村上春樹『1Q84』あらすじ|大衆社会に潜む、リトル・ピープルと闘う。

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つらい幼少を過ごした青豆と天吾の二人は、10歳の時に握り合った掌の温もりを大人になっても思い続ける。やがて20年後の「1984年」に不思議なきっかけで迷い込んだ「1Q84年」で、カルト教団のシステムと奇怪な観念世界に対峙し、導かれるように二人は再会し愛を誓います。

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あらすじ

青豆は両親が『証人会』の信者で、昼食の祈りや日曜の勧誘の同行で学校では疎外され友達もできずに孤独な日々を送ります。天吾は父親がNHKの集金人で日曜には集金に同行させられます。さらに1歳半のときに母親が他の男に乳首を吸わせている記憶があり、ほんとうの父親は別にいるのではと出自に疑問を抱きます。

青豆は天吾を好きになり二人は一度だけ強く掌を握り合い、その10歳の記憶を忘れず大人になります。そして20年後の30歳の時に、それぞれが1Q84の世界へ入り込んでいることに気づきます。その世界は1984年と変わらぬように見えますが、月が二つある全く異なる世界だったのです。

青豆は『柳屋敷』の老婦人と親しくなります。彼女は男性に暴行を受けた女性を救うセーフハウスを運営しています。青豆は老婦人の依頼でDVの加害者たちを次々に人知れず静かに葬るというもう一つの顔を持ちます。そして10歳でレイプされ完全に損なわれた少女への復讐にカルト教団『さきがけ』のリーダーの殺害を企図します。

一方、天吾は予備校の数学講師をしながら小説家を目指しますが、新人賞の下読みで、ふかえりの『空気さなぎ』を評価し推薦します。編集者の小松はある計画を練ります。それは『空気さなぎ』を天吾がリライトし、ふかえりに新人賞を獲らせ大きな話題をつくり、金を稼ごうというものでした。ふかえりは教団『さきがけ』から逃げてきた少女で、親代わりの戎野はなんとかふかえりの両親を探し出そうとこの計画を後押しします。

こうして『さきがけ』を軸に青豆と天吾は線で結ばれ始めます。ふかえりは『空気さなぎ』に登場するリトル・ピープルはほんとうに存在すると言います。

老婦人の依頼でリーダーの暗殺に向かう青豆ですが、教団のリーダーは疲れ果てており、驚くことに天吾の安全と引き換えに、青豆に自分を殺すようにと諭します。青豆は天吾を守るためにリーダーを殺します。次なるリーダーを求めて『さきがけ』は混乱し、リーダーの依頼で青豆を紹介した牛河は用心棒の二人組に脅され、青豆の足跡を執拗に追いかけます。

教団のリーダーの死、その犯人の青豆を追う教団、リトル・ピープルの存在、そしてパシヴァとレシヴァという感知し/それを受ける関係、またマザとドウタという主体と分身。

1Q84の世界で繰り広げられる教団という大きなシステムとDVから女性を守るシステムの闘いの中で、10歳のとき固く握りあった掌の記憶のなか、再会を願う青豆と天吾は、不思議な出来事や試練を乗り越えお互いを探し始めます。

Bitly

登場人物と状況の設定

『1Q84』はファンタジーなエンターティメント小説です。人物造形が細やかで、生い立ちから現在まで、ひとりひとり丁寧に描かれています。そこで主だった登場人物のプロファイルと他者との関係を青豆と天吾のそれぞれのラインで押さえます。

●青豆のストーリーラインで登場する人々

青豆は主人公でBOOK1.2の奇数章のストーリーラインで展開されます。BOOK3には青豆と天吾に、牛河が加わり3章立てで展開されます。

青豆(青豆雅美)

30歳で独身。珍しい名前だが青豆は本名。身長は168センチ、贅肉はなく、筋肉は鍛え上げられている。耳と乳房の左右の形と大きさが異なるが、整った卵形の顔立ちの美人。顔の表情に乏しいが、しかめるとクールな顔立ちが一変し、顔中の筋肉が思い思いの方向に伸び、ある角度からは夜叉のように、ある角度からは道化のように見え全く別人になる。

