戦時中、安全を求め転々と疎開する家族。落下する焼夷弾に怯えながらも、防空壕の中で子どもを抱きあやしながら絵本を読み聞かす太宰が考えた新説、お伽噺し。面白くて、可笑しくて、滑稽で、風刺的。「瘤取り」「浦島さん」「カチカチ山」「舌切り雀」を1作ずつ紹介。読者を楽しませる想像力と空想力、物語作家としての創作力が素晴らしい。
登場人物
浦島さん
旧家の長男で男振りと風流を気取っているが、妹からは冒険心が無いと言われる。
亀
浦島さんに救われて竜宮城へ連れていき、なぜか粋な江戸言葉を使って案内する。
父 読み手(太宰)
防空壕のなかで、子どもに絵本を読み聞かせながら新説のお伽噺を創作する。
あらすじ
話し伝えられる昔話には、いろいろなストーリーや類型があり、同じような話は日本だけでなく世界にあります。まず典型を確認して太宰流の新説を味わっていきます。
典型的な「浦島太郎」のお話。
一般的に普及している物語は、浦島太郎という漁師が、子どもたちが亀をいじめているところに出くわし、その亀を買い取り海に逃がしてやる。
すると二、三日後に亀が現れて御礼にと太郎を背中に乗せて竜宮城に連れていく。竜宮城では乙姫様が太郎をもてなし帰りに「決して開けてはならない」として玉手箱を渡す。
亀に乗りもとの浜に戻ると世の中は変わっていた。太郎は忠告を破って玉手箱を開けると、中から白い煙が出てきて白髪の老人になってしまうというお話。
新説、太宰の浦島さんの元は「丹後国風土記逸文」が原話。
浦島伝説は日本各地にあるが、太宰の新説の浦島さんは八世紀に成立した「丹後国風土記逸文」が原話である。浦島さんのモデルは「水江浦嶼子(島子)」。士族の男で日下部の先祖。容姿と風流が際立っている。この島子がひとり海に出るが、魚は釣れず五色の亀が捕れる。
そして亀は美女に変わり、島子と語らうために天上からやってきたという。そこで島子は女性の住む蓬山に行き、饗宴を受け女性と男性の契りを交わす。
島子に里心がつき開けてはならぬとの玉匣を受けて郷里に帰る。すると郷里では家族の消息は解らず、島子も三百年前に失踪したことが分かる。
約束を忘れて箱を開けると何か美しい姿が天上に上がり、島子は女性と再会できなくなったとの話を下地にしている。原話もまた情緒に溢れた内容であるが、これが太宰の新説では・・・・
浦島太郎は、旧家の長男で風流や道楽を楽しむ品行正しい人間。
それでは太宰の新説、「浦島太郎」のお話の始まりです。
浦島太郎は丹後に実在して旧家の長男で風流や道楽を楽しんでいます。道楽と放蕩は全く違うもので、道楽は先祖伝来の恒産があり、恒心が生じ礼儀も正しいこと。乱暴者の弟が「兄さんは男振りが良すぎる」とか、お転婆の妹が「兄さんは冒険心が無い」とか無遠慮に批評されても、怒ることもなく物事を悟っています。
そして浦島は「人はなぜお互いのつまらぬ批評をするのか、人それぞれの流儀を尊重しあい生きていけぬものか」と溜息をつきます。
そのとき「もし、もし、浦島さん」と、足許で小さい声がする。それはこの間、助けてやった亀だった。「御恩返しをと思って、毎日毎晩この浜で若旦那のおいでを待っていた」というのです。
浦島は「また子供たちに見つかったら、今度は生きては帰れまい、浅慮だ、無謀だ」と言うと、亀は「どうしたって若旦那に、もう一度お目にかかりたくなったんだから仕様がねえ、この仕様がねえ、というところが惚れた弱みよ、心意気を買ってくんな」となぜか江戸言葉で言う。
亀は「批評が嫌いだという若旦那のくせに、浅慮だ無謀だと批評している」と言うと、浦島は「批評ではなく訓戒だ」と言う。
亀が「甲羅に乗せて竜宮へ案内する」と言うと、浦島は「竜宮というのはこの世には無く、風流人の美しい夢や憧れだ」と説明する。 亀は吹き出し「若旦那は冒険心が無い」と言う、浦島は「冒険などは曲芸のようなもので下品であり、宿命に対する諦観や伝統についての教養がない、私は先人のおだやかな道を、まっすぐ歩きたい」と言う。
亀は “その先人の道こそが冒険心” で「冒険心が無いということは、信じる能力が無い」ということで「紳士は信じないことを誇りにしていて始末が悪い、吝嗇だ」と言う。
