日本は沼地であるということー神と個人の関係と、自然と共同体の関係
この国は沼地だ。やがてお前にもわかるだろうな。この国は考えていたよりもっと怖ろしい沼地だった。我々の植えた苗の根は少しずつ腐っていたことを知った。
この言葉を発したのは「稀に見る神学的才能」と「不屈の精神」と定評だったフェレイラです。
「知ったことはただこの国にはお前や私たちの宗教は所詮、根をおろさぬということだ」フェレイラは二十年間の布教活動においてその結論に達したのです。信者が四十万をこえる時代もあったが、結局は根付かなかったと言います。
日本人の信じたものは、我々の神ではない。彼らの神々だった。日本人がキリスト教徒になったと思いこんでいた。
「日本人は神の概念はもたなかったし、これからも、もてないだろう」そして「日本人は人間とは全く隔絶した神を考える能力をもっていない。日本人は人間を超えた存在を考える力を持っていない」
キリスト教が滅びたのは、禁制のせいでも迫害のせいでもない。この国にはキリスト教を受け入れぬ何かがあったと、フェレイラは結論づけます。
布教が根付かなかったカトリックの宣教師たちにとっては絶望的ですが、逆の言い方をすれば、大航海時代にポルトガルやスペインは世界を二分するほどの勢いであるにもかかわらず、キリスト教の普遍が日本には通じないのです。
『沈黙』では、迫害されるキリシタンと弾圧する幕府、長崎奉行の構図ですが、島原の乱以降は、仏教を選ぶことが義務づけられ、信教の自由がなかったことは事実です。
ユダヤ教やキリスト教、イスラム教のような厳しい自然の環境下での発祥と日本は全く素地が異なります。ときに自然が猛威を振るうこともありますが、海に囲まれた温帯の島国で外敵の侵入も少ない。そこで自然を大切にする宗教となります。
<日本の自然や風土、死者への態度>―神道や自然信仰や祖先崇拝、そこに伝来した仏教を神仏習合というかたちで融合させます。さまざまな自然現象に魂を感じ神を宿し、その戴に天上様を置きます。
仏教の教えも日本的な宗派が生まれ、浄土宗や浄土真宗のように念仏を唱えれば天上界にいけるという思想も生まれます。日本人にとっては神社仏閣が宗教の場です。
柔軟に賢明な知恵をだし仏教すら呑み込んで神と融合させ異なる形に変えてしまう島国の日本、これが「沼地」なのです。
神の『沈黙』をあつかった宗教の根源的な問いの中で、もうひとつの日本の神々―それは物語を通して、人間の行為と共に在る自然ー光、闇、月、風、波、温気、臭気、動物、植物、虫たちの存在ーが八百神の神として時間の変化を見守っている。
<中世社会におけるキリスト教の位置づけ>―世界を創造した絶対唯一の神であり、人間も自然も神の創造物であり、神との契約を破り原罪を背負う人間は、神に悔い改めなければならないと考える支配的なキリスト教とは相いれないのです。キリスト教は、神と個人の関係です。その意味では個人主義の考え方です。
日本人は自然と共に在る有機体のひとつです。自然の中に、精霊が宿るとする日本人の信仰心。
農民たち信徒がゼウスを大日と同じと考えていたり、モニカの考える天国、仏像のように偶像崇拝を重んじロザリオや十字架を欲したり、年貢の取り立ての厳しい極貧の生活から救いを求めるご利益の姿、すべての混沌のなかに信仰心があります。
宣教師たちを送るスペインやポルトガルの目的は、キリスト教こそが普遍的な絶対の宗教として、布教先の既存宗教を邪教として改宗させ、正しい信仰の道へと導くという大義のために、はるばる海を越えたのです。
キリスト教のみが正義であり、善であると信じます。森羅万象に神が宿るとするアニミズムも多神教も、キリスト教以外の神はすべて未開野蛮な信仰で、キリスト教徒によって征服されるべき邪教と考えられました。