両親は熱心な『証人会』の信者で、青豆も勧誘に同行させられる。そのことでクラスから疎外され孤立し、誰にも相手にされず沈黙を頑なに守り続けて過ごす。

※『証人会』の説明

キリスト教の分派で、終末論を説き勧誘を熱心に行なう。聖書の字義通りに実行すると終末が訪れたときは神の選民として至福の世界を千年に亘って生きると説く。「証人会」の家では3歳から母親と一緒に布教活動に携わる。「洪水の前」という小冊子を配り「証人会」の教義を説く。世界にどれほど多くの滅びのしるしが表れているかの事実を人々に説明する。神のことを「お方さま」と呼び、高いところからすべてを細かくご覧になっている天上のお方という意味。「あなたの御名がどこまでも清められ、あなたの王国が私たちにもたらされますように」と祈りを捧げる。青豆も学校の昼食の前に祈り、皆が不気味に思う。天吾は父親に連れられてNHKの受信料の集金ルートをまわりながら青豆とすれ違っていた。

青豆は10歳のとき天吾を好きになり、手を強く握り、一生、愛することを誓った。その後、両親と袂を分かち、11歳で信仰を棄て母方の叔父の家に行き離れ離れになり情愛に飢えて生きていく。

歴史とスポーツが好きで高校時代はソフトボール部で大塚たまきと知り会う。体育大学を出てスポーツドリンクと健康食品を製造する会社に勤める。仲の良かった環が夫のDVに苦しみぬいた末に自殺をする。

環の死んだ翌日に、会社を辞め広尾の高級スポーツ・クラブのインストラクターとして就職。筋力トレーニングとマーシャルアーツ関係のクラスを担当する。そして特殊な技能で、環を死に追いやった男をアイスピックのような鋭い針で首の後ろの急所を刺し殺害する。

「柳屋敷」の老婦人と知り合い、週に二回、筋肉ストレッチングやマッサージを行う。青豆は彼女が営むDV被害にあった女性向けのセーフハウスの主旨に共感し親交を深め、強い絆で結ばれていく。

ではいつ、青豆は1Q84の世界に入り込んでしまったのか?

それは1984年の4月、青豆の乗るタクシーが首都高速の渋滞に巻き込まれ、ラジオから流れるヤナーチェックの『シンフォニック』を聴き不思議な身体のねじれの感覚になる。急ぐ青豆はタクシーを降りて非常階段を利用する。このとき親友だった大塚環のことが浮かび、アリスがウサギの穴に飛び込み不思議の国に行くように別世界に入り込む。そして警官とすれ違い、服装や拳銃が違うことを疑問に思う。空には月が二つ浮かんでいた。青豆はこの新しい世界を1Q84=<Q=question mark>と呼ぶ。

青豆は暗殺者となる。この時期から行きずりの男を求める習慣が始まり、新たな友人として知り会う婦人警官の中村あゆみとバーで男漁りをする。

そして 「柳屋敷」の老婦人から子宮を破壊された10歳の「つばさ」のことを聞く。少女は『リトル・ピープル』の仕業だという。青豆は老婦人の依頼を受け、単身、男の殺害のため二人の用心棒が守るホテルの一室に向かう。この男こそが教団『さきがけ』のリーダーだった。

リーダーは「筋肉が硬直して麻痺状態になったとき、天から恩恵がもたらされ神聖な状況となり10代の信者たちが後継者を身籠るために性交を行う」と言い、その最初はリーダーの娘だった。

その特別な恩寵の代償として激痛に見舞われやがて死ぬ運命にあり、「青豆の手で苦痛を取り除き、命を奪ってほしい」と言う。

リーダーからの選択肢は二つ。<青豆が死に天吾が生き残る><天吾が死に青豆が生き残る>かを提示され、天吾とひとつになりたいと思う青豆だが、リーダーを殺し<青豆が死に天吾が生き残る>ほうを選ぶ。

この出来事と並行して、天吾とふかえりがチームを組んで『空気さなぎ』を書いたことで、深田親子(=リーダーと娘のふかえり)が天吾と青豆を結びつけていく。

老婦人(緒形静恵)とタマル(田丸健一)

『柳屋敷』の女主人、70歳代半ばの小柄な女性。名前は緒形静恵。青豆にはスポーツ・クラブで出会い個人指導を受けている。温室で珍しい蝶を育てるのが趣味。戦前に華族に嫁いだ有名な財閥の娘。夫は戦後実業界の大物の一人。夫の死後、投資会社と不動産の事業を継承し株式の運用に才能を見せる、政治の世界で今もなお強い人脈を持っている。現在は長男が事業を継ぐ。