浦島さんは、助けた亀と考え方をめぐる口論になる。
浦島は亀に対して「自分と亀では階級が違い、伝統を誇りにしていない奴は、好き勝手なことを言う。一種のヤケである。亀の宿命と私の宿命には階級の差があり、それが悔しいのだろう」と言う。
浦島は「竜宮へ連れて行くなど大法螺をふいて、私と対等の付き合いをしようなどとは考えず、せっかく助けてやったのだから、早く海の底の家に帰れ」と言い、亀は「紳士は人に親切を施すのは美徳で、内心の報恩を期待しているくせに、人の親切には警戒し、対等の付き合いは叶わぬと考える」と言う。
さらに亀は「せっかく助けてやったというが、亀と子供じゃ仲裁してもあと腐れないが、例えば荒れくれた漁師と病気の乞食だったらどうなったことか、ましてや子供に五文の金を渡して、私の命が五文とは安いもんだ、その意味では紳士の親切は遊びや享楽だ」と言い返す。
尚も「あなたは上流だから私たち下賤に好かれることを不名誉と思うでしょうが、私はあんたが好きなんだ、これが爬虫類の愛の表現の仕方なのさ」と言い、「まぁ蛇の親戚だから信用無いのは無理ないけれど、エデンの園でそそのかした蛇じゃない、日本の亀だ。あなたを竜宮にそそのかして堕落させようなんて考えていない、心意気を買ってくんな。あなたと一緒に遊びたいんだ」と言う。
うるさい批評など無く、みんながのんびり暮らす竜宮に行く。
亀は「陸にも海にも行けるので両方見ているけれど、陸上は生活が騒がしい。批評が多すぎる、人の悪口か、自分の広告だ、うんざりする。文明病の一種だね。それに比べて竜宮は、遊ぶにはいいところだ。歌と舞と美食と酒の国。あなたのような風流人にはもってこいだ」と言う。
それではということで、浦島は亀の甲羅にのって竜宮に向かうことにした。
「水深千尋」と亀が言い、薄緑色の奇妙な明るさで、どこにも影が無く茫々とする。物音一つ無く、春風よりも少し粘っこい風が吹く。はるか向こうには月の影法師が見える。
そのうちあたりは暗くなり烈風が押し寄せる。ここが竜宮の入口だという。ここに入るのは、人間ではあなたが最初で最後かもしれないと言う。亀はひっくり返って宙返りをしたように泳ぐ。
目を開けるとあたりは曙の如き薄明りで、何だか山のような白いものが見える。
それは真珠の山だった。一山は真珠が約三百億粒で、それを約百万山くらい積み重ねると峰ができる。その裾に竜宮の門がある。竜宮は静かで簡素幽邃で風流の極地。雨も降らなければ雪も降らないので、陸の家のように窮屈な屋根や壁はない。
足元の廊下と思ったものは、幾憶の大小無数の魚たちが身動きせず凝としている状態だった。「魚を踏むのは申し訳ないし、悪趣味だ」という浦島に、「それは床ではないし、海の中は浮いているも同じで浦島の重さなど紙一枚も無い」と亀は説明する。
さらに陸上の者は東西南北しか見ないが、海には上下がある。なぜ頭上や脚下を見ないのか、乙姫様は前方ではなく脚下においでになると言う。
つまり浦島が踏んでいると思った魚の廊下は実は天井のようなものという。断橋になっていて魚たちが横にそれて、脚下にはかすかに琴の音が聞こえる。
陸では聞くことの出来ぬ、気高い淋しさが底に流れている。浦島が「何という曲ですか」と尋ねると、亀は「聖諦」と答えた。浦島は海の底の竜宮の生活に崇高さを感得する。魚の掛け橋から飛び降りゆらゆらと沈下する。あたりはいよいよ樹陰のような色合いになり、琴の音もいよいよ近くに聞こえる。
亀と並んで正殿の前に立つと小さい珠の坂道があり、その珠を亀に言われた通りに口の中に入れると、とてもうまい。それは海の桜桃といった。
これを食べると三百年間、老いることが無いという。浦島は「死ぬのは怖くないが、老醜はきらいだ」とか言ってもっと食べようとする。亀は「笑ってますよ、上をごらんなさい。乙姫様がお出迎えです、今日はまた一段とお綺麗」と言う。
浦島さんは乙姫様に出会い、何でも許される竜宮でくつろぐ。
桜桃の坂の尽きるところに、青い薄布を身にまとった小柄な乙姫様が幽かに微笑みながら立っている。