「進化の遅れた野蛮人や未だに文明開化を迎えていない人々に、有り難い西欧文明の恩恵をもたらすことこそが西欧の白人たちが担う使命だ」と考えます。
井上筑後守は「異国であるスペイン、ポルトガル、オランダ、イギリスが日本を狙っており、日本はそれを排除しなければならない」と四人の醜女の深情けに例えを引いて説きます。
通辞が「有難迷惑である。我等には我等の宗教がある。キリシタンたちは“デウス”こそ大慈大悲の源。すべての善と徳との源と申し、仏神はみな人間であるからこれらの徳義は備わっておらぬ」と言うが、それは「パードレの宗旨、そのものの正邪をあげつろうているわけではない。エスパニアの国、ポルトガルの国、その他諸々の国には、パードレの宗旨はたしかに正とすべきだろう。我々がキリシタンを禁制としたのは、重々、勘考の結果、その教えが今の日本国には無益と思うたからである。」とします。
ロドリコは「正は普遍である。正はいかなる国、いかなる時代にも通じるから正と申します。ポルトガルで正しい教えはまた、日本国にも正しいのでなければ正とは申せません」と教義をかざす。
通辞が「ある土地では稔る樹も、土地が変われば枯れることもある」と話すと、ロドリコは「布教をお許しになったときには日本国の信徒は三十万を数えた」と反論します。
通辞は「お前らが日本国に身勝手な夢をおしつけよるためにな、その夢のためどれだけ百姓らが迷惑したか」と答えます。そして「憐憫は行為ではなく、愛でもない。憐憫は情慾と同じように一種の本能に過ぎない」と加えます。
仁慈の道とは畢竟、我が身を棄てること。我とは徒に宗派の別にこだわること。人のために尽くすことは仏の道も切支丹も変りはあるまいて。肝心なことは道を行うか行わぬかだ。
これは棄教したフェレイラが沢野という日本名になり、デウスの教えとキリシタンの誤りと不正を暴く “欺瞞の開示あるいは暴露” の書物「顕偽録」のなかに書いた一文です。
なるほど、日本人の精神にはこの一文の方が理解しやすく、賛同できるのではないでしょうか。
私たちは「人間」という言葉が人類全体を指すと安易に考えますが、当時のヨーロッパ社会では違います。<神が自分の姿に似せて造ったのは白人のみ>という解釈が一般的です。白色人種の明らかな有色人種への優越です。布教が植民地政策の先兵であることは歴史上、否めません。
沈黙―それは奇跡を起こす神ではなく、弱き者と共に苦しみを分かつ神。
神は、なぜ「沈黙」し続けるのかというロドリコの問い対する、答えはあったのでしょうか?
キリスト教弾圧が激しくなり、トモギ村のモキチとイチゾウは、熱心なキリシタンであることが分かる。モキチとイチゾウとキチジローの三人の信者が「踏み絵」をせまられる。「踏んでもいい」と司祭ロドリコは言う。
「なんのために、こげん責苦ばデウスさまは与えられるとか。パードレ、わしらはなんにも悪いことばしとらんのに」モキチとイチゾウは牢獄され、転んだキチジローだけが労から出され姿をくらませた。
モキチとイチゾウは水磔に処せられる。遺体はキリスト教の埋葬ができないように火で焼かれ、遺灰は海に捨てられた。
“参ろうや、参ろうや、パライソの寺に参ろうや” と刑場にひかれる時に歌う信徒。
苦しいゆえに、ただパライソの寺をたよりに生きてきた百姓たち。もし神がいなかったとしたら、モキチやイチゾウの人生、この国に辿りつた宣教師たちはなんと滑稽なことだ。
最大の罪は神に対する絶望。しかし信徒たちがこれほどまでに迫害にあい、弾圧を受けているのに、なぜ神は黙っておられるのか。
ロドリコは、これまで聖人伝に書かれていたような―魂が天に帰る時、栄光の光が満ち、天子が喇叭を吹く輝かしい殉教を見すぎたー現実は、こんなに惨めで、こんなに辛いもの。
聖書のなかには、さまざまな奇蹟をみせ神であることが証明される。なぜ罪のない純粋な信徒の前で、奇蹟は起きないのか?なぜ、神は「沈黙」し続けるのか?