気さくで聡明、自分の勘を信じて決めたことを貫く女性。長女は運輸省のエリート官僚と結婚するが、夫のDVによって36歳で自殺する。老婦人は長女を死に追いやった元夫に対して報復する。以来、私財を投じて暴力に苦しむ女性のために私設のセーフハウスを運営する。青豆を娘のように可愛がり信頼し、青豆も強く尊敬しており、老婦人の依頼で青豆はDVを行う男を静かに闇に葬る仕事を担った。

タマルは40歳前後で田丸健一という日本人名を持つが本名は朴。『柳屋敷』の老婦人のボディガード兼セキュリティの責任者。チェーホフを愛読する。頭はスキンヘッドで背は高くないが上半身が発達している。自衛隊のレンジャー部隊に所属していた経歴がある。空手の高位有段者で武器も使えるプロの仕事人。普段は冷静で知的。ゲイで美容師のハンサムなボーイフレンドと麻布の一角で暮らしている。

終戦の前の年にサハリンで生まれる。1945年の夏にソビエト軍に占領されて両親は捕虜となる。両親は朝鮮人で日本には戻してもらえなかった。タマルは日本人の帰国者の手に託されて北海道に渡り、縁組をして日本人名を貰うが14歳で孤児院を逃亡。苦労の多い人生のなか、老婦人に拾われて忠誠を誓っている身である。

『さきがけ』とは対照的に、『柳屋敷』は麻布の高台にあり、由緒ある家柄の上品な緒形静恵は、傷つけられた女性たちを救うという善意に満ちた篤志家。しかし裏側では強いネットワークを持つ実力者である。親友だった大塚環を失った青豆の復讐の司令塔の役割であり、復讐の連鎖が老婦人にも青豆にも次第に生命の輝きを失わせることになる。

つばさ

保護され相談所から老婦人の運営するセーフハウスに送られる。ひとことも口をきかず放心状態で言葉を失っていた。つばさは10歳でレイプされ子宮が破壊されていた。

一体誰がそんなことを?と青豆が訊ねると、つばさは「リトル・ピープル」と言った。『さきがけ』のリーダーからレイプされ、教団を逃げ出してきたのだった。老婦人は自分の娘の姿と重ね、つばさを養女にして育てるという。

つばさが眠っていると、口からリトル・ピープルが出てくる。全部で5人。ベッドから白い物体をひっぱり出し空気さなぎを大きくしていった。そして番犬のドイツシェパードのブンが、何者かの仕業で内臓がばらばらに飛び散って死ぬ。その翌日に、つばさはセーフハウスからいなくなった。

この一件で、老婦人は青豆に『さきがけ』のリーダーの殺害を依頼し、青豆も承諾する。不審者には挑みかかる番犬のブンがいとも簡単に殺され、つばさは姿を消す。これはリトル・ピープルの仕業であり教団『さきがけ』に回収される。

深田保(リーダー)

深田絵里子(ふかえり)の父親。戎野の親友で同じ大学で教鞭をとるが左翼の革命組織のリーダーとして70年安保闘争で大学を解雇される。十人の学生と妻とエリも一緒に『タカシマ塾』に入る。そこでノウハウを学び、独立して山梨県の山中に農業コミューン『さきがけ』を立ち上げる。

その後、革命派と穏健派に分派、穏健派の『さきがけ』は有機農法で事業を拡大するが、次第に過激化し宗教法人に変わり外部との関わりを遮断する。

深田保が『さきがけ』の核でリーダーと呼ばれる。大柄な男で髪が長く鼻が大きい。両眼は深く窪んでいる。顔立ちは整っていて静謐で知的な雰囲気を漂わせている。

筋肉が硬直して麻痺状態になると天からもたらされた恩寵として、神聖な状況で10代の巫女たちが後継者を身籠るために妊娠を目的に性交をしていく。それは多義的な交わりで、行為を通してリトル・ピープルを彼の中へと道く。

