心が深く沈み込み、死んでしまいたい気持ちになる。

ホールデンは床に倒れて呼吸ができない中でようやく立ち上がるが、クレージーな態度をとる。

僕は腹に銃弾をくらったふりを始めた。モーリスのやつに襲われたわけだ。(中略)ポケットに自動小銃を突っ込み、いくぶんよろめいているところを想像した。(14章)

そしてエレベーターで待ち伏せしモーリスの腹に六発を撃ち込む。拳銃を捨て指紋を拭き取りジェーンに電話をかけ、部屋に呼び、腹に包帯を巻いてもらう。そんな映画みたいなことを考え妄想に耽る。

でも僕が本気で考えていたのは、このまま自殺しちゃいたいってことだった。窓から飛び降りてしまいたかった。(14章)

目が覚めてサリーとデートの約束をしてブロードウェイを観る。幕間のロビーでは嘘くさい連中が一堂に会して評論する。サリーは自分をチャーミングに見せるのに忙しい。アイビー・リーグを絵に書いたようなとんちきたち。この俗っぽさにとことんめげてしまう。

ホールデンは、このことでほとんどサリーのことが嫌いになってしまう。

そしてホールデンはサリーにこんなインチキな場所から抜け出そうと誘うが、断られて「スカスカ女」と言ってしまい怒らせる。ホールデンは何もかもがお笑いみたいに感じてきて、吹き出してしまう。

ものすごく大きくて、馬鹿みたいにげらげら笑いなんだ。(17章)

サリーはますます頭に血がのぼるが、ホールデンはいい加減うんざりする。

悪ぶって背伸びする十六歳のホールデンは、人恋しいさびしがり屋。

少年と大人の間で悪ぶる十六歳のホールデンはいつも見透かされます。そして常に好意を抱きつづけているジェーンのことをやきもきと心配し続けます。

そこには人恋しいさびしがり屋のホールデンがいます。ただ、誰もそのことを理解してくれず、きっとそれは彼らが低能であるからだと息巻いています。

ホールデンは自分を生贄に晒すように無防備に魂を投げだし、ことごとく弾き返されてしまいます。

セントラルパーク・サウス通りのアヒルたちはどうしてるかな?

ホールデンの目に優しく映るものは、慎ましやかな尼さんの会話と「ライ麦畑で出逢ったら(Comin Thro’ The Rye)」を歌う子ども、そして愛する妹のフィービーや死んだ弟のアリーだけです。

心のなごむ場所は、いつまでも変わることがないセントラルパーク・サウス通りのアヒルのいる池や公園、自然博物館のガラスのなかの展示物だけでした。このアヒルの場面が数回出てきます。

一回目は、スペンサー先生の説教話をよそにホールデンはセントラルパーク・サウス通りのアヒルたちのことを考えます。池の全体が氷結したときにアヒルたちはどこに行くのだろう?と。

二回目は、モロウ夫人との会話を終えてペン・ステーションに降りて、電話ボックスに入り誰かに電話しようとするが、誰も電話する相手がいません。そこでタクシーに乗ります。

公園を半分抜けたところで運転手に「セントラルパーク・サウス通りのアヒルたちは池が凍った時にどこに行くか?」と訊ねますが、運転手は気違いでも見るような顔をしてホールデンに「いったい何が言いてえんだよ、あんた」と返し、そして「俺のことをからかってんの?」と煙たがられます。

三回目は、グリニッジ・ビレッジのピアノバーのアーニーの店に行くタクシーの運転手に「セントラルパーク・サウス通りのアヒルたちは、冬になるとどこへ行くのか知らないかな?」と訊ねる。「誰かがトラックかなんかで何処かへ連れていくのか、それともひとりで南の方かどこかへ飛んでいくのか」と。

すると運転手は「なんでそんなことを俺が知ってなくちゃならないんだ?」と言う。短気で腹を立てる男でした。

ホールデンは誰も気にもとめない<冬ごもりのアヒル>が心配で気になって仕方がないのです。

同様に、博物館のガラスの中の展示物のことを思います。ニューヨークの喧騒の中、セントラルパークの、さらにその奥に静かで変わらないものがあることへの安心を求めているようです。

そしてルースと飲んだ後、泥酔して公園に向かって歩きだします。フィービーのために買ったレコードを誤って落としバラバラのかけらになってしまう。何とかセントラルパーク・サウス通りの池を探しあてますが、アヒルは一匹もいませんでした

懸命に探していたものは見つかりませんでした。ホールデンはこのまま肺炎で死んでしまうんじゃないかと思います。肉体は疲れ、精神は朦朧としています。

明確な基準のない、振り子のように危うい情緒。

ホールデンは悪態ばかりで、手あたり次第にものごとをし様に言う。偽悪的です。すぐに激情し殴りかかるが、結局は逆に殴られて倒される。女性についてもあれこれと経験豊富を装うが童貞です。ホールデンは弱い存在です。