捕らわれの身になったときに、白瓜を分けてくれモニカ、パライソに行けば飢餓も病の心配もないと信じていた。彼らにみじかい祝福すら与えられなかった。
ロドリコに棄教を促す井上筑後守、司祭が転ばなければ、信徒が殺されていくと迫る井上は棄教した奉行であり、狡賢い。
「踏み絵」が始まる ーただ踏みさえすればそれでよい、踏んだとて、心底の信仰がどうなるのでもあるまい― 踏み絵を拒んだジュアンが首を刎ねられる、蝉が鳴き続けている。一人の人間が死んだのに何も起こらなかった。神は何故、静けさを続けられる。
神は頑なに沈黙を守ったままである。果たして信者の祈りは、神にとどいているのか、いやそもそも、神は本当に存在するのか。ついに神の「救い」は現れない。
ロドリコは祈る ーしかしこれでは賛美ではなく呪詛だ― 転ばない自分が望んでいるのは、本当の殉教ではなく、虚栄のための死なのか。信徒たちに讃めたたえられ、祈られ、パードレは聖者だったと言われたいのか。
牢のなかで「LAUDATEUM」と壁にラテン語で刻まれた跡を見つける。それでも祈り続けた宣教師がいたことに勇気づけられる。
遠くで鼾の声を聞きロドリコは笑う。自分が死を前にした感情のときに、別の人間が呑気に鼾をかいているのが滑稽だった。愚鈍な鼾、無知な者は死の恐怖を感じない。
それは、穴吊りにかけられた信徒たちが、呻いている声だった。
通辞の傍にいた沢野と名を変えたフェレイラが教えてくれた。誰かが、鼻と口から流しながら呻いている。自分はそれに気づかず祈りもせず笑っていた。自分だけが主と同じ苦しみを味わっていると傲慢に信じていた。
「LAUDATEUM(讃えよ、主よ)」と刻んだのはフェレイラだった。彼は「私が転んだのは、自分が穴につるされたからではない。三日間、一言も神を裏切る言葉を言わなかった」そして「わたしが転んだのはあの声に、神は何ひとつなさらなかったからだ」
主よ、あなたは今こそ沈黙を破るべきだ。正であり、善きものであり、愛の存在を証明し、厳としていることを地上と人間たちに明示するために何かを言わなければならない。
フェレイラ「祈りは苦しみを和らげない」と言う。ロドリコは「地上の苦しみの代わりに永遠の悦びをえる」と懸命に答える。
フェレイラは「自分の弱さを美しい言葉でごまかしている。彼らより自分の救いが大切で、死に行こうとする彼らのために教会を裏切り、教会の汚点となることを怖れている。それが愛の行為か」と言う。
司祭はキリストにならって生きよと言う。もしここにキリストがいられたら、彼らのために転んだだろう。キリストは、人々のために、たしかに転んだだろう。愛のために、自分のすべてを犠牲にしても。
さあ、今まで誰もしなかった一番辛い愛の行為をするのだ、教会よりも、布教よりも、もっと大きいものがある。
ロドリコは、自分の生涯のなかで最も美しいと思ってきたもの、最も聖らかと信じたもの、最も人間の理想と夢にみたされたものを踏む。この足の痛み。
その時、踏むがいいと銅板のあの人は司祭にむかって言った。踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。
神は沈黙していたのではなく、弱き者たちと共に苦しんでいる。「踏むがいい」いうメッセージは、その痛みを分かつのが私の存在であるという。それは弱き者への神の「愛」に通じている。
それは奇跡を起こす神ではなく、ましてや権威化されたローマ教皇のカトリック教会でもイエズス会でもない。弱き者と共に在る神であり、「沈黙」は痛みを分かつために、神の存在の意味があるのだ。
踏絵を踏むことで初めて自分の信じる神の教えの意味を理解したロドリゴは、自分が今でもこの国で最後に残ったキリシタン司祭であることを自覚する。苦悩の末、棄教したロドリコは死の最後まで内なる宗教心を捨てなかった。そしてキリストはその苦悩をご理解下さった。
江戸屋敷に移ったロドリコは岡田三右衛門と名乗る、死んだその男の女房をもらった。
ロドリコはこの国で今でも “最後の司祭” なのだ、そしてあの人は沈黙していたのではなかった、たとえあの人は沈黙していたとしても、今日までの人生があの人を語っていた。虚栄心をほんとうに弱きものへの愛に変えた。それは主を思い、ともに感じたことで得られたことだった。