4人の10歳の少女と性交するが、その最初が実の娘のエリだった。そしてマザとなったエリを、戎野のもとへ逃がし影のドウタと切り離す。

ふかえりが『空気さなぎ』を書いたことで、リーダーは世界のバランスを保つために抹消されるべきで、青豆に命を奪ってほしいと願う。深田保はレシヴァ(=受け入れるもの)としてリトル・ピープルの声を聴く。物語では観念としてのリトル・ピープルこそが上位の存在である。

※『タカシマ塾』『さきがけ』『あけぼの』の説明> 

学生運動から帰農して農業集団となり、さらに偏狭なカルト宗教団体へ変遷する。リーダーを戴き、システムを構築し、人間の自由意志を阻害し囲い込む象徴として捉えている。

『タカシマ塾』は、コミューンのような組織で共同生活を営み農業で生計を立てる。規模は全国的で私有財産は一切認められず、持ちものはすべて共有となる。人の頭から自分でものを考える回線を取り外してしまい何も考えないロボットを作りだす。深田は農業技術をはじめノウハウを学ぶ。流通の仕組みや、自給自足の可能性と限界、共同生活の具体的な規則などを修得し自身の一派を引き連れてタカシマ塾を離れ、独立する。

『さきがけ』は、深田保がタカシマ塾から独立して山梨県で1974年に立ち上げたコミューンで、有機農法で野菜を栽培し通信販売を始める。タカシマ塾とは異なり私有財産を認め報酬もある程度配分する。やがてコミューンは二派に分かれる。ひとつは武闘派の革命指向グループで、もうひとつは自給自足の共同生活を行う穏健派のグループ。そしてついに1976年に分裂。エリが『さきがけ』から脱出し戎野のもとにやって来た頃、分派は『あけぼの』という新しい名前になった。

『さきがけ』は、それまでは平和に有機農業を営み、外部の世界に対して友好的な姿勢をとっていたが、7年前から閉鎖的になり、コミューンは高いフェンスでまわりを囲い要塞のようになった。平和な農業共同体ではなくなり、1979年には宗教法人の認可を受けカルト宗教団体となり農地と施設を拡張していく。

分離した『あけぼの』は、本拠地である「農場」と呼ばれる場所で表向きは有機農法による農業を営む。彼らは警察の立ち入り捜査を拒否し武装過激化し、1981年に本栖湖もとすこ近くの山中で山梨県警と銃撃戦になる。人々は60年代後半の派手な「革命」騒ぎは過去のもので残党も浅間山荘事件で壊滅したと思っていたが、まだ実戦部隊が存在したことに驚愕する。激しい銃撃戦の後、1981年に『あけぼの』は壊滅した。

大塚環(たまき)

青豆の唯一の、そして人生を決定づけた親友。高校のソフトボール部のチームメイト。たまきは山の手の裕福な家庭の育ちで社会的な地位も高かったが、両親の仲が悪く家のなかは荒廃していた。父親は殆ど帰宅せず、母親は錯乱状態にあった。環と弟は捨て置かれた状態だった。

環は一流の私立大学の法学部に進み法律家を目指した。大学1年生の時に、好意を持っていた1年上の先輩にほとんど無理やりに犯された。それを聞き、青豆はひそかに男の部屋を粉々にして報復した。頭は良かったが恋愛に関しては外見だけを重視し、内容の空疎な男ばかりとつきあい裏切られ傷つけられ、最後には捨て去られた。

24歳の時、二つ年上の男と結婚する。青豆から見れば端正な顔立ちだが深みは無く、口先がうまく人柄に厚みがなく、言葉に重みのない男だった。夫が許さず、大学院に通うのを辞め、法律の勉強も諦めた。絶え間ない夫の暴力で身体的にも精神的にも傷だらけだった。そしてついにDVに耐えきれず26歳の誕生日の前に首を吊って自殺する。

親友を殺された青豆は人間が豹変し、復讐のため首の後ろの特別な急所を狙えば相手を瞬時に葬ることができる細いアイスピックをつくり刺し殺した。そして青豆は『証人会』の祈りの言葉を反射的に捧げる。この瞬間、特殊な技能を持つ暗殺者の青豆が誕生する。

孤独な幼少時代を送った青豆にとって、環は唯一の親友だった。この環をDVで自殺に追いやった夫への義憤が、女性を暴力で虐げる男たちへの復讐の発端となった。そしてアイスピックで首の急所を一刺しで心臓麻痺に見せかけ殺す技術を身につけ、同時に青豆も殺人者という刹那な世界を生き始める。

