坂口安吾『文学のふるさと』解説|絶対の孤独と、絶対の自由。

安吾は自身の小説家、新戯作者としての原点をエッセイ『文学のふるさと』で語っている。そこでこの随筆を解説してみる。ここには2つの言葉が連なっている。ひとつは安吾の考える『ふるさと』とは何かであり、もうひとつは『文学』とは何かということである。

解説

冒頭にシャルル・ペローの童話『赤頭巾』の話が紹介される。

赤い頭巾をかぶった可愛い少女が、森のお婆さんを訪ねて行くと、狼がお婆さんに化けていて、赤頭巾をムシャムシャと食べてしまう、お馴染みの話だ。

ペロー版の『赤頭巾』の話は、ただそれだけである。

童話には、教訓やモラルというものが有るが、この赤頭巾にはそれが全く欠けているという。しかし、時代を越えて多くの子供たちや大人たちの心の中に生きているのはなぜか?

物語は愛くるしくて、心が優しく、美徳ばかりで悪さのない可憐な少女が、森のお婆さんを見舞いに行って、お婆さんに化けた狼にムシャムシャ食べられて終わる。

この結末に、私達はいきなり突き放され、約束が違ったような感じで戸惑う。

プツンとちょん切られた空しい余白に、非常に静かな、しかも透明な、ひとつの切ない「ふるさと」をみる。

安吾はそれを、氷を抱きしめたような、切ない悲しさ、美しさだというのだ。

次に「狂言」に例を引き、ある大名が太郎冠者かじゃをつれて旅をして寺もうでをし、突然屋根の鬼瓦おにがわらを見て泣きだし、従者に理由をたずねられると、鬼瓦が家に残してきた自分の妻に良く似ているので、見れば見るほど悲しいと、ただ泣くというだけの話を紹介する。

笑えばいいのだが、決して無邪気に笑うことはできない。

この狂言にもモラルは存在しない。鬼瓦を見て女房を思いだし泣く。確かに滑稽こっけいで、一応笑わざるを得ないが、同時にいきなり、これも突き放された感じになるという。

故郷で待つ妻の顔を思いだすのだが、鬼瓦の団栗眼どんぐりまなこや団子鼻、口の大きい様が妻にそっくり、そんな妻でも恋しくて泣くのである。

安吾はそこにも「ふるさと」を感じるという。言葉に尽くせない懐かしく安らいだ気分だが、それでも可笑しく突き放される。

さらに『伊勢物語』の話から、ある男が数年かかりで求婚し、やっと女が一緒になってもいいと言うので、男は歓び、駆け落ちをして都を逃げだす。野原にかかった時に、夜も更け、雷が鳴り雨が降りだす。そこは殺伐とした暗闇の曠野である。

稲妻に照らされた草の葉の露をみて、女があれは何?と尋ねるが、男は返事をする間もなく一軒の家を見つけ、女を押し入れの中に入れるが、鬼がやってきて女を食べてしまう。

雷が鳴り響き、女の悲鳴も聞こえず、夜が明けて殺されたことに気づく。

そこで、*ぬばたまの(しらたまの・・・・・)なにかと人の問いしとき露と答えてけなましものを――つまり、こんなことになるのなら、女が訊ねた時、露と答えて、一緒に消えてしまえばよかったと、泣いて後悔するという話を紹介する。(*ぬばたまのは、正しくはしらたまの・・・・・の記載ミスかと思われます)

女を思う男の情熱が激しいほどに、鬼に食われるむごたらしさが生きるし、暗夜の曠野こうやに輝く白玉の露に、駈落ちが美しく迫ってくるという。

この三つの物語が伝える宝石の冷めたさのようなものは、絶対の孤独――生きていること、それ自体がはらんでいる絶対の孤独 だと安吾は言うのだ。

生存の孤独―我々のふるさとというものは、このようにむごたらしく、救いのない「突き放されたもの」。そしてこの人間の孤独は、いつも「暗黒の曠野こうやを迷う孤独」だ。

安吾は、芥川龍之介と農民作家の話を挿入し、ある百姓が貧困のために生まれた子供を殺し石油罐に入れてしまう筋書きで、芥川はそれを読んで「いったいこんなことがほんとうにあるのかね」と聞いたところ、農民作家は「それは俺がしたのだがね」という。

このとき芥川が突き放されたものはモラルを超えたもので、芥川が想像もできないような事実でもあり、大地に根の下りた現実の生活であったとする。

文学においても、我々の生きる道にはどうしてもそのようながけがあって、そこでは「モラルがないということ自体が、モラルなのだ」と思わずにいられない。

安吾はここで、「救いがないということ、それだけが唯一ゆいいつの救い」という逆説に立っている。

文学の建設的なもの、モラルとか社会性は、大地に根の下りた深い現実の上に、なければならないと主張している。

モラルがあるためには、モラルを超えた現実がなければならないのだ。

安吾のいう「ふるさと」は、孤独のなかにある。そこから生活を求めることが人生なのだという。

「モラルがないということ自体がモラルである」と同じように、「救いがないということ自体が救いである」というのである。

救いのない絶対の孤独の上に立つことが、文学であり、そこを「ふるさと」として出発しなければならないとしているのだ。

安吾は、ここに、文学のふるさと。あるいは、人間のふるさとを見る。

文学のモラルもその社会性も、このふるさとの上に生育したものでなければ、信用できないとする。

安吾は、人間に自由を与える場所を「ふるさと」と呼んだ。しかしそこは「孤独」とともにある。

一般的に、「ふるさと」の説明を求められれば、人は生まれた土地のことを考え、同時にその記憶を指している。それは温かく包んでくれる安らぎを与えるものなのだろう。

しかし逆にすでに遠くにあるもの。ゆえに現実に故郷に足を踏み入れると幻滅することも多い。すでに自己との紐帯は失われ、記憶のようなふるさとは存在しない。

そこは、まさに突き放された孤独があり、記憶とは異なる場違いな現実があることが多い。往時とそのままの自然や人情が残っていることなど無い。

安吾にとっての「ふるさと」は、やさしさ、癒し、安らぎのようなノスタルジックな回帰願望ではなく、絶対的な孤独と自由がある精神の風景なのである。それは抽象的で無機的な世界である。

生存それ自体がはらんでいる絶対の孤独、透明な氷を抱きしめたような、悲しさ、美しさ、そんなひとつの切ない「ふるさと」なのである。

この<絶対の孤独><絶対の自由>が安吾の作品世界には通底している。

さらに安吾は、大人の仕事はこの「ふるさと」へ帰ることではないと言う。それは現実を生きるということを意味している。

インテリの伊沢が四国遍路からやってきた燐家の『白痴』の女を連れて戦火を逃れて行く場面には、この絶対的な孤独と自由のなかで明日を彷徨う姿が描かれる。

『桜の森の満開の下で』の鈴鹿の山賊の男は、都が好きな豪奢な女を殺し、桜にうずくまり冷たい虚無の風に吹かれる様であり、『夜長姫と耳男』は美しく残忍な姫を生かしておくことができない飛騨の匠の耳男の恋の葛藤が描かれる。

それは、偉大な破壊を愛し、運命に従順な人間の姿は奇妙に美しいという『堕落論』のなか、堕ちて行くことでしか救われない敗戦後の日本人の未来へ向けての態度にも表れている。

求道家としての安吾は、不幸と苦しみこそが人間の魂のふるさとなのだから、そこを受け入れて現実を生きていくことが、人間の生であることを問いかけている。

堕落論・日本文化私観 他二十二篇 (岩波文庫)
堕落論・日本文化私観 他二十二篇 (岩波文庫)

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