②「勝気」な真砂の懺悔
行方不明だった真砂が、清水寺に身を寄せにやって来ました。真砂の懺悔は、手ごめにされた直後の所から始まります。しかし、自ら多襄丸に縋り付いた事は言いません。自分の本質が露わになってしまった行動ですから、嘘をついて隠すわけです。真砂は、次のように言います。
夫の側に走り寄ろうとすると、盗人に蹴倒された。夫の目を見ると、私を蔑んだ冷たい光があった。その眼の色に打たれて、気を失った。
彼女は、多襄丸相手に小刀ひとつで立ち向かった気丈な女です。今さら気を失うこともないでしょう。それに夫が軽蔑の目で妻を見たのは、妻の方から盗人に縋り付いたから。しかし肉欲しかない多襄丸は、彼女を蹴り倒し、逃げてしまった。とんだ計算違い!真砂は、その場にへたり込んで暫く考えたかもしれません。もう夫婦の関係はズタズタです。そこで彼女が出した結論が次です。
「あなた。もうこうなった上は、あなたと御一しょには居られません。わたしは一思いに死ぬ覚悟です。しかし、――しかしあなたもお死になすって下さい。あなたはわたしの恥を御覧になりました。わたしはこのままあなた一人、お残し申す訳には参りません。」
清水寺に来れる女の懺悔
真砂は、落ちていた小刀を振り上げて、ずぶりと武弘の胸を刺し通しました。さすがの真砂も、夫を殺してしまった直後、今度は本当に気を失ってしまったのでしょう。
意識を取り戻して夫を見ると、縛られたまま息が絶えていて、その顔に西日が一筋落ちています。彼女は、日暮れまで気絶していたのです。多襄丸に出会ったのが昼過ぎですから、かなり時間が経っています。泣きながら、死骸の縄を解き捨てました。小刀は、どうしたのでしょう?真砂は、夫の胸に突き刺した小刀を引き抜いたとは、証言していません。しかし見逃せない一文があります。
とにかくわたしはどうしても、死に切る力がなかったのです。小刀を喉に突き立てたり、山の裾の池へ身を投げたり、いろいろな事もして見ましたが、死に切れずにこうしている限り、これも自慢にはなりますまい。
清水寺に来れる女の懺悔
武弘の胸から小刀を引き抜き、持ち去ったのは真砂なのです。彼女の懺悔は、夫を殺してしまった事を正直に告白しています。隠したのはその動機です。肌を汚した盗人に縋ってしまった事実を隠し、「貞潔を汚され、夫に冷たい目で見られた憐れな女」を物語りました。
しかし彼女の実態は、夫を殺害しても尚死ぬことが出来ず、生きることに貪欲、時に恥知らずなことまでしてしまう、卑しいまでに逞しく、裏切りも辞さないような「勝気」。そこが彼女の言う「わたしの恥」、隠したかった本質です。
③「優しい」武弘の物語
ここまでで、もう事件の全貌は明らかです。
「優しい気立て」の武弘が、巫女の口を借りてまで語る物語に隠した、彼の本質はどうなのでしょうか。彼の物語も、真砂が手ごめにされた直後の場面から始まります。盗人が妻を口説き始めた、と言っています。実際は、妻が自発的に盗人に縋ったのですが、武弘はさりげなく妻をかばっています。そう、彼は本質的に「優しい」のです。
武弘は(長き沈黙)(再び、長き沈黙)(三度長き沈黙)と、何度も長い沈黙を置きながら話しています。妻の小刀で胸を突かれ、縄も解かれていた自分の状況を、自害して死んだのだと検非違使に信じて貰える物語を、よくよく考えながら話しているのです。その間に(突然迸るごとき嘲笑)(再び迸るごとき嘲笑)と裏切った妻を蔑み、哀しく笑って見せます。彼の本心でもあるでしょうが、冷酷なほどに妻を蔑んで見せれば、彼の証言の真実味が増すのです。
「あの人を殺して下さい。」――この言葉は嵐のように、今でも遠い闇の底へ、まっ逆様におれを吹き落そうする。
巫女の口を借りたる死霊の物語
自殺に到った動機に、説得力を持たせました。妻を恨んでいるので決して庇うことは無いだろう、と検非違使に信じて貰わなけばいけません。残酷な妻を非難しながらも、何とかして殺人の罪だけは着せない物語を必死に語っています。縄が切られた状況等も、もっともらしく説明しました。
多襄丸が呟いたという「今度はおれの身の上だ」という言葉、これは、妻を奪った多襄丸もどうせまもなく滅びるのだという、武弘の気持ちでしょう。
日が暮れて、次第に薄闇が立ち込める中、「その誰かは見えない手」がそっと彼の胸に刺さった小刀を抜きました。意識を取り戻した真砂の手です。
盗人に妻を奪われた悔しさ、妻に裏切られた苦悩。それらを存分に表現し自害に到る物語、に隠した、武弘の妻への「優しさ」。彼の複雑な心を想像しながら読むと、泣けてきます。
三人の内、最も文芸的に切々と語られる嘘、に表しつつ秘めた武弘の複雑な心こそが「藪の中」なのです。そう考えると、この小説の真相を解こうと注意深く読んだ読者ならば、何となく引っ掛かってしまう、第一発見者「木樵の物語」の謎めいた言葉の意味も解けます。
- 藪の中、死んでいた武弘の血は「蘇芳」と表現された。
- 武弘の傷口にべったりと食いついていた一匹の「馬蠅」
- 「あそこは一体馬なぞには、はいれない所でございます。何しろ馬の通う路とは、藪一つ隔たって居りますから」
「蘇芳」は暗い赤ですが、平安時代には高貴な色。
「馬」「馬蠅」という言葉で咎められた多襄丸と真砂の、卑しさ。
真相を巡って議論を呼んだこの小説、作者は巧みに読者を迷宮に閉じ込めましたが、決して「謎解きゲーム」の面白さのみに終わる作品ではありません。ぜひもう一度、お読みください。
令和二年十一月 猫枕読書会
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