あゆみ

26歳、独身。東京都新宿区在住。婦人警官で警視庁勤務。人を安心させる開放的で陽気な人柄と大きな胸を持つ。幼少の頃に兄や叔父に悪戯をされる。ミニパトに乗って駐車違反を取り締まる。父親も兄貴も警察官一家。丸顔で愛想が良く責任感も行動力もあり警察官としても優秀。バーで青豆に声をかけ二人でチームを組んで男を物色する。その後、仲良くなり青豆から頼まれ『さきがけ』の情報収集を手伝うが、ホテルの一室で何者かにバスローブの紐で首を締められ殺害される。

青豆にとって、あゆみは環を失った後の唯一の友人だった。物語の始めに警察の服装と銃が変わったことで1Q84の世界に入り込んだことに気づくが、その伏線的な登場人物の設定である。

二人で男漁りをして発散するが、あゆみは不審な死をとげる。その後、青豆が老婦人の依頼でリーダーの殺害に向かうが、「脆弱な部分が破壊される」と言われた。あゆみに『さきがけ』の調査を依頼したことと、リーダーの示唆から教団関係者の仕業であることが予想される。と同時に、「なぜ私でないのか」と青豆がリーダーに問うと「すでに特別な存在になっているから」と言われる。この「特別」とは、青豆が受胎していることを暗示している。

●天吾のストーリーラインで登場する人々

天吾はもう一方の主人公でBOOK1.2の偶数数のストーリーラインで展開されます。BOOK3には青豆と天吾に、牛河が加わり3章立てとなります。

天吾(川奈天吾)

30歳で独身。千葉県市川市の生まれ。少年時代から勉強もスポーツも音楽も出来て特に数学が優れる。高校、大学と柔道をやり筑波大学の数学主選考に進む。卒業して予備校の数学講師の傍ら小説家を目指す。大きな組織とは無縁の自由な生き方を選ぶ。

出自に疑問を持つ。1歳半の時に母親が父親でない若い男に乳首を吸わせていた記憶を抱える。父親からは母は天吾を産んですぐ病気で死んだと教わるがその言葉を嘘と思っており、あの時の男がほんとうの父親ではと考える。

父親の仕事はNHKの集金人で日曜は一緒に集金に回る。子ども連れだと断れないという父親の姑息な考えだが、親には逆らえず同じ歳の子供たちのように遊べない不自由が辛い記憶になる。

巷では視聴やTV設置の有無にかかわらず強引に料金を徴収するNHKが社会問題化されることもあり、天吾が受けた心の傷の大きさがトラウマとなり、日曜は時間が奇妙な流れ方をし光景が不思議な歪み方をして発作を起こしPTSDに似た症状がでる。

10歳の小学生のある日、天吾はクラスから疎外された孤独な青豆から手を差し伸べられ握りあう。その温かいてのひらと青豆の澄んだ瞳の記憶が、物語の起点となる。

大人になった天吾は、1歳半の母の記憶と父親への不信、日曜の集金の同道への嫌悪から父親と疎遠になる。現在、父親は認知症で療養している。天吾は父親を憎み、誰をも愛せず、自分自身も愛せない人生を送り続ける。

高円寺のアパートに住みこれまで何人かの女の子と付き合い、現在も人妻のガールフレンドがいるが、ほんとうに人を好きになったことはない。ずっと青豆の記憶があり大人になっても忘れられない。

天吾は編集担当の小松から新人賞の下読みの仕事を与えられ、17歳のふかえりの『空気さなぎ』を推薦する。それは小説というよりは口承を筆記したもの。強烈な印象を受けた小松は天吾に書き直しを依頼し、リライトされた『空気さなぎ』は新人賞を受賞する。

1Q84年では『空気さなぎ』の物語が次々に現実に起こる。

リライトしたことで、天吾はレシヴァとなり、『リトル・ピープル』の標的になる。

ではいつ、天吾は1Q84の世界に入り込んでしまったのか?