どう挨拶したらよいか思案する浦島に、亀は「私の恩人なのだから威厳をもって、日本一の好男子で最上級の風流人だというような顔をして」と言い、「亀には傲慢な構え方をするくせに、女にはからっきし意気地がない」と言う。
乙姫はくるりと後ろを向きそろそろと歩き出す、よく見ると無数の金色の小さな魚が従っている。そこには気持ちよく酔うことのできる海の桜桃の花や、おいしく羊羹のような味わいの藻などがある。
竜宮ではこの藻を食べて、花びらで酔い、喉が渇けば桜桃を含み、乙姫様の琴の音に聞きほれ、花吹雪のような小魚たちの舞を眺めて暮らす。亀は「竜宮は、歌と舞と、美食と酒の国です」と言う。
浦島は乙姫が真に孤独であると思ったが、亀は「何も孤独じゃありません、、野心があるから孤独なぞ思うもので、乙姫様は他の世界の事など気にしてないので百年千年一人でも楽なものです」と言う。
浦島はこれが貴人の接待方法なのだと思う。客を迎えて客を忘れる。客の身辺には美酒珍味があり、歌舞音曲は静かに奏で、魚も自由に舞い遊ぶ。
客の賛辞をあてにしたり、客もそれを見越して感服したような顔つきをする必要もない。ろくでもない料理をうるさく進めて、くだらないお世辞を交換する必要もないし、笑ったり大仰に驚いたりする必要もない。これこそが真の貴人の接待だと思った。
そして乙姫様は部屋に帰っていく。その部屋は、小さな水中花のようだった。
浦島が「乙姫様はいつもあんなに無口なのかね」と聞くと、亀は「言葉は生きている不安からでてきたもので、生命の不安が言葉を発酵させている。乙姫様には不安はなく、ただ幽かに笑って琴をかき鳴らし桜桃の花びらを口に含んで遊び、のんびりしたものです」と答える。
浦島さんは竜宮に飽きて、ケチに暮らす陸上が恋しく思えた。
そうして浦島はやがて飽きた。許されることに飽きたのかもしれない。
お互い他人の批評を気にして泣いたり怒ったりしている陸上の人たちが、可憐で美しく思われてきた。浦島は乙姫に向かって「さようなら」と言った。
この突然の暇乞いも無言の微笑みで許され、まばゆい五彩の光を放つ二枚貝を差し出した。これが竜宮のお土産の玉手箱であった。行きと同じように亀に乗って帰るが、亀も浦島も元気がない。
「やっぱり見送りは気がはずまない」と亀が言う。
土産にもらった綺麗な貝は何だろうと浦島が亀に聞くと、「中に何か入っているんじゃないか」と亀が言う。そして「竜宮の精気みたいなものがこもっているでしょうから、開けて見ない方が良いのでは」と言う。浦島は「家の宝として保存しておこう」と言う。
浦島は「陸上の風流などケチくさい猿真似で、正統というのは通俗の別称、真の上品は聖諦の境地。批評などうるさいものは無い」と今聞いた新知識を父母弟妹、使用人の前で話そうと生家に向かう。
土産にもらった竜宮の玉手箱を、開けてしまった浦島さんは幸せである。
ところが里も家も見渡すかぎりの荒れ野原。人も道もなく松の風が吹くだけだった。
そこでお土産の貝殻をあけて見た。「開けるな」と言われると開けてみたくなるもので、これは亀のせいではない。それはパンドラの箱のような神々の復讐ではない。
日本の浦島の昔話は、箱を開けたら三百歳になってしまって開けなければよかったのに、つまらないことになったという結末であるが、そこには疑念がある。
あのパンドラの箱でさえ、疾病、恐怖、哀愁、疑惑、嫉妬、憤怒、憎悪、呪詛、焦慮、後悔、卑屈、貪欲、虚偽、怠惰、暴行などあらゆる不吉の妖魔が入っていたが、からっぽの底に小さな宝石がありそこに、「希望」という字があったではないか。
日本のお伽噺はギリシア神話よりも残酷などと言われては無念だ。
そう考えると聖諦な乙姫がわざわざそんなことをするわけがない。そして分かったことは、開けてしまって気の毒だ、馬鹿だというのは、私たちが俗人の盲断をしている。つまり三百歳になったことは決して不幸ではなかったのだ。
「希望」などという少女趣味ではなく、浦島は立ち上る煙それ自体で救われているのである。
年月は、人間の救いである。忘却は、人間の救いである。
浦島はそれから十年、幸せな老人として生きたという。
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