太宰治『桜桃』あらすじ|子育てと家事を横目に、創作の苦労を描く。

われ、山にむかいて、目を挙ぐ。(詩編第百二十一) これは夫婦喧嘩の小説であると前置きがある。妻と三人の子を抱え育児と家事に追われながら、創作に苦悩する小説家の日常を題材にしたペーソスあふれる作品。子どもより親が大事と、思いたい。

登場人物

私(太宰)
小心者で気が弱く育児も家事もできないが、冗談ばかりを言う父親。


亭主と二人の子どもと乳飲み子を抱え、八面六臂の世話をする母親。

子どもたち
七歳の長女、四歳の長男、一歳の次女の三人の子どもたち。

あらすじ

子どもたちはまだ幼いが、すに両親を圧倒している。

私と妻は、 三人の子どもたちの下男下女のように使われている。

母親は、子育てや日常の生活に大忙しだが、父親は、育児も家事も母親まかせでてんで何もできない。

ただ冗談を言って、楽しい雰囲気をつくっているだけである。

私は、心がどんなに辛い時でも、家族だけでなく人と接するときも小説を書くときも、

楽しいことを心掛けて生きているのだ。

心には悩み煩いが多いからこそ、おもては快楽でなければならないと考えている。

ただ仕事といっても実際は、一日に原稿二枚か三枚しか書かず、あとは酒を飲むようになってしまう。

そして、飲みすぎると、げっそり痩せて寝込んでしまう。さらに、あちこちに若い女の友達もいる。

私は極端な小心者で、主張することが出来ない性格である。

母親は精いっぱいの努力をしているが、父親のほうも一生懸命なのである。

もともとたくさん書ける小説家のタイプではなく、書くのが辛くて酒に救いを求めることになる。

私は議論をしても必ず負ける。

だから議論自体が嫌いで、何より相手の身勝手な自己肯定に圧倒される。

言い争いは不快な憎しみが残るので、怒りに震えながらも笑い、沈黙し、ついヤケ酒となる。

長々と書いているが、実はこれは夫婦喧嘩の小説なのである。

母親の言う“涙の谷”で、私は一触即発の危険におののく。

母親が言い放った “涙の谷” が導火線になっている。

この夫婦は手荒なことや口論がない大人しい一組だが、その分、危険でもある。

母親は分からないが、父親の方は、叩けば埃のでる体なのだ。

お前だけでなく、俺だって子どもや家庭のことは大事に思っている。

私は、忙しい妻を案じて “人を雇いなさい” という。

“なかなかそんな人はいませんから”という妻に対して、“いてくれる人がいないのではないか”

と言ってしまい、さらに気まずい雰囲気になる。

私は、原稿料を懐に、原稿用紙と辞典を風呂敷に包み、ふわっと外に出る。

そうしなければ、子どもの面倒を私が看なければならず、仕事どころではなくなるからだ。

子供より親が大事。さて、その助けはどこから来るのか。

ところがこうなると、それこそもう仕事どころではなく、まっすぐ酒場へ行くことになる。

そして「いらっしゃい」。そこで「今日は夫婦喧嘩でやりけれないよ、飲もう。」となる。

生きるという事は、たいへんな事だ。私は、自殺の事ばかり考えてしまう。

おや、私の好物の桜桃だ。私の家では、子どもたちにぜいたくなものを食べさせない。

極めてまずそうに食べては種をはき、心の中で虚勢みたいに言葉を呟く。

子供よりも、親が大事と思いたい。

解説

普段の暮らしの中での太宰は、冗談ばかりをいう良い父親であり夫だったのでしょう。

実生活では、井伏鱒二に紹介された妻を、大切にするとの宣誓文も一筆書いています。

若くして入水自殺をはかったり、最初の結婚の苦渋もあり、やっと人間らしい生活を送ります。

とはいえ、人気作家でもあり作品を出し続けなければなりません。

その創作の苦しみと育児や家事の日常の中で、最後はいきつけの酒場でお酒に浸ります。

好物の桜桃の種を飛ばしながら、子供より親が大事と呟くあたり微笑ましくもあります。

桜桃とは、“さくらんぼう”のことです、種を飛ばす仕草を想像してみてください。

冒頭の 「われ、山にむかいて、目を挙ぐ」というのは、

わたしは山に向かって目をあげる、ああ、私の助けはどこから来るのであろうかという意味。

「その助けは天と地を創られた主から来る」<旧約聖書:詩編第121>

神様がいるなら、ぜひ、この状況を救ってくださいということですね。

太宰の最期、遺体が発見されたその日、六月十九日は “桜桃忌” と呼ばれています。

ユーモアかペーソスか。作家であり夫であり父親である太宰の奮闘ぶりがうかがえる作品です。

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作品の背景

戦前・戦中・戦後と精力的に創作を続けたまさに晩年の作品です。井伏鱒二夫妻の媒酌で石原美知子との結婚生活から9年。小説と同様、7歳と4歳と1歳の子どもを育てながらの執筆活動です。三鷹で、子育てに慌ただしい実生活の中での創作の苦しみが描かれますが、育児も家事もできない亭主、父親としてユーモラスに描かれています。尚、太宰の死後、好物の桜桃にちなみ6月19日は「桜桃忌」と名づけられ墓所のある東京三鷹市下連雀の禅林寺で偲ぶ会が毎年、行われています。

発表時期

1948(昭和23)年5月、雑誌「世界」に載る。当時、太宰治は、38歳。翌6月の13日に山崎富栄と玉川上水で入水自殺しますので、死の直前の作品になります。6日後の19日の朝、遺体で見つかります。