それはふかえりと一緒に作品のリライトの了承を得るために、戎野に会いに行く日曜日です。中央線新宿駅の立川方面に乗り、国立駅で「のりかえる」とふかえりが言い、青梅線に変わり「二俣尾」という駅に向かいます。この線路のポイントが境界です。このとき、ふかえりは天吾の手をとり、日曜日の発作を怖れる天吾に「こわがることはない。いつものニチヨウじゃないから」と言います。

天吾は1Q84年の世界で青豆を思い続ける20年の間、彼女を探さなかった自分の臆病さに気づきます。

そして昏睡状態の父親を見舞ったとき検査で不在となった父親のベッドに空気さなぎが現れ、その中に10歳の青豆のドウタを見ます。天吾は青豆を必ず見つけることを誓います。

ふかえり(深田絵里子/エリ)

本名は深田絵里子。エリ、ふかえりと呼ばれる。深田保の一人娘。父親は大学紛争を経て農業共同体を設立しやがて宗教団体のリーダーとなる。両親とともに『さきがけ』で育つ。

リーダーとふかえりは 観念として多義的に交わる。リトル・ピープルはリーダー(深田保)が代理人となると同時に、反リトル・ピープル作用の代理人にふかえりがなる。そしてふかえりは自らの影であるドウタを捨て、リーダーは古くからの信頼たる友人の戎野に娘のふかえりを託す。

『さきがけ』から単身逃亡し戎野の家で娘のアザミと三人で暮らす。7年後の1984年に、天吾が会ったふかえりは17歳の高校生で黒くて長い髪を持ち、美しい顔立ちをして印象的な目をしている。顔に表情がなく何を考えているのか計り知れない。限定されたボキャブラリーで話す。小さいときからディスレクシア(読字障害)だが、長い物語や外国語の歌を暗記する能力を持つ。「平家物語」も全文暗記している。

ふかえりは知覚し『空気さなぎ』を口承することで回復が始まる。それをアザミが筆記して天吾がリライトした。ここでパシヴァとしてのふかえりと、レシヴァとしての天吾の関係ができる。こうして小説『空気さなぎ』が出来上がり、回収され治療された。

『空気さなぎ』が新人賞を受賞し反リトル・ピープルのモーメント作用が大きくなる。

リトル・ピープルも激しく抵抗しふかえりは姿を隠すが、青豆にリーダーが殺されたことでリトル・ピープルの騒ぎはおさまり、関心はドウタを受胎した青豆に変わり、結果的に深田保と絵里子の父娘が、天吾と青豆を結びつける役割を果たす。

『空気さなぎ』の物語を読んだ青豆が、ふかえりと天吾がつくった「反リトル・ピープル的モーメント」の通路に引き込まれていくことになる。

※『空気さなぎ』の物語と『リトル・ピープル』

『空気さなぎ』はカルト教団『さきがけ』の謎が描かれたもので、ふかえりは「リトル・ピープルは存在する」と言う。『空気さなぎ』とは何なのか?『リトル・ピープル』とは何なのか?

主人公はふかえり自身。10歳のときに山中にあるコミューン『さきがけ』で一匹の盲目の山羊の世話をしています。山羊はコミュニティにとって特別な意味を持ち、何かに損なわれないように見張っている必要がありました。しかしうっかり目を離し、ふかえりは山羊を死なせます。彼女は懲罰を受けます。死んだ山羊と一緒に土蔵に十日間入れられ完全に隔離され外に出ることは許されない。その懲罰を受けているときに、リトル・ピープルと知り合います。彼らと共に夜毎、空気さなぎをつくります。その結果、彼女の身に大きな意味を持つことが起こります。彼女はその出来事を物語にする。山羊はリトル・ピープルとこの世界の通路の役をつとめている。リトル・ピープルが良き人々なのか悪しき人々なのか分からない。夜になるとリトル・ピープルは山羊の死体を通ってこちら側にやってくる。夜が明けると向こう側に帰っていく。少女はリトル・ピープルと話すことができる。彼らは彼女に空気さなぎの作り方を教える。

戎野は言います。

「人々の抱く個別的なイメージを相対化し、そこに人間にとって普遍的な共通項を見いだし、もう一度それを個人にフィードバックすることだ。そうすることによって、人は自立しつつ何かに属するというポジションを獲得できるかもしれない。(BOOK1_第12章)」

最初にリトル・ピープルを導き入れたのはふかえりでした。彼女はそのとき10歳で今では17歳になっています。暗闇の中から現れ彼女を通してこちら側にやって来て、リーダーを代理人とします。