比較して、隣室のアックリーは不衛生で生理的に嫌っており、同室のストラドレイターも軽薄な二枚目気取りの低能と考えています。ところが物語の終わりの後書きには二人を懐かしがっています。

僕にとりあえずわかっているのは、ここで話したすべての人のことが今では懐かしく思い出されるってことくらいだね。たとえばストラドレイターやらアックリーやらでさえね。(26章)

放校処分になる自分と比べて、窮屈な規則に従う寮仲間とは思いを同じくできず居心地が悪いと思っていたのに、療養しながらいま思うとそれも懐かしいということのようです。

サリー・ヘイズとジェーン・ギャラガーの二人の女性について、ホールデンはサリーとデートをして彼女が裕福で美人でも明らかに俗っぽいと感じながら、学校や社会がつまらないので一緒に西部に旅立とうと誘います。でも本音ではサリーと行く気などありません。

真実を言えばだね、サリーを相手に何でそんな話を始めてしまったのか、自分でもよくわからないんだ。つまりさ、マサチューセッツとかバーモンドとかに行っちまおうとかいうような話をだよ。もしかりに彼女が、いいわね、一緒に行きたいわとか言ったとしても、実際に行ったりはしなかっただろうと思うんだよ。そいつが困っちゃうところなんだ。実にまじめな話、僕は頭がほんとうにどうかしてると思うな。(17章)

彼女に「おとぎ話はやめて大学を出て、結婚して将来考えることだ」とたしなめられ、気分が醒める。すると「彼女が行くと言っても行かなかっただろう」と思う。サリーのいう常識が、ホールデンには受け入れられないが、常識に固執されたことで、もし承諾されても、一緒に行きたい人ではなくなっている

逆に去年の夏にずっと一緒だったジェーンには、何度も電話をかけようとするがその度毎に思いとどまり受話器を降ろす、母親が再婚し新しい男がきて家庭の問題から涙を見せ、その時に一度抱擁した思い出がある。一年経ってジェーンが自分より大人に成長しているのではないかと考える。

サリーとデートの約束をした後で、その前に朝食をとるが二人の修道女と隣り合う。二人はトーストとコーヒーだけで、自分がベーコン・エッグズを食べていることに落ち込み厭な気分になる。献金に十ドルを差し出した後で、一人の鉄縁眼鏡の尼僧の笑顔に親切そうな優しさを感じ、ロミオとジュリエットの話を楽しくする。

もう一人は聖書らしいものを読んでいた。ホールデンは自分がカトリックでないことを心配する。そして献金の額が少なかったのではと思う。サリーとのデートに金を残しておかなきゃならないことを後で悔やむ。そして、

お金っていやだよね。どう転んでも結局、気が重くなっちまうだけなんだ。(15章)

と思う。金に無頓着でいても、知らずに金に気持ちを左右される自分を卑下する。そして質素で慎み深い尼さんたちに好意をいだきつつも、金のことで心が憂鬱になってしまう世の中の矛盾を寂しく思う。

この場面は、サリンジャー自身がユダヤ教とカトリック教の父母のハーフとして幼少の頃に宗教のことで苦労をした記憶が表されています。

一方、モーリスに薦められた娼婦サニーの一件では、五ドルを十ドルと騙され断固立ち向かうが、ストラドレイターの時と同じように、またも殴られてしまう。それでもなぜかそんな猥雑でいかがわしいニューヨークの出来事も受け入れてしまう。

ホールデンはお金の問題ではなく、その価値や有用性を尊ぶように見えるが、別の側面では出来事を通じて金を無価値なものとして、そこに精神や肉体の反応を試している。

ホールデンの優しさは無垢で優しくて弱いものに限られている。その思いは既に死んでしまった弟のアリーを想い続ける。純真で可愛いフィービーにも同様の気持ちだが、今を生きて一年ずつ大人になっていく彼女には意見の相違でぶつかりはじめている。また兄のDBもハリウッドで嫌いな映画の脚本家となり変わりゆく姿を否定している。

その意味では、どちらの側にも属していない、またその明確な基準がなく振り子のようなセンチメントである。ホールデンの揺れの烈しい情動は、自分が優しく守ってあげることで、そこに留まっていて、不変なものでなければならない。

それを完全なエゴイズムと捉えるか、欺瞞や嘘からの守護者と捉えるかは難しいが、現実には後者でいつづけることは、人間の成長や社会との接点を考えれば無理である。ただしホールデン自身は、多分、決して自身のエゴだけとは考えていないのであろう。