彼女がパシヴァ(=知覚するもの)となり、リーダーがレシヴァ(=受け入れるもの)となる。そしてパシヴァとレシヴァが交わり、ひとつになります。

リーダーがリトル・ピープルの代理人となると、同時に、娘は反リトル・ピープル作用の代理人となります。そして自らのドウタ(生きている影)を捨てます。リーダーが深田保で、娘がふかえりです。

天吾の父

64歳、東北の貧しい小作農の三男に生まれる。満蒙開拓団の一員として満州に渡り開拓移民として苦しい生活を送る。1945年8月にソビエト軍の侵攻で全てを失い身ひとつで日本に戻る。闇市で食いつなぎ、満州時代の知り合いからNHKの仕事を紹介され委託集金人から成績優秀で正規集金人となる。

天吾が生まれてすぐに母親は死んだ、と何度も話し聞かせるが天吾は信じない。現役時代は仕事熱心で毎日曜に天吾を連れて集金に回り、徴収のために息子も利用した。支払いを渋るドア越しの相手への口上を聞きながら、大人になった天吾は父からの独立をはかり関係は疎遠になる。

NHK退職後は認知症患者のケアを専門にする千葉県の海辺の町、千倉の療養所に入る。2年ぶりに面会に訪れた天吾は、記憶を失っていく父親に対して自身の出自の謎を問いかける。父親はNHKの話をメタファーに天吾の出生の謎についての質問に答える。

私には息子はいない。そして天吾の父親は空白だと言い、天吾の母親は空白と交わって天吾を産んだ。そして目の前の男がその空白を埋めたという。ここでも『さきがけ』との何らかの関係の暗示と解釈できる。

父親はその後、体は健康だが生きる力を無くし、ある日、検査中の不在の父親のベッドに空白を埋めるように『空気さなぎ』が現れる。中には10歳の青豆がいた。

そして寝たきりの昏睡状態の父親の生き霊が、そこかしこに現れます。

天吾が留守の時にふかえりが一人いる部屋のドアを叩き、また隠れ家にいる青豆のマンションの部屋のドアを叩き、牛河が天吾の監視のために借りた1階の部屋のドアを叩き、どの部屋においても用心深く居留守を使う人々へ言葉巧みに料金支払いを督促します。一枚のドアを隔てた不気味な世界を醸し出し、そして父親の死とともに、収まります。

現実社会の大きなシステムの象徴がNHK。そして生きていくために、そのシステムに縛られ滅私奉公しながら、それを唯一の誇りとする天吾の父親の姿がある。NHKの服を着て火葬されるほどである。共同体に従属する異様さでもある。毎日曜に帯同される天吾の深い心の傷が描かれる。

戎野(エビスノ)

元文化人類学者。エリ(深田絵里子)の父親の深田保とは60年代からの親友で同じ大学で教鞭をとり「気鋭の学者」として売り出す。70年安保闘争で大学を退職。10年前に妻を交通事故で失くし、以降は娘のアザミと二人暮らし。深田保は戎野をもしものときにエリを託す相手と考えていた。

現在は投資コンサルタント。株取引で成功を収めている。7年前に宗教団体『さきがけ』から逃げてきたエリと娘のアザミの三人で山奥で生活する。戎野は深田夫妻と連絡を取ろうとするが『さきがけ』に阻まれ、警察も宗教法人には手を出せない。

そこでふかえりが口承しアザミが書いた『空気さなぎ』を天吾がリライトすることを承諾する。また小松の提案でペーパーカンパニーの代表になる。予想通り、書き直された『空気さなぎ』でふかえりは新人賞を受賞する。戎野はメディアの過熱ぶりを利用してエリの身に起こったことと深田夫妻の消息を知ろうと試みる。

戎野はこの物語の仕掛け人のような位置づけです。パシヴァとしてのふかえりの口承をアザミに記録させ、編集者の小松と連携しながら、天吾にリライトを承諾し新人賞を獲得することで話題化し、『空気さなぎ』の世界を流布し、カルト教団『さきがけ』の存在や謎に耳目を集め反リトル・ピープルのモーメントを拡大していきます。

小松祐二

45歳で文芸雑誌の編集者。長身で痩せて口が大きく鼻が小さい。東京大学文学部卒業で60年安保闘争の学生運動組織の幹部クラス。奥さんと子供がいたが離婚した。文芸誌の編集一筋、やり手として知られるが私生活は誰も知らない。

天吾に新人賞応募の下読みの仕事を与えるが、天吾が推薦するふかえりの『空気さなぎ』で企てを図る。天吾に書き直しをさせ新人賞を受賞させ、大きな話題をつくり大きく金を稼ぐことを計画する。その後、ふかえりの後見人であり知己であった元文化人類学者の戎野を代表に、ペーパーカンパニーを設立し大々的に売り出していく。

安田恭子

天吾の10歳年上の人妻のガールフレンド。夫と子供が二人いる。週に一度、天吾のアパートに来てセックスをする。一年ばかり関係が続く。彼女は子どものいじめのことを電話で話す。自分がいじめられないためには、排斥されている少数の側ではなく排斥している多数の側に属することで、安心できることを憂鬱そうに語る。

夫がいるので天吾からは連絡をせず、彼女から電話がくるのだが、ある日、夫から突然、電話で「家内はもうお宅にお邪魔することができないと思います」と連絡がある。そして「家内は既に失われてしまったし、どのようなかたちにおいても、あなたのところへはもううかがえない」と言われる。

夫と息子がいる人妻が、天吾という別の男と関係を持っている。このことを天吾は、自身の1歳半の記憶である「母親が他の男に乳首を吸わせている」ことの因果が巡っていると考える。そして「失われ」「どのようなかたちにおいても」という言葉から、『さきがけ』に回収されたことが暗示される。

●天吾と青豆の物語を繋ぐ役割をするもう一人の男のアナザーストーリー

BOOK3では、青豆と天吾に、牛河が加わり3章立てで展開されます。

牛河利治

背の低い40代の離婚歴のある男。埼玉県浦和市生まれ。父親は病院を経営し母親は経理を担当する裕福な家庭に育つ。兄と弟はともに医者でハンサム。外見は牛河だけが例外的。背が低く頭が大きく、いびつに飛び出した眼球、歯並びが悪く、背骨が妙な角度に曲がり、脚は短い。エリートの一家にあって彼は「異物」だった。

運動神経は悪いが学科の成績は優秀で二十五歳で司法試験に合格。容貌のせいで屈折する牛河は、裏社会の弁護士となり『さきがけ』のリーダーに気に入られ、組織ではなく個人的に仕事を任せられる。

高い収入、中央林間の一軒家、妻と二人の子供、血統書付きの犬と暮らすが離婚する。やがて弁護士も辞め悲哀に満ちた人生に転落。財団法人 新日本学術芸術振興会 専務理事なるダミー会社を作り個人の探偵業で情報収集リサーチャーを行う。

牛河は青豆のストーリーラインと天吾のストーリーラインをクロスし橋掛けし、二人を繋ぐ役割となっています。

天吾のストーリーラインでは牛河は『さきがけ』のリーダーから依頼された交渉代理人として天吾に近づく。ふかえりとの関係を探るために、年間300万円の学術振興の助成金の話を持ちかける。さらに天吾の母親のことも知っていると持ちかけるが、天吾は母親のことは聞きたくないと断る。

青豆のストーリーラインでは、牛河は『さきがけ』のリーダーから依頼されマッサージ治療の適任者として綿密な調査の上で青豆を推薦するが、リーダーは青豆に殺される。用心棒の坊主頭とポニーテールの二人組に強い圧力をかけら、殺害の企図と青豆の行方を調べないと身の安全が脅かされる。

持ち前のしぶとい忍耐力で調べ上げ、次第に核心に近づきついに天吾のアパートを見つけ、一階を借りて隠し撮りしながら青豆が現れるのを待つが、この行為が天吾と青豆を繋ぐ運命の糸となっていく。

ある日、天吾を追いかけた公園の滑り台の上で自らも二つの月を見てしまう。そして逆に、青豆に感ずかれ、老婦人のボディガードのタマルにより殺される。それは月が二つ見えた青豆と天吾の純粋さに対して、幼少からの現在まで辛酸をなめてきた牛河の憐れな最期だった。死んだ牛河の口からリトル・ピープルが出てきて、魂の一部は空気さなぎに変わろうとしていた。

青豆と天吾のハッピーエンドに対して、牛河のバッドエンドを読者は確認しながらBOOK3ではアナザーストーリーとして牛河の人生を楽しめる。